21gの私。
二十一グラム。
人間の魂の重さ。
脳の記憶野に保存されない、私が私自身であるというアイデンティティ。あるいはエゴ。これらのある種、人間のこころとでも言うべき存在は、魂の存在によって定義されるようになった。
人間が人間である証。
私が私である証。
人間が石器を手に狩りをしていた時代から、機械に人間の仕事を奪われる時代まで、あらゆる時代において人間は人間を定義し続けてきた。
ある時代においては、人間は理性の象徴であった。動物の強靭な生命力に比べれば人間は葦のようなものであったが、思考力を持ち、野生にはない技術を持っていた。そのため、野生を脱し、自然を支配した。実際には、支配した"つもり"になっていたにすぎないが、人間は思考と技術で生態系の頂点まで上り詰めた。人間は理性の動物であった。
またある時代においては、人間とは情熱と意外性の生き物であった。思考のスピードと正確性、再現性が機械に後れを取り始めたとき、人間とは、機械には真似のできない本能の生物であるとした。機械はプログラムされた行動しかとることのできない存在であり、その点人間であれば、柔軟に、かつ秘められた情熱を持って機械を凌駕することのできる能力を持つと信じていた。人間は本能の動物であった。
そして、人間の進化が飽和してしまったこの現代においては。
人間は、魂の動物となったのである。
魂が、実在する人間の器官として発見されたのは約四十年前。
人間の目には見えないが、確かにそこに存在する五次元上の存在として、魂の存在が定義された。
魂の発見は、かつて多くの人間を悩ませた、議論や問題を片っ端から解決していった。
例えば、空間移動前後における連続性の問題は意味をなさなくなった。どこでも移動できるドアを使ったとしても、ドアをくぐる前の少年とドアをくぐった後の少年が同一の存在かどうか、議論する必要はなくなった。たとえ器が違っても、中に入る魂が同じなら、それは同じ人間なのだ。
また、人間は人口の減少にも、老いにも、病気にも悩まされる必要はなくなった。
体を構成するパーツがタンパク質からカーボンに代わったとしても、皮膚が金属のように固くなっても、脳に拡張メモリが刺さっていても、魂という器官さえ入っていれば、それは同じ人間になった。
人間が人間であるという証は、理性でも、動物性でも、手先の器用さでも言語でも情熱でも愛情でもなく、もはや身体の構造でもDNA配列も関係なく、魂という器官を宿しているかどうか、それだけになった。
過去の歴史の中で一番、人間は幸せになったのだ。
「あ、それ可愛い! 腕、新しくしたんですか?」
「お、よく気が付いたね~。少し細くて長いタイプにしてみたの。かわいいでしょ~」
「いいなあ。アタシも躰、新調しようかなあ」
「帰りに買い物行こうよ。わたしも新しいの欲しいし」
職場の後輩たちが楽しそうに盛り上がっている声が聞こえてくる。新しい腕を買ったとか買わないとか言っていたので、新しいボディーパーツを買ってきた子がいるのだろう。躰のカスタマイズは、今やお洒落の常識だ。どのブランドパーツを身に着けるか。職場にそぐわないパーツは避けつつ、かといって平々凡々なものではダサい人間のレッテルを貼られてしまう。別に職場の男性にモテたいわけではないので、ダサいと思われるのは構わないが、身だしなみには気を使わないと社会に適合できなくなってしまう。社会において構成されるグループから排斥されてしまうとどうにも生き難いのは、肉体が機械に換装されても変わらないらしい。
まあ、私の場合はそれ以外の理由もあるが。
「先輩はどうします…って、先輩は無理ですよね」
クスクスという笑い声。
わざとらしく悪意のこもったその声は、私を越えて更に向こう、私のひとつ隣の席に向けられていた。
「そうね」
先輩は、自分のデスクの画面から目を逸らさず、小さく答えた。
「ですよね~。うっかりしててすみません」
「悪気はないんです。でもほら、先輩珍しいから」
「ごめんなさーい」
周囲からも、クスクスという小さな笑い声が起こる。
純粋な、あるいは子馬鹿にしたような笑い。
まあ愛想笑いもあるだろうが、それを咎めるような風潮はここにはない。
私は苦笑しながらも、周囲に聞こえるようにわざと声を張った。
「はいはい、お喋りはおしまい。はやく自分の仕事に戻る」
はーい。というつまらなさそうな声とともに、後輩たちはそれぞれの持ち場へと散っていく。
全員が離れたことを確認すると、私は先輩に向き直り、小さく口を開いた。
「すみません先輩。あとでちゃんと叱っておくので」
「いいのよ。こちらこそごめんなさいね、私のせいで」
私はちらりと先輩の顔を見る。
その瞳には、申し訳なさそうな表情を作った私の顔が映っていた。
透き通るように綺麗な、人間の瞳だ。
「先進国におけるサイバネボディの普及率は人口の約86%。私が頭の固い時代遅れだということは重々承知しているもの」
「先輩は、躰を換装しようとは思わないんですか」
