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「空転!」
萩野機関士のその言葉とほぼ同時かそれよりわずかに早く、上から下がる鎖を引いて焚口を開けてやる。すさまじい振動に揺られた。動輪が軌条をなめているのだ。こういったときはこのように焚口を開けてやって、空気を取り入れられるようにしなければ、ここまで作ってきた火床が激しいシリンダ排気による通風で吸い出されてしまう。
「このままだと隧道まで難儀するぞ。」
その萩野機関士の悪態に呼応するかのように幾度も起こる空転。秋雨の後は踏みしめられてこびりついた落ち葉が悪さをして機関車の乗務員を苦しませるのだ。
「クソッ、軌道が濡れてやがる。」
更に悪いことに雨が止んでから時もあまりたってはいない、余計に空転するだろう。空転を頻発させたこともあって、歩いているのとも大して変わらないような速度でよろよろと進む。明らかにこのまま何もしなければ立ち往生しかねない状態で機関車は随道に向かって行く。随道進入を知らせる汽笛を、萩野機関士が鳴らすのと同時に濡らした手拭いで鼻から下を覆う。
間を開けずに随道に入る。中には光源はなく、また、逆流する煤煙に視界は薄暗くされる。排気ドラフトの重苦しい音、足回りがたてる甲高い金属の擦れる音、連結器がたてる重量物が勢いをもってぶつかり合うような音、それらが混じり合って反響しドロドロと不気味な音となって耳を刺激する。随道内では、極力石炭をくべない。文字どおり煙に巻かれて最悪廃人になるか死ぬ。しかし、落ち葉が少ないから比較的空転しにくいはずの隧道内でも空転が頻発し、とうとう火床が吹っ飛んでしまった。圧もおちこんで、さらに液面計を見れば、水位が下がって来ていたので、注水器のハンドルに手をかけた途端に、機関士が言う。
「最小限に投炭せよ。こんなところで窒息なんて洒落にもならんぞ。」
萩野機関士の声にうなずきを返して注水器のハンドルを回し、コックを引く。独特の音を立ててボイラが水を飲んでゆく。9600はなかなかこのようなところで水をを飲ますことに躊躇しがちになる。大型の機関車と違って給水ポンプとそれに付帯する機械がないからだ。大型の機関車は給水ポンプがあって、それに伴ってシリンダー排気を使う給水温め器が付いている。それらはボイラへ飲ませられる水も多く、しかも給水温め器で温まった水がボイラに入るのだ。注水器では直接蒸気を使ってボイラに冷たい水を入れてしまうから厄介だ。蒸気圧が下がったときに使うことが躊躇われる所以でもある。あまり躊躇うと可熔栓を熔かしてしまって走れなくなってしまうが。
水を入れるために蒸気を使ってしまえば、ただでさえ下がっていた罐圧はさらに下がる。荒れて力を失いつつあった火床に新たな石炭をくれてやる。ただでさえ充満しつつあった煤煙はまして渦巻いて絡みついてくる。次第に呼吸は苦しくなり、視界は奪われてゆく。炭水車に顔を突っ込めば、石炭の隙間に残った空気で息が楽になるだろう。しかし、出力不足でこのまま立ち往生したら?そのような惧れだけが国鉄職員であるこの躯に義務感を吹き込み、運転から逃れまいとさせる。
ようやく光に照らされてか、煙が薄れたように感じた。口元に充てて空いた濡れ手ぬぐいは今や完全に乾いていた。
随道を抜けて一息入れていると、萩野機関士と目が合った。
「おい、そのズボン、不衛生だ。後で新しいものを受領して来い。」
血で汚れていた。
★☆★☆★☆★☆
機関区に近い飲み屋。その一角で安酒を呑みながら話す二人の男たちが居た。
「萩野機関士、あの娘っ子、どうでしたか。」
そう聞くのは一般ならあの娘と組んでいる立脇機関士だ。今日は仮病をして、意図的に萩野機関士と組ませたのだ。お互いの合意の上で。
「あぁ、中々見所がある。良い機関士になるな。」
「やっぱりそう思いますか。」
そう言いながら頭を掻く立脇。そしてホッピーを混ぜた焼酎をあおる。
「でもね、私ぁ、持て余してしまいまして。」
「あー、お前さん、俺にアイツを押し付けようって魂胆だな?良いだろう、俺のところの坊主はアイツより良いぞ、釣りが要る。だから今日の酒代はお前さんの持ちな。」
そういいながら、明治三十八年生まれの老機関士、萩野定吉はぐいと酒を呑む。こうして夜も更けてゆくのであった。