8話 当面の目標
私の言葉を聞いた途端、これまであまり変化のなかったアルヴィンさんの表情が歪んだ。切れ長の目は、険しい表情を浮かべると、途端に近寄り難い印象を受けさせる。
「あなたは……、一体どこから来たんだ。子供でも知っている一般常識を知らないとは……。どこかのお嬢様かと思っていたが、どうやら違うらしいな」
「私は、日本というところから来ました。ご存知ですか?」
「……いや……、聞いたことがないな」
アルヴィンさんは日本に聞き覚えがないらしく、険しい表情のまま、首を横に振った。しかし、一瞬アルヴィンさんが息を呑んだような気がしたのは気のせいだろうか。アルヴィンさんは表情があまり動かない性質らしく、どうにも感情が読み取りづらい。日本について聞き返そうとしたが、その前にアルヴィンさんが口を開く。
「俺は冒険者という職業上、地理には詳しい方だが、この俺でも日本という国は聞いたことがない。……恐らく、そう簡単に帰れるような場所ではないだろうな」
そう言うと、アルヴィンさんは部屋の壁を指さした。釣られるようにそちらを見やると、羊皮紙に描かれた地図のようなものが壁に貼り付けられている。
「あれはイグドラシル大陸の地図だ。地図の右下辺りがこのドラコ村があるドラセナ王国。ドラセナの北東に位置する国はインパチェンス。西にあるのがプルメリア王国。……その顔だと、どの国も聞き覚えがなさそうだな」
「……はい」
「俺は、あなたの体調が戻るまでこの村で休息を取り、その後必要であればあなたを元居た土地へ送り届けるつもりだったが」
「あの! 私は、日本へ帰りたいんです! でもここは私の常識が何一つ通用しない場所で……、まるで異世界みたいで……」
「あなたは嘘をついているように見えないし、子供が知っているような一般常識ですら欠落したような教養のない人間には到底思えない。……まるで、ではなく、紛れもない異世界から来たのだろうな、あなたは」
容易く信用してくれたアルヴィンさんに対し、信じてくれたことに対する喜びと、異世界であることを他者から肯定されたことに対する絶望がせめぎ合う。ぐるぐると巡る感情を表すことが出来ず、私はアルヴィンさんから隠れるように手で顔を覆った。
僅かに金属が擦れる音が聞こえた後、アルヴィンさんから放たれた声色は、先ほどとは打って変わって感情がこもっているように聞こえた。
「すまないが、俺にはあなたを元の場所に返す方法は知らないし、手段もない。だが……、俺が知っている魔術師なら何か分かることがあるかもしれない」
「っ! 本当ですか⁉」
「あぁ。だが、人を転移させる魔術など御伽噺でしか語られないようなものだ。期待通りの結果は得られない可能性もある」
「でも、それでも……、帰られるかもしれない可能性が少しでもあるなら、ぜひその魔術師さんの元へ連れて行ってください!」
勢いそのまま上半身を起こし、アルヴィンさんの腕を掴んだ。その腕が震えているのが、体調のせいなのか、帰る道の欠片を僅かでも見つけられたことへの興奮のせいなのかはわからない。力を込めてアルヴィンさんの腕を掴んでしまったことに気付いて慌てて手を離したが、こんな握力程度ではアルヴィンさんを傷一つつけることはなかった。
咄嗟に謝ろうとしたが、そんな私とは対照的に、アルヴィンさんはすぐに離れていった私の手を引き留めるようにして握り返した。爪が短く手入れされ、表面が分厚く硬い掌は、涼しげな風貌とは裏腹に熱を持っていた。
「……俺に手伝えることがあれば力になろう。だが、まずはあなたの体力を回復させることが第一優先事項だ。紹介したい魔術師がいるのは、このドラセナ王国の王都であるゲアナというところなのだが、ここから馬で駆けて一週間はかかる。旅慣れていない者が途中休息を入れながらとなると……、二週間は見た方がいいな」
「ここは王都から遠い場所なんですね……」
「ドラコ村は、ドラセナ王国内で最北端に位置していて、周囲の村々から孤立したように成り立っている村だ。時間はかかるだろうが……、安心してくれ。あなたは必ず、俺が無事に王都まで送り届けよう」
椅子に座った状態で僅かにかがんだアルヴィンさんは、私の手を握り締めながら、まるで誓いのようにそう告げる。
さながら物語に登場する騎士のようだったが、そう思うより早く、何故ここまで親身になってくれているのか疑問が浮かぶ。
私とアルヴィンさんは紛れもなく初対面であり、アルヴィンさんにとってはどこぞの者とも知れぬ只の小娘だ。洞窟から救い出してくれたのは、たまたま任務で立ち寄った洞窟に、身動きが取れない少女がいたため、戻るついでに連れて行ってくれた、と考えればまだ理解できるが……。ただアルヴィンさんがとても親切な人なのだと考えればいいだけの話なのかもしれないが、アルヴィンさんの様子は、どうにもただの親切心だけではないような気がした。
しかし、見知らぬ世界でたった一人、帰路の道を探すことなど、砂漠の中から砂金を探すようなものだ。冒険者として旅慣れしているであろうアルヴィンさんが連れ添ってくれるのならば、それほど心強いことはない。
「……ありがとうございます、アルヴィンさん。よろしくお願いします」
王都にいるアルヴィンさんの知り合いだという魔術師さんが、日本へ帰る手段を知っているかは分からない。だが、ほんの僅かでもいい。何か手掛かりが掴めることを祈るばかりだ。
当面は、まずこの碌に動かない体を元の状態に戻すことを考えよう。そして、体調が戻るまでの間、王都までの道のりの中で少しでもアルヴィンさんに迷惑を掛けないよう、この世界での常識を少しでも学んでおくべきだろう。本を借りるか、誰かから話を聞くことが出来ればいいのだけど。
(やらなければならないことも、考えなくてはならないこともたくさんある……、でも私は必ず……、日本へ帰る……!)
一度は洞窟で諦めた命だったが、幸運なことにこの体は無事だったのだ。そう実感した途端に沸き上がったのは、幼馴染たちに会いたいという切な願い。隣を見ればいつだって視界に入っていた彼女たちがいないという事実は、心の一部が抉り取られたかのような痛みを感じる。最早永遠に彼女たちには会えないのかと諦めていたが……、命があるのだ。諦めさえしなければ、必ずまた会える。
(あの時は訳が分からない状況で、体も満足に動かせず、空腹状態だったからあんなことを考えてしまったけど……、私はもう、生きることを諦めない。――それに、)
こちらを見つめるアルヴィンさんに視線を送る。
(この命は、アルヴィンさんに拾われたようなもの。私はいつか日本に帰るけど……、それまでの間、アルヴィンさんには恩を返さなきゃ)
こうして、私は日本へ帰る手段を探すため、アルヴィンさんと共に王都ゲアナを目指すこととなる。
――この出会いが、数千年も昔に絡み合った複雑な関係が齎した、稀有な出会いだったとは、私も……、そしてアルヴィンさんも知る由はなかった。