01.ゴブリンが出たんだが
ある日それは突如現れた。
一言でそれを表すなら『空飛ぶ超巨大卵』だ。
どれくらい巨大なのかといえば、日本で一番有名な怪獣のハリウッド版ほどである。
それが何の前触れもなく、気が付いたらオフィス街の上空に浮かんでいたのだ。
もちろんパニックになった。それは日本だけでなく、世界中に現れていたのだから、世界中が未曽有の混乱に陥った。
宙に浮かぶその卵は、海外では『モノリス』と呼ばれ、日本では単に『デカ卵』と呼ばれた。
デカ卵は異星人の乗った宇宙船なのか、それともどこかの国が作った兵器か何かなのか、どこからも誰からも何の発表もなく、こちらからの呼びかけにまったく応じないそれはただただそこにあり続けた。
あまりにも不可解で不明なそれは、地球人が作ったものではないと結論付けられ、一番警戒すべきはやはり侵略であるとされた。しかし一日経っても、一週間経っても、二週間経っても何も起きない。
だが、ひとまず異星人たちによる侵略はすぐに起きなかったものの、それはそこにあるだけで世界を恐慌に陥れた。
世界中のあちこちで暴動が起き、接触を図るべきだ、もっとよく調査すべきだ、今すぐ先制攻撃すべきだと、いろんな意見が飛び交い争い合った。
といっても、それは海外の話で、日本は初めこそ混乱が起きたものの、すぐに沈静化された。
向こうから何もしてこない以上、何をどうすることもできない。
日本人は普通に働き、普通に通学し、普通に家事をし、普通に過ごし始めた。
パニック映画やSF映画でよくあるような暴動なんて、日本には通用しなかったのだ。
~~~~~~
彼の周りには何もなかった。
彼は真っ暗な闇の中に、ただ存在する。
何の音も聞こえない。闇以外何も見えない。自分が立っているのか、寝ているのかもわからない。
ここはどこだろう、自分は誰だろう、疑問は尽きないが、それもすぐにどうでもよくなる。
恐怖はない、むしろ居心地が良い。ずっとここにいても良いと思えてしまうほどに。
しかし彼は知っていた。自分がずっとここにはいられないことを。
すぐにでもこの世界は崩壊してしまうだろう。
そう思ったのが引き金かのように、グラグラと世界が崩壊し始めた。
もはや居心地が良いとは思えない。
「……きて。お兄ちゃん、起きて!」
彼はそれまで見ていた夢を忘れ、目を覚ました。
「お前は……誰だ?」
彼は面倒臭そうに眼を開けると、目の前で自分に跨り、彼の顔を覗き込みながら揺り動かしている少女を見て言った。
「え、なにそれ!? こんな美少女の妹を忘れるなんて酷くない!?」
彼は言われて思い出した。
そういえば自分には妹がいたな、と。
「茜、ちょっと寝惚けてただけだ。起きるからどいてくれ」
「はーい」
茜は少し不貞腐れながらも、素直に彼のベッドから降りた。
彼は起き上がると、カーテンを開ける。
外には変わりなく真っ白な正体不明の物体が浮かんでいた。
アレはもしかしたらこの世界を終焉に導くものなのかもしれない。
次の瞬間に、自分の、人類の命が終わってもおかしくないのだ。
しかしだからといって、ただ無為に生きているわけにもいかない。アレはちょっと地球を通りかかっただけで、もしくはちょっと人間を観察しているだけで、地球や人類に何の影響も与えることもなく帰っていくことだって考えられるのだから。
もっとも、すでに世界には大きな影響を与えてしまっている。この平和すぎる日本にいるせいで、実感できないだけで。
何の目的でアレがずっと空に浮いているのかはわからないが、今のところどうすることもできなかった。たとえ侵略戦争が始まるのだとしても、彼に出来ることといえば普段通り学校に行くことくらいだ。
アレから目を離し、寝間着に使っているTシャツに手を掛ける。
そこでふと自称美少女の妹の存在を思い出した。
「着替えるんだが?」
「えーっ、別にいいじゃん。減るもんでもないし」
彼が目を細めると、茜はたじろぎながら後退し始めた。
「もう、お兄ちゃんってばいつにも増して冷たいんだから」
茜は渋々というようにようやく部屋から出て行った。
茜が出て言った扉を見詰めながら首を傾げる。
――俺はいつもと変わらないぞ?
