プロローグ
私、暁 里桜が持つ最も古い記憶は、幼馴染たちとの想い出だった。
泣いている私の背中を摩りながら貰い泣きをしている少女。
綺麗に皺が伸ばされたハンカチを差し出す少年。
ポケットから取り出した飴玉を口に放り込む少年。
三者三様の行動を見せながらも、彼女たちはただただ私を慰めようと寄り添ってくれていた。一緒に泣きだした少女を見て逆に私が慰める側に回ったことや、少年が差し出したハンカチから漂った優しい花の香りや、少年が口に入れた飴玉の甘さを、今でもよく覚えている。
彼女たちと共に年を取り、高校生になった今でも決して忘れることのない、私の大切な記憶の1つである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「りーおっ!」
蝉のけたたましいな鳴き声。肌を撫でる生温い風。焦げる様な太陽の光。すっかり夏らしくなったと思いながら通学路を歩いていると、後ろから暑さを吹き飛ばすような明るい声が掛る。振りかえってみると、日の光を浴びてキラキラに光る金髪を持つ少女、霧ヶ谷 真夏が白い歯を見せてニッコリと笑っていた。
「おはよう、真夏。今日も相変わらず元気だね」
真夏は、短くカスタマイズされた制服のスカートをひらりと翻しながら、満面の笑みを浮かべる。着崩した制服に脱色された髪と少々派手なメイクをして、見た目こそ今時の流行りに乗った女子高生といった風貌だが、その笑顔はまだ片手で足りる程度の年齢だった幼い頃からなにも変わらない。
制服を自己流に着こなしているところからも分かるが、真夏はファッションには人一倍こだわりがあるらしく、自分が着たいものしか着ないので、高校入学早々真新しい制服を躊躇なく改造を施した。そのため、教師陣からも目をつけられているのだが、世渡り上手な真夏はのらりくらりと交わし続けている。
そんな真夏は、勿論私服にも並々ならぬ情熱を注いでいて、最終的には「気に入った服が見つからなかったから、自分で作っちゃった!」と一から自分で服を作り始めた。そのクオリティはまさか手作りだとは思えないほど精密で丁寧な作りをしており、デザイン性も申し分ない。
「だって明日から待ちに待った夏休みだよ‼ 海にバーベキューに夏祭り! 里桜、今年も新作の浴衣作ったからお揃いで着てお祭り行こうね!」
浴衣を手作りできる女子高生が世の中にどれほどいるだろうか。さして苦労もせずに毎年浴衣を作り上げる真夏は本当にすごい。実際に真夏が作品を作り上げるのを隣で見たことがあるが、ただの布切れだったものが徐々に形を成していく様を見て感心したものだ。
隣を歩きながら指を折り夏休みの予定を数える真夏は、余程明日に控えた夏休みが待ち遠しいらしい。朝を感じさせない陽気な声色で話していた真夏だったが、突然「ぎゃっ!」と言う悲鳴とともに口を噤んだ。振り返れば、真夏の頭上に手がかざされている。どうやら頭を叩かれたらしい。
「朝から煩いぞ、真夏。少しは里桜を見習って落ち着いたらどうだ」
「新、おはよう」
「いったいなー、もう‼ 髪型が崩れるから頭叩かないでっていつも言ってるでしょ!」
「あぁ、里桜。おはよう」
抗議の声を上げる真夏を無視して、返事を返した彼の名は八神新。私と真夏の幼馴染であり、常にテストで学年一位の座に君臨している優等生だ。規定通りに着こなした皺一つない制服のワイシャツは一番上までボタンが留められ、一度も染めたことのない艶やかな黒髪に似合っている。
新と真夏は、見た目は勿論、性格も正反対なため、二人が会話を始めると途端口喧嘩に発展する。よく喧嘩に発展する二人に最初こそ慌てて止めていたものの、今となってはこれが二人のコミュニケーションなのだと静観している。結局幼馴染として長年付き合っているのだから、喧嘩するほど仲が良いということなのだろう。
「新、夏休みの計画はどうなりそう?」
