緑の魔女
初投稿です
よろしくお願いします
遠く、教会の鐘が鳴る音がする。
この国は随分と宗教に熱心な民が多いらしく、一日たりともこの鐘の音が絶えたことはないそうだ。
この鐘は朝の祈りの時間を知らせるものだろうか。
まぁ、神など信じていない俺には知った事ではないが。
「まだ拗ねているのかい?」
そうやって少し困った様に、しかし愛おしそうに俺を呼ぶ声が心地よいと気付いたのはいつの頃だったか。
不貞腐れたように椅子に肩肘をかけ、ぼんやりと窓の外を眺めていた俺の視界に柔らかな黄色が映り込んだ。
「拗ねてねぇよ、餓鬼扱いすんな。」
「餓鬼扱いだなんてそんな、君の方が年上なのに。」
そうだよ、俺の方が年上何だよ。
なのに何だその落ち着き払った態度は。
穏やかな光を湛えた瞳は柔らかな若葉の色。
風に揺らめく麦穂のような薄黄色の髪からはいつも仄かに甘い花の香りがした。
年の割に大人びた話し方をするせいで忘れがちだが、こいつはまだ俺よりもいくつか年下なのだ。
いや、まだではない。こいつが俺の年を追い越す事などないのだから、永遠にこいつは俺よりも年下で、なのにいつまで経っても大人びたこいつには敵わないような気がして。
「少し歩かないか?」
「なんだよ、グズってる赤子をあやすんじゃねぇんだぞ。」
「機嫌の悪い犬を散歩に連れ出す、の方が近いかも知れないね。」
「テメェッ!」
「わはははっ!ほら見ろ吠えた!」
明るく笑う、日溜まりのような笑顔が天気の良い今日の景色に良く映える。
俺をからかいながら子どものように駆け出したその小さな背を追えば、俺が隣に並ぶのを待ち侘びたようにそいつは歩幅を緩めて歩き出した。
なんだかいいように結局こいつに連れ出される形になった事に釈然としないが、鼻歌を歌いながら隣を歩くつむじを見下ろしているとなんだか怒っているのが馬鹿馬鹿しくなる。
そしてやがて肩から力が抜けて行くのだ。
あぁもう、本当にこいつはこういう所がだな、そう思いかけてやめた。
隣を歩くそいつが、目を細めて俺を見上げていた。
地面は煉瓦で舗装された街中と違って、土を踏み固めただけのものだ。
こいつは立場を考えれば街中の一等地にでも住んでいそうなものなのに、好き好んで花壇や街路樹で彩られた街中ではなく野花や蔦の巻いた樹木が目立つ郊外に居を構えている。
そのせいかこの辺りの道はいつも静かだ。
吹き抜ける風にのって、機嫌の良さそうな鼻歌が混じる。
「前ちゃんと見て歩かねぇと転けるぞ。」
「それは危ない、手を繋いでいようか。」
「なんでだよ。」
「嫌なのかい?」
そう言いながら俺の掌を掴む小さな手を振り払わずにいれば、満足そうにぎゅっと俺の手を握って笑うこいつにまた肩の力が抜ける。
これも魔法なんだろうか、正体のわからない胸の暖かさが気持ち悪くて心地いい。
「あぁ、綺麗だな。ほら見てみろ。」
そう言ってそいつが視線を向けていたのはどこにでも咲いているような野花の群生だ。
黄色と赤と、赤みの強いオレンジ色がバラバラと草の緑に混じって咲いている。
この国ではありふれた、なんて事ない光景だ。
ちらり、首を傾げてそいつの瞳を覗き込んで見れば、愛おしそうに細められた緑色に花々の色が映り込んでいる。
こいつの瞳を介してみれば、この野花は今よりもきっともっと美しく俺の心に映るような気がした。
「川の光も、今日は天気が良いからかとても綺麗だね。キラキラとまるで星を流したようだ。」
ただの、川だ。
水が流れているだけの光景。
それがそんなに美しく見えるものなのか。
こいつの視線につられて野花の群生の奥を流れる川に俺も目を向ける。
やはり、ただの川だ。
しかし、不思議といつまでも眺めていられるような気がした。
「どこへ、行くつもりだ?」