彼はどうでもいい事かとかぶりを振ると、さっさと着替え始めた。
着替え終えた彼は、最後に黒縁の眼鏡を掛けると、自分のスマホを見て驚いた。
時刻は七時三十分。
普段であれば誰に起こされなくても、アラームさえかけずに六時には目を覚ませるのだ。それがなぜか今日に限ってこんなに遅くなってしまった。
そういえばいつもさして深くもない眠りが、今日はやたら長かった気がする。
しかしそんなことはたまたまだろう。
そんな日もあるかと、それ以上は深く考えず、彼は自分の部屋を下りてリビングに向かう。
「お早うございます」
彼は自分の両親に余所余所しく挨拶し、自分の席に着いて用意されていたトーストを食べ始めた。
「今日は珍しく遅かったのね、実は私もなのよ」
「そういう日もあります」
微笑んで話しかけてくる母親に、彼は冷たく返した。
まるで他人行儀の彼であるが、彼はこの家の養子というわけでもないし、両親と喧嘩中というわけでもない。
きっと彼の両親は、彼を未だに反抗期を終えていないなのだと勘違いしているだろう。だがそれは致命的な勘違いだ。
彼は反抗期なのではない。単純に両親を信頼も信用もしていないのだ。彼は自分の親を自分の味方だとさえ思っていなかった。
「ま、私はお兄ちゃんが寝坊してくれた方が助かるけど。お兄ちゃんてば、いっつも早すぎて一緒に登校できないんだもん」
この家で彼の味方は、彼が味方だと認めているのは妹だけだった。
茜はどんな時でも明るく彼に話しかけてくる。そして溢れる愛情を隠そうともしないのだ。時には鬱陶しいと感じてしまうのだが。
「友達がいるだろ。俺と一緒に登校しなくても」
「そしたらお兄ちゃんが一人ぼっちで可哀想じゃん。私がいたら寂しくないでしょ?」
茜の言うとおり、彼には友達がいなかった。そして茜は彼と違って多くの友達がいる。
しかしボッチだからといって、彼は寂しくはない。
一人の方が良い。
小学校、中学校時代に苛められていたのと比べれば遥かに。
「お前も茜を見習って友達を作りなさい。妹にまで心配をかけるな」
「……」
彼は答えなかった。
友達が欲しいわけでもないのになぜ作らなくてはいけないのか。きっとそう言っても彼の父親はわかってくれない。口論になるだけだ。これまでの経験でわかっている。何を言っても無駄なのだ。だから彼は父親も母親も頼りにしない。信じない。
「いいんだよ、私はお兄ちゃんの傍にいたいんだから。お兄ちゃんのこと、だーい好きだからねっ」
「ごほっ」
彼は思わずむせた。
今日は一段と茜の愛情表現が激しい。普段はここまで酷くはないはずだ。いや、それともこんなものだったろうか。
彼はそそくさと朝食を済ませ、学校に行く準備を始めることにした。
両親と同じ食卓に着いているのも苦痛だが、茜と一緒にいるのも色々と厳しい。
彼が上にブレザーを着て外に出ると、当然のように茜も一緒についてきた。
男物、女物の違いはあれど、彼女の制服は彼と同じ高校のものだ。ということは、もちろん登校する学校も同じである。
彼は並んで歩く自分の妹を見た。
背は低くなく、同じ年の男子の平均身長より少しだけ低い彼と比べると、その差はほとんどない。背中まで伸びる黒髪はさらさらと流れていて、スタイルも良い。自分で美少女というだけあって、顔も整っている。
「何? お兄ちゃん、私のことじっと見て」
「いや、茜ってそんなだったかなと思って」
「何それ?」
彼は上手く答えられず頬を掻いた。
どうも今日は調子が悪い。
そう感じた彼は何とか話題を逸らせないかと思っていたのだが、タイミングよく二人に話しかけてくる人物があった。
「お早う、真白君、茜ちゃん」
話題を逸らしたい彼、真白であったが、話しかけられて助かったとは思わなかった。真白はその柔らかな声の人物と話したくないのだ。
そちらを見なくてもそれが誰かわかる。
彼女とは十歳くらいまではよく一緒に遊んだし、今でも毎朝こうやって顔を合わし挨拶してくるのだから。
二人に挨拶してきた彼女は、隣に住む幼馴染の同級生だった。
ただし挨拶してくるのはいつも彼女からで、真白から挨拶することはなくなってしまった。一緒に遊ぶことももうない。今となっては。
「あ、モモちゃん。おはよっ」
「……」
元気よく挨拶する茜に対し、真白は無言のままだった。
気まずい沈黙が流れるか、と思われたが、すぐに茜が注意をしてきた。
「もぉ、お兄ちゃん。モモちゃんがお早うって」
「ちっ」
真白は舌打ちすると、彼女の方を向いた。
