02.無限湧きなんだが
教室が混乱に満ちた。
女子生徒は悲鳴を上げ、男子生徒からは怒号が飛んでいる。
真白はそんな彼らを尻目に、現れたゴブリンのような生き物がどんな行動をとるのか観察していた。
真白は傍から見れば落ち着いているように見えるかもしれないが、真白とて驚愕しているし、何が起きているのかわかっていない。
ただ慣れているだけなのだ。何かに襲撃されるということに。今まではそれが同じ人間だったのが、初めて見る生き物に変わったというだけで。
ゴブリンの数は全部で三十六もいた。
ゴブリンは最初こそきょろきょろと辺りを見回していたが、周りの人間たちに気付くと、急に口角を上げた。
間違いなくそれは笑っている顔だ。獲物を見つけたと言わんばかりに。
怯える生徒たちに対して、ゴブリンたちがとった行動に躊躇はなかった。
ゴブリンたちは手に手に持ったナイフや棍棒のようなものを振りかざして襲ってきたのである。
ゴブリンは身近の男子生徒にナイフを突き立て、棍棒で体を打ち据えた。女子生徒にも襲い掛かるのだが、奴らは女子生徒は殺そうとせず、服を引き裂き始めた。
どうやらファンタジーの設定でよくあるように、男は殺して食らい、女は犯して孕ませるつもりらしい。
――やっぱりそうなるか。
あちこちで悲鳴が上がる中、真白の近くにもゴブリンが迫って来ていた。
迫ってくるゴブリンに対して、真白は何の躊躇もなく行動を起こした。
持っていたシャープペンシルを目玉に突き刺したのだ。
「ギギャア!」
目玉を突かれたゴブリンは、その目を押さえて後退する。
しかし真白はまたしても何の躊躇いもなく、突き刺さっているシャープペンシルを素手で殴ったのである。
シャープペンシルがゴブリンの脳髄までへと突き刺さり、そのゴブリンは痙攣しながら後ろ向きに倒れた。
確認している余裕はなかったが、絶命したに違いない。
真白の拳にはまだその感覚が残っている。
気持ち悪い、とは思わなかった。
今までにも人を殴ったことはある。その時だって人を殴る気持ち悪さは感じなかった。その時も、今の真白にあるのも高揚感だ。
生き物を殴った感覚が、殴り殺した感覚が、真白に生を感じさせてくれる。自分は今ここにこうして生きているのだと。
真白は自分が殺したゴブリンの持っていたナイフを拾った。
そしてそれを別のゴブリンの頭蓋に突き立てる。ナイフはどうやら脳髄まで達していないらしく、ゴブリンは健在だ。
真白は獣の如く態勢を低くすると、自分より背の低いゴブリンの懐までもぐりこんだ。
左の拳に力を籠め、ゴブリンの腹目掛けてアッパーカットを放つ。
柔らかい手応えと、固く何かが割れるような手応え、どうやら肋骨を何本かへし折ったようだ。
そこまでするつもりはなかったのだが、どうやら存外にゴブリンというのは脆いらしい。
ゴブリンが腹を抱えようとして丸くなる。
頭を下げたことによって現れた、頭蓋に刺さったままのナイフを殴った。ナイフは奥まで押し込まれ、ゴブリンはグリンと黒目を上に向けると、そのまま絶命して倒れた。
再び死んだゴブリンの持っていたナイフを奪ったとき、悲鳴と共に真白の名を呼ぶ声が聞こえた。
「いやぁ! 助けて! 助けて、真白君!」
真白は一つ舌打ちすると、声のする方に走って行って、一人の女子生徒に群がっている三体のゴブリンを連続で殴り飛ばした。
自分で真白の名前を呼んだくせに、助けてくれるとは思っていなかったというような、驚いた顔をしている。
「あ、真白君」
その声の主はやはり幼馴染の桃華だった。
桃華は服を引き裂かれ、白い柔肌を露出しているが、どこにも怪我は無さそうである。
「あとは自分で何とかしろ」
真白はそれだけ言って、持っていたナイフを桃華に渡した。
「……うん!」
桃華は涙を流しながらではあるが、力強く頷いた。
そしてすぐさま状態を起こし、倒れているゴブリンの胸にナイフを突き立てた。
「ギェッ!」
一度だけではなく、何度も何度も突き立てる。
ゴブリンはそのたびに悲鳴を上げるが、すぐにそれも聞こえなくなった。
――女って怖いな……。