「うーん、今日は天気がいいからねぇ。」
そんな答えにならない答えを歌い出しそうな弾んだ声で囁いて、そいつは俺の手を握ったまま歩き続けた。
やがて日差しが和らいで来た頃、歩き続けていた俺たちは木々の姿が目立つ場所にまでやって来ていた。
不思議と疲れはない、これも魔法だろうか。
「遠出なら、ちゃんと準備を、」
「大丈夫、大丈夫。」
そう言いながら、そいつは相変わらずズンズンと歩を進めた。
左右に立ち並ぶ木々のトンネルを歩きながら、こいつはまた美しいねぇと真っ直ぐに前を見据えたまま囀る。
「何か見えるか?」
「木漏れ日、風に揺らぐ葉、鳥の囀り、草葉を揺らす風の音。」
「見える、に含まれてねぇもん混じってるな。」
「いいじゃないか、聴覚だろうと視覚だろうと美しいと感じるのなら。」
よく分からない理屈を述べながら木漏れ日のアーチを抜けて、やがて木々が増えて俺たちは森に入っていた。
流石に不味いだろうと、不用心過ぎるそいつの手を引こうとして何故か力が入らなかった。
緩く俺の手を引くこの小さな手を、今引き止めるように引けば容易くこの手が離れてしまうような気がしたのだ。
奥に行けば行くほど、木々に囲まれ辺りは薄暗くなる。それを補うように、魔法を使って手元に光の球を浮かべると慣れたものだねと隣の空気が朗らかに揺れた。
「懐かしい、君と出会ったのも森の中だったね。」
「俺は最初迷子かと思ったよ。」
「君は血だらけだった。」
「あぁ、…迷子はスルーか?」
「私はねぇ、血があまり好きではないからね。いやむしろ苦手だから、正直うわぁと、もう本当にうわぁと思ってね。」
「あぁ、現にうわぁと叫んでいたからな。」
「でも次の瞬間にはちゃんと生死を確認しただろう。」
「あぁあの、枝で軽く突きながら生きてるかー?って奴な。」
「もしかして、実は、根に持っていたりするのかい?」
「はっ、根に持つ?命を助けられた事を?」
そう言えばそいつは曖昧に笑って、今でも救えて良かったと思っているよと俺の手を握るその手にほんの少し力を込めた。
「それから、傷が癒えるまでのつもりで。いつのまにか、随分長くなったなぁ。」
遠くを見る、その若葉色の瞳が森の緑を映してより一層その色を深める。
深い深いその色が、命の色だと言って笑っていたのはこいつだった。
新しい生命、大地に根を下ろす若芽の瑞々しい色。
この緑豊かな国を象徴するような、そんな色だ。
「お前に見つけてもらえなかったら、俺は今ここに居ない。お前と共に過ごす時間がなかったら、今の俺は居なかった。」
「…私だってそうだよ。」
だったら。なんで。それなら。
色んな言いたい事がごちゃ混ぜに絡まって、喉の奥につっかえたまま結局出て来る事は無かった。
いつのまにかゆったりと日は傾いて、木々を抜けた先でオレンジ色の空が目一杯に世界を塗りつぶしている。
「あぁ、美しいなぁ。美しい夕陽だ。」
満足そうに笑って、そいつはやはりゆったりと歩き続ける。
きっと来た道を今更歩き戻った所で、途中で日が暮れて辺りは真っ暗になる事だろう。
こんな事ならもう少し早く無理矢理にでも引き返せば良かったか。
そうは思えど、手を引くコイツは迷いなく歩を進めているから。
俺がそれを遮ってしまうのはどうにも憚られた。
いざとなれば魔法で空を飛べば歩くよりは早く帰れるだろう。
あまり飛行魔法は好きではないとコイツは言うが、今時長距離の移動を自分の足で進む魔法使いも珍しい。
「もうすぐ見えてくるよ、やはり遠いな。着く頃には夜になるね、きっと星空がとても綺麗に見える。」
「目的地があるのか。」
「あるとも、とっておきの場所だ。」
やがてたどり着いたのは国の端に位置する森の、奥の奥にある少し開けた場所にひっそりと建つ小さな一軒家だった。