活発な茜に対して、大人しそうな見た目。茜も十分にスタイルが良いが、彼女はさらにスタイル抜群だ。というよりも、ある一点の発育が良い。
「お早うございます」
真白は低いテンションのまま、顔を見ずにそう言った。
「ちょっと、お兄ちゃん。どこに向かって挨拶してんのよ!」
真白は「知るか」と言わんばかりに、茜の言葉を無視して歩き始めた。
「大丈夫だよ、茜ちゃん。私は気にしてないから」
「ごめんね、モモちゃん。もぉ、お兄ちゃんったら」
真白は二人の会話の何もかもが気に入らなかった。
まるで自分が悪者のような扱いだ。
しかし真白は、自分が悪いなんて微塵も思っていない。
悪いのは幼馴染、桃華の方だ。
以前に謝られたとはいえ、真白はそれを許したつもりはなかった。
これからも桃華を許すことはないだろう。もう彼女を信頼することなんて考えられないし、というよりも、他人に何かを期待することなんて考えられないのだから。
桃華は真白が苛められていた時、彼を見捨てたのだ。真白は彼女を大切な友人だと思っていたのにもかかわらず。
苛められていることよりも、桃華に見捨てられたことの方がショックだった。それ以来友人を作ることをやめ、人と関わることをやめたのである。
学校に着き、茜と別れた後も、真白と桃華は一緒に歩いていた。二人は同級生だ。
だがそれは同じ目的地に向かって歩いているというだけであって、同じ時間を過ごしているというわけではなかった。
教室に着いても、特に言葉を交わすことなく、それぞれの席に着いた。
桃華が何かを言いたそうにしても、真白はそれを汲むことなく、振り返らずに席に着いた。
「やぁ、光坂君。お早う」
やっと桃華から離れたというのに、真白に挨拶してくる者がまだ他にもいた。
中学生のように幼い顔で背も学年で一番低いが、その容姿は驚くほど整っている。
真白とは違い、周りにはいつも人がいて、人気があり人望も厚い。彼はこのクラスの学級委員長だった。
「ちっ、お早うございます」
「舌打ち無しで挨拶してくれると嬉しいんだけど」
「ちゃんと意思表示しないと、明日も挨拶されそうなので」
真白は委員長がどういうつもりで挨拶してくるのか知らなかったし、興味もなかった。
だが、迷惑だということに変わりはないから、こうやって話しかけるなというオーラを放っているのだ。
しかし、委員長には真白の気持ちが伝わらなかったらしい。
「たとえ舌打ちされても、明日も挨拶するよ」
委員長は朗らかにそう言うと、自分の席へと向かった。
真白は迷惑極まりないのだが、挨拶してくるからという理由だけで病院送りにしてしまうわけにはいかなかった。高校一年の時に、同級生にしたように。
あの時はなんとか正当防衛ということ済ませ、停学だけで済んだが、次はそれだけでは済まないだろう。
それに、あの委員長に対しては、そう簡単にいかないような気がしていた。
真白は相手の強さを測ることが出来る。
ざっとではあるが、自分より強いか弱いか、もしくは同じ程度かくらいはわかった。
そしてあの委員長は、あんな体格ではあるが自分と同等かそれ以上の力を持っているように見えたのだ。
暴力に頼ることが出来ない以上は、真白が特にできることはない。せいぜい無視するくらいだろうか。
しかし真白が明日以降の委員長の挨拶を無視する必要はなくなった。
ホームルームが始まった直後に、それがついに行動を開始したからだ。
その声は突如そこら中から鳴り響いてきた。明瞭に聞き取れているのにもかかわらず、どこから聞こえてくるのかわからない。
それは子どもの声で、その抑揚の付け方は、運動会の放送を思い出させた。
『これより、ゲームを開始します。三十分間生き残ってください。十体ゴブリンを倒した方には、特別ステージへ進出していただきます。なお、火器や車両などの使用は無効とします。正々堂々自分の力で戦いましょう。それでは頑張ってください』
教室が一気に慌ただしくなった。
「何? 今の」
「皆聞こえたよな……?」
そんな疑問の声が教室の中で溢れ返っている。
しかし次の瞬間、疑問の声は悲鳴へと変わった。
突如何もない空間が光り、そこに緑色の醜悪な生き物が現れたのだ。
生き物はまるで人間の子どものようであるが、明らかに人間ではないおぞましい何かだった。
真白はそれを知っていた。
ファンタジー世界で有名なゴブリンだ。さっきの声もゴブリンと言っていたし、これがそうなのは間違いないだろう。
問題は彼らがゴブリンであることではない。
ゴブリンは武器を持ち、明らかに生徒たちに対して敵意を向けていたのだ。