雨が海に降る
天気予報を見ていた。
風呂から上がりハイボールの二杯目に口をつけていた。明日は晴れてくれないだろうかとぼやきたくなるのは、曇り続きでようやく歩道の雪がうっすらとなっただけで、厚いコートはまだまだ手放せないからだった。
住まいのある、勤務地のある場所を見る。天気図、低気圧が近づいている。雨雲レーダー、雨雲が一帯に停滞している。雪ではなく、雨、になるそうだ。
ハイボールを空け、歯磨きをしようと座椅子から立ち上がった。雨雲の動きのシミュレーション、予報図が時間経過とともに動いていた。明日は雨。どっちにしろ、やはり気が重くなりそうだった。
酔ったせいだろうか、視点がとらえた。住まいのある場所ではない、勤務地ではない。親戚のいる中部地方でもない。海に、である。海に雨が降る。そうか、雨が海に降るのか。アラフォーまで生きてきて、そんな当たり前のことがここに妙に気になった。いや、むず痒い感じになった。雨が池の水面を打ち付けるのは見たことがあった。うん、雨が池に降ったんだな。海は? どうしてか、納得ができない感じがおさまらない。水面に滴り、いくつものミルククラウンが形成される。水たまりでも、田んぼでも、川でも池でも湖でも、海でも。海を打ち付ける雨、それを想像することだけがどうにも落ち着かない。雨が海面を打ち、ミルククラウンができる、しかし、それは波によって飲み込まれる。どこにも納得できない、落ち着かない要素はない、はずだ。
中学生で習った天気の授業でも、これまでの人生の時間の中でもこんなことはなかった。高校時代、ウェインドブレーカーを着てアップをしてゴールに向かった200m走でずぶ濡れにさせた雨。失恋をして居酒屋で友人に管を巻いて帰り路で土砂降りになったおかげでなんかどうでも良くならせてくれた雨。通勤でスーツの裾や袖が濡れてしまうのが嫌で傘をささなければならない雨。
雨が海に降る景色、それを見たことがないからそんな風に感じるのだろうか、と推論をしてみた。雨降ってんのになんでわざわざ海に行かなきゃならん、と投げやりが推論を邪険にした。この天気予報をする気象予報士が初めて見る、何ともかわいらしい人だから、とまるで因縁をつけるみたいなことだろうか。アラフォーだぞ、バカなことを言うもんじゃない。単に雨の日に出勤したくないだけだろう、と耳打ちしたのは自分の中の天使なのか悪魔なのかは知れない。
海にも雨は降る。ブリは傘をささない。カニはレインコートを着ない。僕は海に生きないから、傘をさす。
歯磨きしながらショッピングサイトでレインコートを注文した。