まるで忘れ去られた様に存在する、緑に囲まれたその煉瓦屋根の小さな家は白い木の柵で囲まれた立派な庭に彩られている。
歴史は感じるが、手入れされているのか不思議とボロいとは思わない。
庭の草花や木々も、よく見るときちんと間引きされ、枝を整えられ、水を与えられているらしくそれは見事な庭だった。
昔、絵本で読んだ小人の家のようだ。
「質素だが暖かな場所だろう?」
まるで俺の考えを見透かしたようなその一言に、口に出していたのかと思わずどきりとする。
しかし視線はこちらに向いておらず、今のはただの感想かと胸を撫で下ろした。
「誰の、家なんだ…?」
「うん?私さ、じゃなきゃ勝手に入れない。」
言いながら、蔦バラの絡みつくアーチ型のパーゴラで出来た外門の鍵を指先で開けて、庭の中へと俺を招き入れる。
「お前の家って、家はだって別に…。」
「うん、そうだね。君と時を共にしたあの家が私が住んでいる場所だ。ここはね、正確には私の両親の家だった場所だよ。」
ゆっくりと、若葉色の瞳がこちらを見上げる。
その吸い込まれそうな瞳の中には、いつのまにか空に浮かぶ星が瞬いていた。
広さは端から端までが見渡せるくらい、庭の大きさと比べると家の小ささが際立つようだった。
家の横に一際大きな大樹が根を張り、その枝には白い二人がけのベンチブランコが静かにその上に誰かが腰を下ろすのを待ち侘び揺れている。
その大きな木の、家とは反対側の木陰には小さな東屋があった。
こちらは白い石造りで、柱に巻きついた蔦の所々にピンクと黄色を混ぜ込んだ花が咲いている。
「あの東屋が一等気に入っていたんだ。昼下がりにね、あそこで紅茶を飲むんだよ。沢山の甘いものと、香り豊かな紅茶と、目の前には蓮池が見えてね。その向こう側には薔薇の花壇があるんだ。」
手を引かれ、東屋の中にある石造りのベンチに腰掛けてる。日暮れだからか、少しヒンヤリとした質感が布越しに歩いて少し火照った身体を冷やした。
「体、冷やすなよ。」
「…あぁ、ありがとう。」
ゆっくりと目元を緩ませて、俺の目を数秒見つめてからそいつは視線を庭に向けた。
今は時期ではないのか池に蓮の花の姿はなく、その向こう側の花壇にも薔薇は見当たらない。
「懐かしいな、小さい頃はよくこうして父と共に庭を眺めた。」
「母親は?」
「22さいだったかな、18で私を産んで、私が4つになる前に死んだよ。」
「…悪い。」
「いや、仕方ないよ。それでも長生きした方さ。」
ぱちりと、思わず瞬きを繰り返して隣に腰掛けるそいつを見つめる。
少し憂いを帯びた瞳が、段々と伏せられていった。
「母はね、私の先代の緑の魔女だったんだよ。」
「お、前と…同じ?」
緑の魔女とは、この国の守護者にして導き手であり、絶対的な、この国の象徴とも言える存在だ。
そして今目の前にいるこの女こそが、現・緑の魔女である。
しかし、問題はそこではない。
彼女の言葉の中の違和感にジクジクと胸の奥が痛んだ。
「いや…なぁ、仕方ないってどういう意味だ?長生きした方って、んな訳ねぇだろ、だって。」
この国の平均寿命は60〜70だ。
それでも他の国に比べれば平均寿命は長い方で。
それが、22で長生きした方?そんな訳ない、平均の半分もないじゃないか、そもそもそんな年齢俺もコイツも言ってる間に…。
「今朝、君と喧嘩した理由の、その根本的な話だ。君はかつては旅人で、また昔の様に旅をしたいのだと言った。そして時には過去の旅路の経験を、時には噂に聞いた夢物語のような国の話を、いつか共に見に行こうと必ずそう締め括っては私に話してくれたね。」
嫌な、予感がする。
ざわざわと爪先から寒気が這い上がってくるような、得体の知れない漠然とした恐怖。
「そして、本格的に旅に出ようと計画を始めた君に私は言った。」