「一応受験生なんだから、これまでみたいに遊び惚ける訳にはいかないぞ…と言いたいところだが、どうせそれじゃあ納得しないだろ?」
「あったりまえ!」
「…だと思って、計画は立てておいた。だが今年はまず課題が優先だ。遊びたければ三日で課題を終わらせろ。話はそれからだ」
「み、三日⁉ 無理無理! そりゃ新と里桜は学校の課題なんて楽勝だろうけど、あたしと天道は無理だって!」
「おい、真夏。俺まで巻き込むんじゃねえよ」
低いテノールを響かせながら現れたのは、幼馴染四人組の最後の一人である御縁天道だ。真夏の言葉に物申したそうな天道は、凛々しい顔を歪めている。
私よりも頭一つ以上背の高い天道は、185㎝超えの巨体とそれに見合った逞しい筋肉を持つ生粋のスポーツマンだ。幼い頃は野を駆けまわり、小学校では野球にサッカー、中学では柔道と水泳、高校では空手と弓道とありとあらゆるスポーツを嗜み、そしてそれぞれで優秀な成績を残している。持って生まれた天才的な才能と、ストイックなまでに練習に取り組んだ努力の結果は、いくつも獲得してきた優勝トロフィーが物語っている。
そんな天道は勉強よりも運動を優先してきたわけだけど、テストの順位でいえば学年の中間辺りに位置している。学年一位の新に比べれば低い方だが、下から数えた方が早い真夏にだけは言われたくないセリフだったのだろう。
「いやいや、天道…現実見ようよ。課題を三日で終わらせるって、出来ると思う?」
「優秀な先生方がいるんだから、まぁ…大丈夫だろ」
天道は溌剌とした笑みを浮かべながら、私と新を見ながら簡単に言ってのける。どうやら当てにされているようだ。
「えぇー…まぁ、里桜が教えてくれるならいける、かなぁ…?」
「言っておくが、教えるとしても真夏の教師役は俺だからな」
「げっ⁉」
「里桜は真夏に甘いし、真夏は里桜にすぐ甘えるからな。里桜が相手だとどうせすぐに休憩を取りたがるだろ?それじゃあ課題が進まない。…任せておけ、三日で終わるように俺が指導してやる」
「や、やだー‼ 里桜がいいー‼」
「お、じゃあ里桜の手は空くってことか? 里桜、俺に教えてくれよな」
「うん。夏休み、皆で遊びたいもんね。一緒に頑張ろ!」
「み、味方がいない……」
真夏には申し訳ないが、私としても最初に課題を終わらせてしまうのは賛成だ。実際真夏は去年、夏休みの終わりになって全く課題に手を付けていなかったことが発覚し、泣きながら助けを求めてきたのだ。そのこともあり、新は絶対に真夏の課題を終わらせてからでないと、遊びには付き合ってくれないだろう。四人揃って遊びに出掛けたいのだから、ここは真夏が頑張るしかない。
がくりと肩を落とした真夏を励ましながら、私たちは通学路を進む。
「来年からみんな進学先バラバラだからね…高校生最後の夏休みを楽しめるように、真夏も頑張って」
「はーあ…頑張りますよー。…進学先って、里桜と新はちょー頭いい大学でしょ?あたしは服飾関係の短大の予定だし…天道はスポーツ推薦だっけ?」
「まあな。…つっても、進学先が違ったって、結局今みたいにこうして四人集まってそうな気がするけどな」
「あはは! 間違いない!」
天道の言葉に、真夏は笑顔と共に同意する。新も、声に出さずとも同意している様子だ。
進学先が違えど、これまでの関係が変わる訳ではない。今までのように気付けば四人揃っている光景は、容易に想像することが出来た。決して短くない時間を共に過ごし、幼馴染として築いてきた絆は、進学先の違い程度で壊れるようなものではない。
「ま、女子高生最後の夏休みを満喫できるように頑張りまーす。ね、里桜。課題頑張るからさ、差し入れお願いね!」
「ふふ、任せて。何かリクエストは?」
「この間食べた抹茶のプリン」
「俺は唐揚げな!」
「ちょっと! あたしがお願いしたんだから、あたしの希望のものからに決まってるでしょ! しかも天道に至っては、差し入れというよりがっつりご飯じゃない」
「大丈夫、全部作るよ。それで? 真夏は?」
「ショートケーキ!」
