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第4話 木曜、昼下がり

 翌日、木曜日。

 朝から再び書類の山と格闘していた。


 朝一に、事情とともに金曜に有給休暇を申請する旨、社長にメールで送った。


 その後は、返事を確認する余裕もなく目の前の書類に没頭する。

 ようやく目途がついた昼休み、メールボックスを確認したが、まだ返信はない。


 本当は少しだけ、期待していた。

 杓子定規なモラルではなく道徳で――思いやりで、「そんな大変なことになったなら、午後から帰省しなさい」なんて言ってもらえるかもって。


 もちろん、期待し過ぎるのは甘えでしかないし、口に出すことなんてできない。

 以前、社長から渡されたビジネス書を広げながら昼食をとることにした。


 彼が、あのとき口にしていた『モラルの奴隷になるな』――この言葉は、もともと石油系大手企業の創始者が伝えた言葉だそうだ。

 外国から入ってきた考え方「モラル」――法的な規制を守ること――に対して、古来から日本にあった道徳とは思いやりのこと、だという。

 明文化されていなくても、お互いのことを思い合うことで成り立つ秩序。

 つまり、法規制に関係なく、己の心に照らして行動せよ、という意味だ。


 モラルではなく、道徳で――同じ社員の中からも、社長を批判する声は時折聞かれる。

 曰く、遵法意識に欠けるだとか、精神面を重視し過ぎだとか。

 単純に、有給休暇をもっと取らせろとか、給料上げろなんて分かりやすい言葉も含めて。


 だけど、多くの社員がそれでも社長について行くのは、彼の圧倒的なカリスマ性のためだ。

 私に残業を言いつける、当の彼の残業時間は、多分、私どころではない。


 私が家に帰った後も、深夜にメールが届いていることが度々ある。

 確かにうちは業務量が多すぎるが、社長が自ら範を示しているのだ。

 そんな人に、何を言えるだろう。


 本を片手に菓子パンを食べ終えて、私は席を立った。

 明日、休みを貰いたいなら、一時間まるまる休む余裕なんてないのだから。




 午後三時には、手元の仕事を脇にのけ、事務所の出口に立っていた。

 チェックシートと書類の束を片手に、同期を見送る。


「えっと、書いてもらうべき書類は全部あるね。健康保険も預かったし、年金手帳も返したし……」

「うん、ありがとう。こういう役目を同期がやってくれていると、とても相談しやすくて助かった」


 笑いながらお礼を言う彼は、既に事務所の外――扉の敷居を越えた向こう側にいる。

 中側にいる私とは、たった一歩の距離しかない。

 それなのに、扉を境に、五分後にはもうこの会社と――私と、何の関係もなくなる人だ。


「これで終わりだね。新人研修の頃から十年か、君にはお世話になった」


 同じ感慨を抱いたのか、しみじみと彼が口にした。

 今よりもっと若い頃の彼の姿が脳裏に浮かんで、不思議な感慨を覚えた。

 軽口のように、笑いながら、それでも一縷の望みを込めて彼を見る。


「今ならまだ、終わりじゃなくできるよ?」


 彼も笑って、だけどその笑顔のままで首を振った。


「いや、もう無理だ。身体がついていかなくてさ。君も肩書は管理職になってるから、僕の気持ちも分かると思う」

「それは」

「どれだけやっても残業代も出ないし、管理職と言っても部下がいる訳じゃない。仕事は雑用まで全部自分一人。モトカノも怒ってたよ。いくら管理職でも、課長なんかがそんなに忙しい訳ないでしょって。……僕の方は、結婚も考えていたつもりだったんだけど」


 そう言えば、普段穏やかな彼が、恋人に振られたと言ってひどく荒んでいたのは先々月だったか。そのことが、彼にとっては決定的だったのだろう。


 社長は鼻で笑っていたけれど、正直私はひどく同情していた。

 ……明日は我が身だ。


 ふと真面目な顔に戻った同期が、入室用のIDカードを兼ねた社員証を、首から外しながら呟く。


「君も、あまり無茶しないようにね。頑張り屋だから、少し心配だ」


 母と同じ褒め言葉に、どきりとした。

 一度だけ、敷居を踏み越えて戻ってきた彼が、社員証と一緒に手の中に紙切れを滑り込ませる。


「……何かあれば、連絡ください」


 私がはっと目を見開いている間に、彼は後じさり、そして向こう側から扉を押した。


「じゃあ、お互い元気で」


 扉が閉まった後、自動施錠の音がかちゃりと鳴る。

 立ちすくむ私の手には、スマホの連絡先らしき十一桁の番号が握られていた。

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