――共には行けない。
それはこの国の守りの要であり、永遠の安寧と繁栄をもたらすと言われている緑の魔女の役割を担う彼女にとって当然の答えだ。
しかし、俺と彼女の喧嘩の厳密な原因はそこではない。
ならば、役目を終え、次代に任を引き継いでからでも構わない。国を出た事がないお前に一目でも外の世界を見せたいのだ。
そう言った俺に、しかし彼女は目を伏せてはっきりと答えた。
――未来永劫、私が君と共に旅をする事は叶わないよ。
「緑の魔女はね、何も指名されたり、親子代々受け継がれていくものではないんだ。先代が死ぬと自動的に国に住む誰かに受け継がれる。大体は新生児から4つ5つくらいの子どもに、ね。」
「そんなの、そんなのただの呪いじゃねぇか!」
「おいおい、この国において神の祝福とされている力を呪いだなんて。いくら君がこの国の生まれでないとは言え、バチが当たっても知らないぞ?」
「そ…んな、じゃあお前は死ぬまで緑の魔女であり続けなきゃならないのか?」
「それも後少しだ。」
今度こそ明確に、空気が軋む。
心臓が一度大きく跳ねて、痛いくらいに脈打ち始めた。
締め付けられるようなとはよく言ったものだと思う程の痛みと、急激に乾いていく喉。
カラカラになった喉に言葉が張り付いて、上手く話せなくなる。
「す、こしって…待て、どうゆう、それじゃあまるで、」
「緑の魔女はこの国にある限り無尽蔵に魔力を生み出し操る事が出来る。ただね、力を使う使わないに関わらず体に負荷がかかり過ぎて皆20そこそこまでしか生きられないそうだ。本人が望む望まないに関わらず、緑の魔女は体内にある魔力を国の空気を清浄にしたり、災害の被害を抑えたり、国の緑を保つ事に費やしてしまうらしい。」
痛い、痛い、痛い。
胸が軋む、目の前が揺れる。
思わず伸ばした手はひやりとした目の前の頰に触れて、その冷たさの奥にある確かな温もりに漸く少しだけ呼吸が出来た。
「役目を放棄は出来ない。緑の魔女を受け継いだが最後、国を出れば即座に命を落としてしまうからね。まぁそうなってもすぐに他の誰かが継承するから、役目を放棄すると言う事と役目を全うすると言う事は同義になる訳だ。少し皮肉だよね。」
「なん、で…、な…そんな、笑って、られんだよ。」
ジワリと熱くなった視界が滲んで、目の前の小さな体を力一杯抱きしめた。
小さな小さなその体は力を入れれば直ぐにでも折れてしまいそうで、それでもこうでもしなければ目の前から消えてしまいそうで怖かった。
「私の母と父はね、先が短いと分かっていてもお互い惹かれ合って、この先共にいれないと知っていても、いやだからこそ二人が愛し合ったという目に見える証が欲しくて私を産んだ。けど、最初の4年は幸せだったろう。私も薄っすらと覚えているが二人は本当に幸せそうだった。けどね、母が死に、ただでさえ気落ちした父の目の前で私は緑の魔女を継いだんだ。」
さぞ、辛かっただろうね、と伏せられた瞳は痛々しい。
そんなの、お前のせいじゃねぇだろ。
つーかなんだよ緑の魔女って、この国の絶対的な守護者としか聞いてなかったのに。
この国にだけ与えられた祝福だと皆が言うのに。
それじゃあまるで呪いじゃないか。
国を支え続ける為だけにある、生贄のような。
「父は、私が6つの頃に私の行く先を憂いて、そして受け入れられずに自ら命を絶ったよ。」
「そんな、身勝手な…。6つ、なんてそんなガキ一人残して、」
「それ程、子どもと言うのは彼にとっては大切な存在だったんだろう。最愛の人との愛の証だと、言っていたくらいだからね。」
そんな、だって、そうなら最後まで側にいるべきじゃなかったのか。
どんなに辛かろうと、どんなに苦しかろうと、愛の証とまで言うのならばその子が笑っていられるように。