普段暴力とは無関係のはずの桃華が、簡単にゴブリンを殺すのを横目に見ながら、真白も倒れたゴブリンの頭を踏み抜き、手に持っていた小ぶりの棍棒を奪った。
とりあえず近くにゴブリンはいない。
真白は生徒たちに背を向け、扉に向かって歩き始めた。
もちろん妹を助けるためだ。
自分たちだけがこんな事態に陥っているとは考えづらい。その証拠に教室の外からも悲鳴が聞こえてきている。
一時は興奮して近くのゴブリンを殺すのに夢中だったが、今は妹を助けなくてはという焦燥があった。
真白が歩き始めるのと同時に、委員長の声が教室に響き渡った。
「みんな、落ち着け! こいつらはそんなに強くない。冷静に対処すれば大丈夫だ!」
委員長は先の折れた箒を手に持ってそう叫んでいた。
そして生徒たちを守りながら箒でゴブリンを打ち倒している。
真白はこのクラスの人間などどうでも良かったのだが、運悪く委員長がこちらに近付いてきてしまった。
「光坂君、ここは僕に任せて君は妹さんのところに向かってあげてくれ」
どうやら手伝えというような話ではなかったようだ。
「……はぁ」
内心「言われんでも行くわ」と思いつつも、時間の無駄を避けるべく、適当に受け流して歩き始めた。
「待って、私も行く!」
振り向けば、桃華が肩で息を切らしながら、こちらを真っ直ぐに見つめている。
こんな状況でなければ「俺に関わるな」と冷たく突き放していたことだろう。
しかし事態が事態だけにどう答えるべきか躊躇した。もしかしたら人手は一人でも多い方が良いかもしれない。
「わかった。鳴神さん、光坂君を頼むよ」
真白が答える前に委員長が勝手に決めてしまった。
普段であれば文句の一つでも言うところだが、今回ばかりは大人しく許すことにした。大切な妹の命が掛かっているのだから。
「いいけど、自分の身は自分で守れよ」
「うん、ありがとう」
ボロボロで返り血に濡れた顔なのに、それでも桃華は柔らかく微笑んだ。
本来礼を言わなければいけないのは真白の方だ。ここにいた方が安全かもしれないのに、茜を助けるためについて来てくれるというのだから。
もちろん桃華にとっても、茜は妹同然の存在に違いない。茜を助ける理由はそれだけで十分かもしれないが、それだけではないことが分かっていた。
きっと贖罪のつもりなのだ。
かつて裏切ってしまった幼馴染に対しての。
――別に許してやってもいい。
こんな危機的状況になって、真白に初めてそんな思いが過っていた。
ただ許したところで、何かが変わるわけではない。
桃華を許したところでかつての真白が戻ってくるわけではなかった。もう無条件で人を信用できるようになるわけでもなかった。
人には悪意がある。
それを忘れることなんて、できるわけがないのだから。
真白と桃華が教室を出る。
すると、再び光と共にゴブリンが二人の目の前に現れた。
現れたゴブリンは二匹だけだ。
「邪魔だ!」
真白はゴブリンを左フック、右フックと立て続けに殴り飛ばすと、止めを刺さずに先を急いだ。
茜の教室は一つ下の階だ。
急げば間に合うだろう。
ゴブリンは男相手には容赦なく命を奪いに来るようだが、女は命を奪うのではなく凌辱しようとするらしい。
であれば、少なくとも命は無事のはずだ。
もっとも、最愛の妹が化物に弄ばれている姿を見るのも耐え難いのだが。
真白は一気に階段を駆け下り、茜のいる教室の扉を開けた。
「茜!」
教室の中には緑色の化物共がひしめいていた。
そこら中が緑一色で、あとは転がっている男子生徒の死体が三つほどあるだけだ。
「くそがぁ!!」
真白は手当たり次第ゴブリンを殴り飛ばし、武器を奪ってはそれをゴブリンに突き刺した。
「真白君!」
後から追いついた桃華も加わり、容赦なくゴブリンにナイフを突き立てていく。
五匹、六匹と殺したところで、ある異変に気付いた。
目の前にいるのはゴブリンばかりで、人間がいないのだ。
「真白君、よく見て!」
ゴブリンが群がっていたのは人間に対してではなかった。
真白が桃華に言われて我に返ると、ゴブリンの群れの先に机や椅子がいくつも積み重ねられていた。ゴブリンはそれに群がっていたのだ。
「バリケードか……」