もはやかなりの少数派ではあるが、躰を機械化しない人たちは世界中に一定数存在する。宗教の戒律を理由に機械化を拒む人。『魂は機械には宿らない』という反機械主義を唱える派閥。また、躰を機械に換装した人間は、AIによって改造された兵器だと主張する過激派もいる。
しかし、先輩に関しては、いずれの主義主張も当てはまらないような気がした。
「あまり考えたことはないわ」
「先輩も、機械には魂は宿らないと考えるタイプだったりするんですか」
「特にそういうわけではないけれど。強いて言うなら、魂の存在自体に疑問を抱いている、といった方が正しいかもしれないわね」
魂自体ですか、と私は聞き返す。そうね、と先輩は答えた。
「私はね、私自身のまま生きて、私自身のまま死にたいの。魂があろうとなかろうと、たとえ生身の肉体が不便であろうと。私が生まれ持ったこの体こそが、私が私である証明だと思うから。私の人間性は、それだけでいいのよ」
先輩は、別にあなたたちのことを否定しているわけではないけどね、と付け加える。
「先輩らしくて、いいと思います。私は、そういう先輩が好きです」
あ、と私はあることに気が付く。
「先輩、お昼に行きましょう。ちょうどいい時間です」
私に言われて先輩も腕時計を確認する。腕時計は今が12:00ジャストであることを示していた。
「今日は近所のオーガニックレストランに行きましょうよ。サイバネ用と人間用の食事があるらしいです」
先輩は頷くと、私を見て小さく笑った。
サイバネ用ハンバーガーとサラダのセット(980円)。
当店を初めてご利用の方はメニューよりハンバーガー用味覚ドライバをインストールし、消化方法と顎の筋力を選択してください。顎の筋力や消化方法が不明の方は以下より確認できます。また、歯に特殊な素材を利用している場合は、スタッフにお知らせください。ドライバのインストールにはワイヤレス接続とケーブル接続がご利用いただけます。脳に拡張メモリを利用している場合は、以下の方法を参照してください。
私はメニューの注意書きを読みながら、情報を入力していく。並行してドライバをインストールしつつ、パテの素材から味つけ、好みの固さなどを選択する。実際のところ、パテの材料が牛肉から豚肉に変わるわけではないが、脳がパテの認識を変えるのである。
躰が機械化しても、食事のスタイルは変わらない。不思議なことに、ただ栄養のある液体や固体を摂取しているだけでは、人間は心身に不調をきたす。食事をとるという行為そのものは、太古より人間の魂に刻まれた娯楽の一種なのだ。
私がメニューを注文している横で、先輩はチーズバーガーのセットを注文していた。
小麦のパンに牛のハンバーグとチーズを挟んだ、生身の人間用のハンバーガーだ。付け合わせにじゃがいものフライドポテトと生野菜のサラダが付いてくる。
こういった、サイバネ化していない料理が食べられる店は、意外と少なくない。機械の体にとって生身の食材を摂取することにあまり実用的な意味はないが、躰が生身だった頃を懐かしんで非サイバネ食を楽しむことを趣味にしている人も多い。
私は先輩と席に着くと、ハンバーガーの形に形成された化合物を口に運ぶ。レタスのシャキシャキとした瑞々しい食感や、ビーフパテから溢れる肉のうまみ、柔らかなパンから香る小麦の香りが、口の中で再現される。店によって提供される味のデータは異なるので、お昼ご飯を選ぶ楽しさは健在だ。逆にチェーン店であれば、全く同じデータが提供されるため、店舗によって品質が異なるということもない。
隣を見ると、先輩も同じようにハンバーガーを齧っていた。
「先輩。先輩が、生身の体でよかった~、って思う瞬間ってなんですか?」
付け合わせのサラダをフォークで刺しながら、何となく疑問に思っていたことを訊いてみる。普段なら避けるような質問だが、今日なら聞ける気がした。
「これを美味しいって思える舌と、脳みそがあることかな」
先輩は、持ち上げた紙のコーヒーカップをぷらぷらと振る。
さっきの話じゃないけどさ、と先輩は前置きした。
「『我思う、ゆえに我あり』とは言うけどさ。実際のところは、私自身の存在も、肯定できるかどうかなんて怪しいと思っちゃうんだ、私は。だってそうでしょ。魂こそが人間の証明だなんて言うけれど、自分を疑う自分に魂があるかなんて、本当のところは誰にもわかりやしないんだ」
「でも、現に私たちは魂を移植して、こうして生活してますよ」
私は先輩に笑いかける。
そうだね、と答えて先輩はカップを置いた。さみしげに笑う先輩の顔から、私は目を離せなかった。
そろそろ出ようか。そう言って席を立ちあがった先輩を追うように、私も慌てて席を立つ。
意識していなかったので忘れていたが、そろそろ休憩が終わる時間だ。
「少し急がないと、遅れちゃうかな」
「先輩、待ってくださいよー」
先輩を目で追いかける。そこで初めて、私の脳が、高速で移動する物体を捉えた。
足早に先を急ぐ先輩の数メートル先。十字路。自動運転の信号を出しながら走行する自動車。
先輩は完全に生身の人間なので、先輩からも、自動車からも、お互いの存在は検知できていない。
「先輩!」
なに?