愛を注いで、見守り、育むべきだろう。
「緑の魔女は継承時に体のどこかに蔦の痣が浮かぶ。そして代替えの際には国の魔法省がその存在を感知してね、本来なら国に引き取られ必要な教育を受けて育つそうだが。」
そいつの指が、白い木の柵を指差す。
「母がね、死ぬ前になんらかの魔法をかけていたらしい。この辺り一帯から出ない限りは私を、と言うよりは緑の魔女の居場所を国に感知されないような魔法だろう。」
当然、魔法を使えば使うだけ体力を消耗する。
緑の魔女はその扱う魔力が桁違いなせいで、その魔力の循環に体がやがて弱っていくそうだ。
しかし、国は国に必要な力を使わずにはいられない。
有事の際には必ず頼る事になるのだ、それがこの国の象徴とも言われる所以。
「君と出会ったのは、12の頃だったかな。私は自分が緑の魔女を受け継いだせいで父が死に、その後すぐあの結界を出た私は国に保護されてね。」
保護、と言う言葉を使ったのはコイツなりの皮肉だろうか。
「私の命を糧に国を保ち、私を縋り崇める皆の重圧に少しばかり疲れていた頃だ。何せ国の重鎮以外は緑の魔女が短命だと言うことくらいしか知らない訳だからね。その理由も原因も、何一つ知らずに無垢に魔女を崇める。その絶対的な信仰に、息が詰まりそうだったんだ。」
そして、そんな重圧に押しつぶされそうになる度にこいつはフラリと国の中を人知れず歩き回る癖をつけた。
魔法を使えば人に見つからずに好きな場所へ行く事など容易い。
現にこいつは今もその魔法を俺にかけているし、俺に会いに来るときにはその魔法を自分にもかけている。
魔法を使えばそれだけ寿命を縮めるとしても、どうせ国にいる限りは魔法を使うことを余儀なくされるのだからと、彼女は笑った。
「そして、君を見つけた。」
俺は、元は他国の暗殺者だった。
親の顔は知らない。気付いた時には育ての親によって人を殺す術を叩き込まれ、幾度となく死線を潜り抜けて行く度に魔力も、そして人の命を刈り取る技術も磨かれていった。
そんな事を続けているうちに、俺の噂を聞きつけた国の人間にある日依頼された任務。
その任務に失敗し、敵を撒いたが既に国に戻る程の体力も気力も失っていた俺の前に現れたのがこいつだった。
「私は君に尋ねたね、生きたいかと。君は言った、どちらでも構わない。」
衝撃だったよ、と彼女は笑った。
緑の魔女として、重病な者や流行病の治療、災害時の治療などを請け負うコイツからすれば当然死にたくないと、生きたいと答えるのだと思ったそうだ。
「私は、私ならば君を助けられるが、と聞いた。それに対し君は私が見ず知らずの自分を助ける義理があるのかと答えただろう?
私はね、緑の魔女として、緑の魔女である限り人を助ける事は義務付けられているものだとばかり思い込んでいたんだ。だってそう言われて育ったし、今だって人を見返りなく助けるのは美しい事なのだとは理解している。
ただね、自分までを犠牲にすれば私は私を思ってくれている人を蔑ろにする事になるんだね。ーーーそれを教えてくれたのは、他でもない。君だよ。」
自分に余裕が無い時に、差し伸べられた手に縋ってしまうのは仕方がないことだ。
自分が辛い時、人に構う余裕が出ないのは仕方ない事だ。
力があるのなら、人の為にそれを使うのは正しい事だ。
そんな綺麗事、俺からすれば反吐がでる。
いざという時にこそ、人は己可愛さに人を裏切る。
本当の窮地に陥った時に自分を救えるのは自分だけだ。
なのに、こいつは違う。
「けれど、その為に自分自身の悲鳴に気づかぬふりをする事が、美しいのでは無いと教えられた。」
世の中は善悪に二分出来る程単純ではないのだと。
人に手を差し伸べられられるのは美しい事だ。
ならば人に手を差し伸べられない者は悪か?