どうやらこの短時間で誰かが指揮を執ってバリケードを築いたらしい。
これならば茜は無事だろう。
しかし状況は依然として予断を許さない。
むしろ追い詰められたのは真白たちの方だった。
三十匹以上いるゴブリンの標的が、バリケードの先にいる生徒たちから、バリケードの外にいる真白と桃華の二人に変わったのだ。
ゴブリンたちはすでに後ろを振り返って、真白たちを舌なめずりしながら見つめている。さらに後ろにも回り込まれ、退路を断たれてしまっていた。
桃華が真白の傍らに立った。
「真白君、ごめんね。真白君が苛められていた時、私は何も出来なくて。ううん、それよりもっとひどいよね。真白君に関わらないように避けたんだから」
「ああ、本当に酷い奴だ。デカいのは胸ばかりで、度量は狭くて矮小で友達甲斐もない。あと、死亡フラグ立てんな」
「うん、ごめん」
ゴブリンたちがにじり寄ってくる。
一匹一匹はさして強くないといっても、三十匹以上が武器を持ち、逃がさないように二人を取り囲んでいた。
「お兄ちゃん! そこにいるの!?」
バリケードの向こうから茜の声が聞こえた。どうやら無事だったようだ。
真白は茜には声を返さず、桃華を見た。
桃華も真白を見詰める。
「真白君。私ね、真白君が好き」
真白は苦笑いした。
「だから死亡フラグ立てんなって。許してはやるけど、そっちはごめんなさい。でもおっぱいは見たいです」
「何それ、最低」
桃華はそう言って笑った。
茜に自分の存在を伝えるわけにはいかなかった。
もしそうすれば、茜はバリケードを崩して助けに来ようとするだろう。最愛の妹を危険にさらすわけにはいかなかったのだ。
桃華もそれを理解してくれているらしい。
この場で真白と運命を共にしようとしてくれているのだから。
悪くない死に方だ。
真白は絶体絶命の場にあって、穏やかな気持ちでそう思えた。
苛めに遭って、孤独に苛まれて何度も自殺しようかと考えた。死ねば楽になれるのだろうか、そう考えると楽になり、そんな自分が惨めでしょうがなかった。
だが戦って死ぬなら、妹を守るために死ねるなら本望だ。
最後にかつての友達を許すことも出来た。
心残りといえば、自分なんかを好きだと言ってくれたその友逹を、巻き添えにしてしまうことくらいだろうか。
「ギィィィィィ!」
ゴブリンどもが一斉に襲い掛かってきた。
真白とてただで殺されてやるつもりはない。
跳んできたゴブリンをカウンターで殴り飛ばし、近付いてくるゴブリンも蹴り飛ばし、棍棒を振るった。
しかし数の暴力には勝つことが出来ない。
ゴブリンを三匹殺す間に腕を斬りつけられた。
また三匹殺す間に足を刺された。
今度は二匹殺す間に脇腹を刺された。
刺される、噛まれる、殴られる。
真白は返り血なのか、自分の血なのかもわからないほど赤黒く染まっていた。
視界には靄が掛かり、意識もはっきりとしない。
それでも立っていた。まだ立てていた。
桃華もまだ立っている。
彼女も傷だらけだが、真白よりはマシなようである。代わりに服が引き裂かれ、生まれたままの姿とあまり変わりない。
なんとか桃華だけでも逃がせないかと考えたのだが、それは無理そうだ。
あれだけ殺したはずなのに、ゴブリンの数が変わっているように見えないのである。戦い始めた時と変わらずに、三十匹以上のゴブリンが二人を取り囲んでいた。
――違う、殺した分だけ補充されてるんだ。
真白はようやくそこで気付いた。
ゴブリンは初めとまったく数が変わっていないのだ。殺した数と同じ数のゴブリンが、光と共に出現しているのである。
「まぁ、……いいか」
すでに四十以上のゴブリンの死体が転がっている。
桃華と二人でこれだけ殺したのだ。
たった二人でこれだけ戦えた。戦果としては十分のはずだ。
誰も讃えてくれないのだとしても、奇妙な満足感があった。自分は生き抜いたのだという。たとえ次の瞬間に惨たらしく殺されるのだとしても。
真白がついに膝をついた。
傍らには桃華もいて、彼女は真白を抱きしめた。
真白が桃華に笑いかけると、彼女も笑みを返した。
ゴブリンが再び一斉に躍りかかってくる。
そして次の瞬間、世界は静止した。