食べ物のこととなると子供のようになる彼女たちを前にすると、小さな子供を持つ母親になった気分だ。
真夏と新の口喧嘩は日常茶飯事だが、こと食べ物が絡むと、そこに天道も加わる。三人が私の作った料理やお菓子を取り合う光景は、さほど珍しいものではない。料理に慣れてくるにつれて彼女たちの食べる量も把握していったため、最近では取り合いの喧嘩は減ったものの、代わりにリクエスト権の争奪戦が目立つようになってきた。私としては、料理はほぼ趣味のようなものだし、争奪戦が起きるほど皆が美味しく食べてくれるので嬉しいことではある。
「新が抹茶プリン、天道が唐揚げで、真夏はショートケーキね」
「里桜のケーキが食べられるって考えたらやる気出てきた!」
「現金な奴だな…餌をぶら下げられずとも勉強くらいしろよ」
「うるさい! あたしはやれば出来る子なんだからね!」
「そのやる気が一向に起きないんだから、結局出来ないのと一緒だな」
「なにぃ⁉」
「まーた始まったよ…あいつら、喧嘩せずに会話できねーのか」
「まぁあれが真夏たちのコミュニケーションだからね」
「真夏も新に口で勝てるわけねーんだから、いい加減学べばいいものを…」
後ろで言い合いをしている真夏と新を後目に、私は天道は歩き進める。やがて天道の言う通り、口喧嘩に敗北した真夏が私の腕に腕を絡ませながら泣き言を言い始めるのだが、その姿はまさに親に言いつける子供の図である。それに対して、勝者である新は得意げな表情を浮かべ、天道はそんな真夏と新の姿を見て呆れている。
だがその後は結局何事もなかったように、自然と日常会話へと移行していく。日常で交わされる平凡な会話の主題など、目まぐるしく変化していくものだ。
「今日は学校終わったら夏休みの計画立てようねー」
「今年は猛暑らしいからな。日焼け対策はしっかりしておけよ」
「天道は弓道部と柔道部の大会もあるんだよね?みんなで応援行くから日程教えてね」
「おー、応援頼むぜ」
「柔道部といえば、あの顧問の先生どうにかしてよ。あたしこの間追い掛け回されたんだけどぉ」
「生活指導兼任だからな。この間先生も真夏をどうにかしてくれって嘆いてたぜ」
「追い掛け回されたのは、その制服が原因だろ。いい加減、制服くらいまともに着たらどうだ」
「似合ってるからいいでしょー。本当は里桜の制服も改造したかったんだけど…里桜、美脚だからスカートもっと短くして男どもに見せびらかせばいいのにー」
「やめろ」
新と天道の声が見計らったように重なる。
「…ウワァ、出たよ、里桜のモンペ。こんなんだから里桜は恋の一つも経験できないんだっ…!」
「里桜、もし好きな奴が出来たら絶対俺たちの前に連れてこいよ。俺たちが精査してやる」
「俺は、俺より強いやつしか認めねーからな」
「採点がちょー厳しい新だけでも厄介なのに、柔道で日本一の天道より強い奴とか…絶望的じゃん」
「あはは。私は皆と一緒にいる方が楽しいから。恋とかはいいかなぁ」
「里桜! そうは言っても気付いたら落ちてしまう! 自分の感情では制御できない、それが恋よ!」
「何キャラだよ、それ」
特別でもなんでもない会話を交わしながら、私たちは道を進む。
私の右側には、腕に腕を絡めて歩く真夏。左側には背筋を伸ばして悠然と歩く新と天道。この並びは昔から変わることなく、今なお続いている習性のようなものだ。
この時、まだ無知であった私は、信じた未来が確約されたものだと誤解していた。
進学先が変わっても、真夏の言うように誰かに恋をして、もし将来結婚したとしても――きっとこの関係はいつまでも変わることのない不変のものであると。大人になっていくに連れて共にいる時間は減ってしまうかもしれないが、それでも四人の間に結ばれた絆は、永遠のものであると。
私は知らなかった。
確約された未来などないということを。
自分の予想通りの未来など訪れることがないということを。
――なにもしらなかった、わたしは、なにも。