#12 ひかりかむさり
【#12】
「────う」
眩しさに耐えながらアクセルリスが目を開けると、そこはどこまでも白く輝く空間。ほんのりと、優しい温かさを感じていた。
「ここは」
揺らぐ足場。蜃気楼の上に立っているかのようなアクセルリスは、ひとりの魔女としての姿でここに在った。
「──おめでとう、アクセルリス」
その前に姿を現したアイヤツバスもまた、潔白な知識の魔女としての姿で。
「これで、ほんとうに、あなたの想いは果たされた」
「あなたを──殺せたんですね」
「ええ」
微笑むアイヤツバス。その顔に一切の邪悪も怨恨もなく、ただ心の底から愛するアクセルリスを祝福する。
そしてアクセルリスは。
「ああ──やっとかぁ」
見上げ、一筋の涙を流した。たった一雫の涙だが、込められた覇道、そして縁は世界をも超える。
「これで終わりなんですね、これで、ほんとうに」
「そうよ。あなたがそう言ったんじゃない」
「でもなんか、実感が湧かないというか」
「ふふっ、そういうものよ」
アイヤツバスは表情を変えぬまま、淋し気な色をも浮かべた。
「……ああ、私もその感覚を味わってみたかった」
「残念です。でもこればっかりは譲れないので」
「分かってる。ただの他愛ない負け惜しみよ」
残酷と不安定、いずれかの悲願が成されるとき、いずれかの悲願は砕かれる。決して交わることが許されない関係にありながらも、しかし二人は尊き縁で結ばれていた。
「そういえばアクセルリス──あなた、どうやって私を滅ぼしたの」
互いを繋ぐ縁を思い、アイヤツバスは切り出す。
「その感覚──『縁』を断たれる感覚を一度味わったからこそ分かる。私とあなたの『縁』は切れていない。そうよね」
二人を結びつける縁が残っているからこそ、この空間──二人のためだけの世界は在る。
では、如何様にしてアクセルリスはアイヤツバスの最後かつ最高の光に打ち克ったのかといえば、それは。
「簡単なことですよ──より強い『縁』をぶつけて、むりやり押し切った。それだけのこと」
純粋な笑みを浮かべ、アクセルリスは言う。
だがアイヤツバスは尚も訝しむばかり。無理もないだろう。
「軽く言うけど、私が持つあなたとの『縁』より強いものなんて」
「私の中のあなたとの『縁』です」
「…………!」
だがその答えは、ずっとそこにあったのだ。
「それは世界にあって、たったひとつだけの力。でもそれは、ずっとずっと私の中に存在していたものなんです」
「成程────」
必然だった。納得するしかない──アイヤツバスは水を打ったように息を吐き、そして言った。
「完敗ね」
と。
互いへの想い、全力と全力をぶつけ合った果ての決着。アイヤツバスにも後悔はない。
安堵か、諦観か、納得か。その言葉を引き金にするかのように、アイヤツバスの体が淵から消え、赤い粒子となり立ち消え始めた。
「お師匠サマ」
「ええ。負けた私は、滅ぶのみ」
「……怖くはないんですか」
アクセルリスは訊ねた。それは彼女が心の奥底に抱え続ける、生命がもつ根源的なもの。
「死ぬのは、怖くないんですか」
「そうね──いつからか、私の中には『死』への焦がれがあった。だから世界ごと死んでしまおうと、ここまで来た。だけど──」
アイヤツバスの中を一瞬の光が過ぎる。それは彼女が銀色と出会い、駆け抜けてきた短くも輝かしい日々の影だった。
「不思議ね。今になって死ぬのが少し怖いかも」
「なら、なんでそんな冷静でいられるんですか」
「あなたと一緒にいるからよ、きっと」
アクセルリスはあらゆる命を祝福する存在。きっとその傍は、生まれる命にとっても死ぬ命にとっても心地よい空間なのだろう。
「私には、あなたの方が怖がっているように見えるけど」
「……怖いですよ。だって私は、あなたを失うんです」
ぽつりと漏らしたのは、彼女が初めて見せる『恐怖』。あらゆる意味で生きる意味と等しい程になっていた存在──それが消えた後の己を、アクセルリスは知らない。
「私の傍で未来を指し示してくれたお師匠サマと、私が覇道を駆け抜けて追い続けた全ての仇と」
相克は銀の中で相生する。
「そんなあなたを失った先、私はどうなるのか。魔神になってしまった私は」
「あなたが決めるのよ、アクセルリス」
無情に切り捨てた。しかしそれは、深い愛があってこその言葉だった。
「私はここで、あなたの道から消える。だからもう、私に縋らないで」