彼女は笑う、この世界のどんな宝石よりも美しい瞳に俺を映して。
「私は私の短命を、国に縛られた私の運命を、憂うことすら許されないのだといつしか思い込んでいたんだ。私は緑の魔女で、国の人々の支えで、崇拝され、愛され、私は皆を慈しまなければならないのだと。私はそんな運命を誇らねばならないのだと。」
「そんな、の…おかしいだろ。何でお前だけそんな運命を背負わないとならない!何故お前だけがそんな不自由を強いられなきゃいけない!何故…お前だけがそんな重圧を…一人で…、」
彼女の細い指が目元を拭う。
醜いものとは程遠い、白い指先。
この小さな掌が、今までどれ程多くの人の命を救ってきた事か。
俺もその一人なのだ、それが彼女の命を削る原因の一つなのだと思うと息をする事すら辛くなる。
「君が、君だけが私の運命を憂いてくれる。君だけが私の為に泣いてくれる。君と居られる時だけは、私は緑の魔女でなく私という一人の人間として生きられた。だからね、私は君になら我儘を聞いてもらえるのではないかと思ったんだ。これは君を縛るものかも知れない、本来人の為に生きる緑の魔女が自身の身勝手を他人に押し付けるなんてあってはならないことだ。だからね、これは緑の魔女ではなく、私個人の我儘だ。」
彼女はそう言って、首からかけていた翡翠色の首飾りを外して、口付けた。
緑色の光が爆ぜて、彼女の声が呪文をなぞる。
弾けた光はやがて宝石に吸い込まれていき、光を収めたそれを彼女は俺の掌に握らせた。
中に星屑を閉じ込めたようなその翡翠色は、彼女の母親がしていたものだそうだ。
緑の魔女を継ぐ前の彼女の母親が、緑の魔女を崇める国で最も愛される緑色をした宝石の首飾りをしていたのは思えば当然の事なんだろうが、俺にはなんだか酷く皮肉な事に思えた。
「私が死んだ後、君は国を出て旅をするのだろう。だからね、私も連れて行って欲しいんだ、この体では叶わないけれど、私は君と旅がしたい。君が話してくれた美しいものを、私も君と共に見てみたい。」
「ん…な、こと…、わざわざ、頼む事っ、かよ…っ!」
そう言って抱きしめた彼女の体はやはりか細くて、消えてしまいそうで、しかしまごう事無くこの腕の中にある。
この温もりもこの胸の痛みも、全て紛れも無い現実だという事が今はどんな事よりも苦しかった。
「ありがとう、私のたった一人の友人。願わくば君の旅路に幸あらん事を。」
あぁ、お前は知らないのだ。
俺が暗殺者だったという事を。
この国に来た理由も、それを断念した理由も。
「愛してる…愛してるユズリハ。誓うよ、俺は世界中を旅する、お前と共にだ。お前が見たかったもの全て俺が見せてやる。星が流れ落ちる滝も、オーロラに輝く洞窟も、宝石が実る木々で出来た森も。共に行こう。」
「ありがとう、アカシア。私のーーー愛しい人。」
きっと世界中旅をしても、彼女の瞳以上に美しいものなど見つかりっこない。
彼女の髪以上に幸せを感じる色など見つからない。
けれど俺は旅に出よう、他でもない君が望むのだから。
だからせめて、せめてその時までは。
この時間が、一分一秒でも長く続くようにと、いるかもわからない神とやらに願ってみようか。