2話 目覚め
ゆらり、ゆらり。
柔らかい雲に包まれている様に、穏やかな波に流される様に、体は自然と何処かへ運ばれる。不思議な感覚ではあったが、何故か恐怖を感じることはない。まるで雄大でいて、荘厳な何かに護られているような気がしたからかもしれない。
暖かく、静穏で、長閑で、安寧な空間。
知ることはないが、母体の中と言うのはこういう場所なのかもしれない。絶対的に安全な場所。護られている、と体感で感じることが出来るのはきっと珍しい事だ。
耳に届く、水面に水滴が少しずつ零れる水音。
鼻に届く、優しく仄かに漂う花の香り。
肌に触れる、背中に当たる堅さと、体の前面を覆う柔らかい布。
背中が少々痛いが、それ以外の全てがあまりにも心地よい。そのまま抵抗することなく、まどろみに身を委ねようと考えて――――。
(……あれ、ここはどこ?)
唐突に目の前が開けた様な感覚。一気に覚醒した意識で、私は思わず息を飲んだ。
開いた視界の先に見えたのは、石造りの天井。ごつごつと不揃いな石造りの天井は、大凡人の手が入っているとは思えない。まるで洞窟のようだ。
ここは一体どこなのか?
混乱する中、取りあえず身を起こそうと地面に手をつき――そのまま鈍い音を立てて体は落下した。どうやら地面に寝ていた訳では無く、少し高さのある石の台座の様な所に寝ていたらしい。高さはそれほどなかったものの、地面が石造りの上、身構える事すらしなかった肢体は完全に防御力を失っており、打ちつけた体はじんじんと鈍い痛みを訴えた。これは確実に痣になるだろう。
「ぃっ……だ、ぁ、……?」
打ちつけた体を摩りながら体を起こそうとして、自身の異変に気付いた。先ほどと同じ様に地面に手を置き、体を起こそうとするが、両腕は唯小刻みに震えるだけで一向に力が入らない。何とか起き上がろうと全身に力を入れてみるものの、私の努力を嘲笑うかのように痙攣するだけだった。
そして、声を出すことさえ酷く億劫に感じる。口をついて出たのは、風邪を引いたような嗄れ声で、酷くざらついていた。
(な、なにこれ……? なんでこんな……っ、え、ちょっと待って、何で服着ていないの、私……‼)
やけに石の感触がダイレクトに伝わるなと思って視線を下ろして驚愕した。何故か私は真っ裸なのだ。慌てて近くに落ちていた布で体を隠してみるが、布は小さなものであり、全身を隠すことは出来ない。申し訳程度に体の前面を隠すだけだった。
体が動かない今、私は唯一まともに稼働する思考回路を必死に巡らせる。
何故、服を着ていないのか。いや、そもそもここは一体どこなのか。
場所は恐らく洞窟……。それも所謂鍾乳洞だろうか。見上げた先の天井はつらら状の岩に覆われ、壁や地面も不自然に隆起している。人の手により形成されたとは思えない不規則な造りの洞窟は、昔テレビで見た鍾乳洞のようだった。どういった性質なのか、岩そのものが淡い光を帯びているため、多少の薄暗さはあるものの視界に問題はない。
そんな鍾乳洞の中で唯一人工物であることを感じさせたのは、私が眠らされていた台座だ。記号のようなものと不思議な模様が彫られた台座は、自然の力でできるようなものではないだろう。台座の模様をよく見ようとほんの僅か身じろぎしたとき、手に何か感触を得た。
(……花……?)
気付かぬ内に掌で踏みつけていたのは、花弁が四つに分かれた小さな花だった。形が崩れてしまった花から、一枚花弁が剥がれ落ちている。
しかし、何故こんなところに花があるのだろうか。緑や土がなく、とても花が生息できるような環境ではない。
不思議に思って視界を巡らせると、台座の上から華やかな色がはみ出していることに気付いた。どうやら花自体は台座の上に置かれていたらしく、私が台座から転げ落ちた際に、一緒に落としてしまったらしい。
(私の周りには花が添えられていた……、ということは、やっぱり誰かに連れてこられて、その誰かが花を……?)
花が添えられていた理由は分からないが、この現状は誰か人の手によって齎されたということは確実だ。考えたくはないが、裸にしたのも同じ人物なのかもしれない。
しかも、周囲を花で飾られていたなど、まるで祀られでもしていたのだろうか。なんとも不気味だ。
私が覚えているのは、放課後の教室で真夏たちと夏休みの計画を立てていた所までだ。その後の記憶がぶつりと途切れている。取りあえず夏休みの最初の方で課題を片付け、その後皆で何処に行こうか計画を立てていて――――気がついたらここにいた。
(誰かに誘拐された……?)
そう考えてすぐに否定する。あの場には私だけでなく、幼馴染が全員揃っていた。武術に長けた天道がそこら辺の誘拐犯なんかに後れを取る筈がない。第一、まだ学校内にいたはずだ。あの学校はセキュリティにも厳しく、校門には常時警備員が立っている。不用意に不審者の侵入を許すとは思えなかった。
そもそも私自身に誰かに襲われたような記憶がない。まるで私だけが急に何処か違う場所へポンと飛ばされてしまったかのような――
「……な…、…ん、……ぅ」
背筋を撫でる言い知れぬ恐怖に、私は思わず助けを求めるように真夏たちの名前を呼ぼうとした。しかし、声は最早声とは言えない程に弱く掠れている。
今の私には、口に馴染んだ幼馴染の名前すら呼ぶことができなくなっていた。