振り向きざまに、先輩の口がそう動いたのが見えたような気がした。
鈍い音と共に、先輩の体が宙に放り出される。
先輩の体が捻じれ、回転し、見たことのない方向に曲がってゆく。
それはあまりにもゆっくりとした光景で、切り取った静止画を一枚一枚じっくりと見せられているような気分だった。永遠にこの時間が続くのではないかと、錯覚してしまうほどに。
ただ、実際にはそんなことはなく、やがて重力に従った先輩の体が地面に叩きつけられた。私は我に返ると、徐々に現実を咀嚼する。
肉体がぐちゃぐちゃになるところを、私は見ていた。
全てを記憶に残そうと、私は見ていた。
何を? 先輩が死ぬところを。
そうか、先輩は死んだんだ。
その日、先輩が死んだ。
先輩のことを本当に想うなら、きっと、このまま安らかに眠らせてあげる方が正しかったのだろう。
しかし、私にはその選択肢を取ることができなかった。
先輩と一緒に生きたい。ただその思いが、私を突き動かした。元からわかっていたことだ。生身の人間と機械の人間とでは、同じ時間を一緒に過ごすことはできない。単純な経年劣化は機械の躰の方が早いが、そのかわりいくらでも代えがきく。その点、生身の体は劣化し続けるだけだ。生身の肉体に代替はない。でも、それだけだ。先輩は死んだわけじゃない。先輩がたまたま入っていた肉の容れ物が、たまたま壊れてしまっただけなのだ。だから、先輩が死んでしまう前に、魂が死んでしまう前に、先輩を機械の躰に移植すれば、先輩は死ぬことはない。そう、ただ器が変わるだけ。
先輩の新しい躰は、元の先輩の躰に似たものにしてもらった。
私がこの姿が好きだというのも理由ではあるが、元の体に似た躰の方が、先輩も混乱しないだろうと思ったのだ。
それに、急激な身体の変化は精神に影響を及ぼす。精神は、躰に引っ張られるものらしい。
元先輩の脳から新品の脳に記憶がコピーされ、先輩の新しい躰に、魂が移植される。
脳に頭蓋骨パーツで蓋をして、頭皮を接着する。最後に髪の毛が植毛されて、肉体が起動される。
これで、ただの器は、今から先輩となった。
「ここは…」
先輩の瞼が開き、瞳孔が私を捉える。
そのまま、不思議そうにあたりを見回した。
事故などで躰や脳が損傷した場合は、その前後の記憶が消えてしまうことがあるらしい。
最後の記憶と現在の状況の整合性が取れず、困惑しているのだろう。
だが、私は状況を説明する前に、先輩に深く頭を下げた。
「すみませんでした。 私は…。私のために、先輩の魂を移植してしまいました」
生まれ持った体で人間として生き、人間として死にたい。そう言っていた先輩の想いを踏みにじった。
先輩の人間としての尊厳を、私が犯した。
深々と下げた私の頭の上に、何かが優しく触れる。
目線を上げると、その手で優しく髪を梳く先輩と目が合った。
その瞳には、申し訳なさそうな表情を作った私の顔が映っている。
透き通るように綺麗な瞳。
先輩は私の目を見て小さく笑うと、宥めるように言った。
「いいのよ。重要なのは、肉体の有無ではないわ」
私は、愕然とした。
先輩が、途端に空虚なものに見えてしまった。
先輩だけではない、私は、私自身が急に空っぽになるような感覚に襲われた。
魂が、魂が。
魂が肉体を拒絶しているような感覚。脳の命令に反して、肉体はその場を動くことができなかった。
先輩は、確かに先輩だ。まごうことなき先輩だ。声、仕草、瞳、記憶。そのすべてが私の記憶と一致している。
ただ、魂だけが、私の記憶と一致しない。
そこに先輩はいなかった。
そこにいたものは、私が勝手に作り上げた、ただの先輩のような何かだった。
先輩が事故に遭ってから2年、私は先輩と暮らしていた。
あれから、先輩が帰ってくることはなかった。
先輩は、自分の魂を持っていた。
しっかりと持っていて、そのまま持って行ってしまったのだ。
人間として生きて、人間として死んだ。
「私は、何になったのだろう」
今の私は、私だったものが何度も模倣し続けた、私のような何かだ。
私の魂は、私の気づかぬうちに徐々に徐々に希釈され続け、もはや滓ほども残っていない。
でも、今更それを手放すこともできない。もしも手放してしまったら、私は先輩の最後をもを手放してしまうことになる。先輩の魂が触れてくれた、私の最後の魂。
自分自身がなくなることよりも、それは怖かった。
私は先輩を抱きしめる。
先輩は髪が伸び、顔も体つきも、2年前とはかなり変わった。
かくいう私は、2年前とは何も変わっていない。
先輩も、私の背中に手を回す。
優しい手に、かつての暖かさは感じない。
私は、二十一グラムの重みを失ったままだ。




