逃亡
心臓が爆発しそうな状態で私は廊下を普通に歩いていた。
誰よりも早く体育館を出て、誰よりも早くある場所に向かっていた。
「………」
表には一切出していない。そのつもりだが実際のところどうなのだろうか。
すれ違う先生が何か言いたそうにしているが、目で牽制して突き進む。
私は決して走ってなどいない、これは競歩だ。
私を止めたければ校則に廊下での競歩する事は禁止、とでも書いて下さい。もしかしたら書いてあるかもしれないが。
何故、私がこれ程までに取り乱しているのか。
全て浅原 修のせいである。
昨日あそこまでハッキリと言った筈なのに、彼の行為はエスカレートしていた。
話しかけて来るぐらいなら許容範囲内だったが、まさか早朝を狙ってくるとは考えもしなかった。
幸運にも、その行為は角井先生のおかげで事なきを得る事が出来たが、それは彼を大いに刺激したことだろう。
彼は怪物だ。何をしでかすかわからない。そこには心など微塵もない筈だ。
そんな怪物を相手に、調子に乗って煽り嘲笑ってしまった上に、三十分も海鳴無しで向き合っていた。
その間にあったのは薄っぺらいネットだけだったが、無ければ精神が持ってくれなかったぐらい大切な生命線であった。
「……ここまで来れば……」
真冬で凍えるような寒さは自身から発せられる熱に負けて感じない中、目的の保健室に到着する。
生き延びて保健室まで辿り着けたこの奇跡に私は胸をなでおろし、扉を開き入った。
白くて清潔感のある室内の一角、白いカーテンで仕切られているのを見つけてそこに向かおうとするが、途中で足が止まった。
「こんにちは佐西先生」
「……」
返事がない。
涎を垂らしながら机に突っ伏せて当たり前の如く寝ている先生。隙間から覗かせる小さくて可愛らしい顔。
何時間でも見ていたいと思えるが、先生を見ていると頭が困惑してしまう。
私は元男で性転換をして女になった存在。先生は男として生まれ男として生きてきたのに女と見間違えてしまうぐらい可愛い存在。
似ても似つかないその二つの存在だが、何かと既視感を強く覚えてしまう。
「……まあ、いいか」
出口の見えない回廊と一向に起きそうにない先生を放置して、カーテンに手を伸ばした。
レールに沿ってカーテンを開いたその先にあった空間内を認知して戸惑った。
「あ、やっぱり笛重じゃん」
「うん、大丈夫なの海鳴?」
「大丈夫大丈夫」
私の問いに元気に答える海鳴は、その空間の端にちょこんと置かれている椅子に座っていた。
そして、ど真ん中に佇むベッドには何故か宮村が横になっていた。
「……どういう状況?」
海鳴が横になっているものと確信していた為、思考を働かせるのが遅れてしまったので直接聞くことにした。
「んー……このドアホが保健室着くなり倒れ込んだのよ」
「え……それ本当に大丈夫なの?」
「あー、こいつの心配は要らないわよ。半袖半ズボンで調子乗ってたから体が冷えきっちゃっただけらしいから」
「ああ……」
倒れ込んだと聞いてかなり心配してしまったが、どうやらその必要は無かったようだ。
「あ、佐西先生寝てる。床に倒れ込んだこいつ運ぶのに必死になってたから仕方ないか、いつも眠そうだし」
「そうだったんだ」
未だに寝ている小柄な先生が宮村を運ぶ姿を想像するも容易では無かった。力とは無縁に見えるから仕方ない。
「……はぁ」
「ん?どうした…の……って浅原か」
ふと、ため息を吐いてしまう。海鳴にもあまり見せたことのないそれを、急いで手で隠す。
しかし、手遅れだったようで海鳴はその原因まで察した。
「……ま、まさか!クズに何かやられたの!?」
「な、何もやられなかったよ。ずっと直視はしてきてたけど」
「何!?とりあえず締めてくる」
そして、敵対心MAXの海鳴が表をあげた。疑わしきは罰せよの信念の様だ。
「それより、立ってるけど……足、大丈夫なの?」
勢い良く立ち上がり何処かへ行こうとする海鳴は、私の声を聞いて停止する。
今にも飛んでいきそうだったが見事に墜落した。
その場で屈みこんで足を押さえて呟く。
「……いたい……」
その姿を見て私の頬は少しだが緩まった。
昔から心優しい掛け替えのない親友。傑よりも先に心を開くのを許した彼女。
私をいつまでも守ろうとしてくれるその背中は誰よりも信用できた。
「あ!笑ってる!……まったく、人が心配してあげてんのに」
気のせいだろうか。少しだけ緩まっている筈の頬が大いに緩まって感じるのは。そして、声を荒げてしまっている事も。
「あはは……ごめんごめん。バカにした訳じゃないよ」
頬を膨らませて拗ねる海鳴を見て、それらを鎮めさせると口にする。
「ありがとうね。本当に、海鳴と幼馴染で親友で良かったって思ってるから」
「……ふ、笛重」
その気持ちに偽りはない。男だった頃には無かったこの関係性が転生して良かったと強く思わせてくれる。
だからこそ、海鳴に元男だった事を打ち明けられないのが心臓に針が刺さるぐらい辛かった。