「──っ」
「あなたの道も、あなたの命も、あなただけのものなのよ。それを決めるのは他でもないあなたのエゴなのよ」
今、アイヤツバスは永久に消える。そしてアクセルリスはたったひとり歩み出すことができる。それは何者にもとらわれざる彼女の残酷なのだ。
その意味を噛み砕いたアクセルリスは、強い決意を瞳に宿した。
「…………あなたが言うことですか、それ」
「私以外が言うことでもないでしょう?」
「言えてる」
重い感情をあえてそっけなく交わし、笑い合った。
アイヤツバスの体から昇る赤い粒が増えている。永くを生き数多を滅ぼしたかの魔女が、ついに死ぬ。
「もう長くはないわね」
「言い残したこととか、やり残したことはないんですか」
「ないわ。あれだけ好き放題やったのだから」
「なら良かったです」
アクセルリスの心を覆う一つの暗雲が、今遂に晴れた。
彼女の表情からそれを悟り、アイヤツバスは言葉を紡ぐ──滅ぶ己から旅出す銀へと、最期に残す想いを。
「アクセルリス。元気でね」
「言われなくても。私はアクセルリス──残酷のアクセルリス。本能が叫ぶ限り、生き続けてみせる」
「あなたのこれからの旅路に幸多からんことを、世界の向こう側から祈り続けてるわ」
「心強いです」
旅立つ弟子と見送る師。二人はやっと、真なる師弟としての決別を成した。
「っ!」
瞬間、世界が揺れた。
消え往くのはアイヤツバスの体に留まらず。二人を包む白き世界までもが無へと還りつつあった。その二つが完全に消えたとき、アクセルリスは彼女の世界に帰り、彼女の道を歩き始める。
終局はすぐそこに。その中でアイヤツバスが口を開いた。
「…………やっぱり、最後に一つだけワガママを言おうかしら」
「なんですか」
聞き返した直後、アクセルリスは体に纏わり付く『何か』を感じ取る。
「これは」
それはこの空間──則ちアイヤツバスの意志の具現そのもの。意味するのは、アクセルリスをも消滅に巻き込もうとする邪悪だった。
アイヤツバスは笑い、言う。
「アクセルリス。私と一緒に消えましょう?」
「まだそんなことを……!?」
「完敗して、別れの言葉も交わして。らしくないのは自覚してるわ」
その情感が、最高潮に極まる。
「でもやっぱり──私は大好きなあなたと一緒に死にたいの」
「最後まであなたらしいけど、マジ勘弁……!」
振り切ろうともがくが、彼女の身体は動かない。全ての力を使い果たしたかのように──否、実際にそうなのだろう。
アイヤツバスは半身以上が消え、世界も二人の足元を残し崩落した。このまま二つの命が世界から消えてしまうまで、幾ばくも無い。
「────ッ!」
アクセルリスの瞳に残酷がいっぱいに広がった、その瞬間だった。
世界が、断たれた。
「────え」
「あら──」
その斬撃はアクセルリスごと白き空間を断ち斬り、彼女の体を自由に返した。
「斬られ──え?」
不思議な感覚がアクセルリスに残っていた。確かに刃が己の中を通り抜けた──だのに痛みも傷も残らず、ただ『斬られた』という事実だけを体が知る。
やがてその感覚を反芻する間もなく、彼女の体は自由落下を始める。
「あ────」
アイヤツバスだけをそこに残し、空間の裂け目の先──広がる空へと落ちるアクセルリス。
「お師匠サマ────!」
アクセルリスは、本能的にアイヤツバスへと手を伸ばそうとした。救いをそこに求め、見えぬ途を共に往く為の手を。
「ッ!」
しかし、残酷はその手を引き戻す。風に煽られ銀色の髪が靡き、銀色の眼が全てを映した。
「──違う。私は────私の名前は、アクセルリス」
「いい名前ね」
アイヤツバスもまた、優しい眼差しをアクセルリスに向け、そして笑顔で見送った。
「いってらっしゃい。アクセルリス」
そしてアクセルリスは光の中に消えた。
代わりに、滅びゆく空間の中に立つ者がいた。
黒き鎧、剛き躰に冷徹を宿す執行のシステム──バシカルだった。
アイヤツバスがその存在に驚き、語りかけようとする──バシカルの剣が、平々凡々とした剣がその言葉を制する。
「何も言うな。もう私は、何者とも言葉を交わさない」
そのまま彼女は彼女の言葉を続ける。それは冷徹もなく、ただ身勝手なままに。
「神などいない──やっと私は、冷徹を捨てられた」
脱力し、そして笑った。彼女が久しく失っていた、無垢で屈託のない笑顔だった。
そして世界は消えた。
【続く】