#10 影鋼は我に在り
【#10】
阻まれる。
アクセルリスの影から伸びた一本の腕が、絶死を招くアイヤツバスの腕を掴み、アクセルリスを守っていた。
否、一本に留まらず。数えることすら憚られるほどの腕が次々と伸び、アイヤツバスの全身のあらゆる部位を掴む。
「どこまで死に損なうのかしら」
「…………どこまでも、だ」
アイヤツバスはそれを振り払うが、腕の出現が上回り、自由を明け渡さない。
その間にアクセルリスがゆっくりと立ち上がる。見るも無残なほどの満身創痍──だが生死を分ける戦いにおいてはこの上なきドレスコードだ。
「死にそうだ。でも──だから私は生を強く実感できる」
影の腕がアイヤツバスを拘束し続けるまま、アクセルリスは呼吸と鼓動を整え、右腕を掲げる。銀の左目が残酷に、赤い右目が凶暴に輝いた。
「それはそれは。良かったわね」
「感謝します。あなたのおかげで私の生存本能はこれ以上なく極まった」
その翼腕が影を集めて肥大化し、広げられてゆく。
尚もアイヤツバスは、動けない。それは咎が導く最上の徴。
「だから、あなたに捧げます」
右の拳を握った。そして。
「私の命の輝きをッ!!!」
振り下ろした。同時に、両の翼腕が全力でアイヤツバスに叩き付けられた。
「────ッ!!!」
命を、魂を、そして存在そのものを揺るがす衝撃。余りの一撃にアイヤツバスは無防備に引き摺り落とされる。
「往こう──本当の終わりへ!」
アクセルリスもまた己を確かめるように叫ぶ。翼腕で直接アイヤツバスを抑え込み、同時に鋼と影の槍を無量に生み出す。
「斃れろ! アイヤツバス──ッ!」
「──嫌って言ってるでしょ!」
それが一斉に突き刺さるより先に、アイヤツバスが現を取り戻す。そして振り抜かれた赤黒い帯がアクセルリスの翼腕と全ての槍を解き、無に還した。
「私は世界と共に滅ぶ──それまでは決して斃れない! 私の中の声──ケターがそう語ってるの!」
壊れかけの右腕から生み出される魔力の剣。己の滅びも顧みないアイヤツバス、その執念の極限。
「だからあなたが消えなさい!」
「消えてたまるか!」
魔剣が我武者羅なほど激しく振るわれる。触れれば虚無──トガネで切り結ぶことも出来ず、アクセルリスはただ躱し続ける。
「世界滅亡だの、祖先からの縁だの、ケターの遺志だの……!」
その言葉に見えるのは苛立ちに似た感情。
「いつからかあなたはそればっかりだ! いい加減聞き飽きてるんだよ!」
「仕方ないわ──私が一番譲れないものなんだから。あなたの『生きたい』という気持ちと同じ」
「──そこまで私のことを理解しているのに」
数本の槍がアイヤツバスへと飛んだ。それはアクセルリスの純粋な感情の表象だった。
「私とケター、どっちが大事なんだ!!!」
「それは──どっちも、よ! あなたもケターも、向く先は違うけど私にとっては比べられないくらい大切なもの!」
「本ッ当に、ずるい人!」
アクセルリスは振り絞るように叫び、両脚でしっかりと大地に君臨し、盤石たる不動のままアイヤツバスへとまっすぐな目を向けた。
「そんな目をしても意味は無いわ」
宣告通りにアイヤツバスは剣を奔らせる。そして、アクセルリスは。
「私には…………!」
魔剣を──その手で受け止めた。
「あなたより大切な人は、いないのに」
しかし、アクセルリスは消えない。枢機に還ることなく、確固たるカタチを有して魔剣を掴み抑えている。
「な……どうして」
「極端な話、剣もあなたの魔力なんでしょう?」
それは単純かつ根本的な答え。ここにある影鋼の魔神は世界にあってただ唯一、アイヤツバスの魔力に打ち克つことの出来る残酷を有している。
「なら喰えばいい──それだけ!」
笑みを浮かべ、魔神は捕食を開始する。アクセルリスへと戦災の魔力が流れ落ち、剣の勢力が段々と弱まりゆく。
「そんな無茶苦茶な……いえ。それを通してきたのがあなた、なのよね」
「かもね!」
「だったら私も後には引けない──迎え撃つわ!」
魔力を止めれば、その瞬間に影鋼の魔獣は源たるアイヤツバスに喰らい付き、噛み殺すだろう。もとより退く選択肢はない──アイヤツバスは神たる魂を内燃させ、魔力を生み出し剣へと補いゆく。
そしてアクセルリスは絶え間なく力を増し続ける魔剣を食い続けるのみ。
遥か遠く、千年続くとさえ思える神々の均整。それは少しずつだが着実に、鋼を錆で蝕む。
「────ッ!」
アクセルリスの表情が歪んだ。当然アイヤツバスも敏くそれに気付き、同時にその真意をも知った。
「ええ、ええ。流石のあなたでも辛いでしょ?」
「……なんのことかな!」
鋭い笑みを浮かべ気丈に返す──だがその実、全ては見抜かれていた。
アクセルリスはアイヤツバスの魔力を喰らい、糧にすることを誓った。彼女にはそれだけの力とエゴがある、それは十全な事実。
しかし限度はある。魔剣から流れ出るのは、量も質もこれまでアクセルリスが喰らってきた中でも図抜けている魔力。それが積み重なれば、確実な苦痛と嫌悪感は段々とアクセルリスの体を支配していくのだ。
「あなただって魔力を生み出し続けなきゃいけないのは辛いんじゃないの!」
「ええ、辛いわよ。でもあなたほどじゃない」
「言うじゃんか……!」
その言葉もまた正しく。互いに抜き差しならない攻防だが、長く続けば続くほど不利になるのはアクセルリスの側である。
「ぐ…………!」
「さぁ、あなたの足掻きを見せなさい!」
遂に声が漏れ、アイヤツバスが高く笑う。
「黙れ! 私に指図するな……私がやることは私が決める! ケターの声に縋るあなたとは、違うッ!」
「仮にも私は育ての親なのに。それが私への態度かしら」
「あなたを今から超えるんだッ!」
極限、殺伐の中、アクセルリスが遂に動く。
「はああああァッ!」
その背から伸びたのは再度編み上げられた翼腕。大きく弧を描き、武器を持たぬアイヤツバスの左側面を狙う。
だがアイヤツバスは翼腕を掴み返すように左手を伸ばし、そこからも魔剣を生み出した。それに触れた翼腕もまた消えてしまう。
「残念──私自身の滅びなんて、もう恐れてないのよ」
「だったら! 黙って死ね!」
「威勢だけは──」
言葉の最中、アイヤツバスの唇は止まった。
その右腹部に何かが刺さったことを感じたからだった。
「っ!」
見る。そこには妖精の剣をアイヤツバスへ深く突き刺す逆の翼腕があった。
「確かに──刺さったッ!」
アクセルリスはそれを目視すると、左手を剣へ翳した。神の命に従い、過剰なほどの鋼の元素が刃に集い──そして芽生え始めた。
「痛いよ、歯ァ食い縛っとけ!」
それはかつてアクセルリスが用いていた戦技。生成した鋼へ更に元素を籠めることで、枝分かれする穂先を生み出し穿つ『鋼の樹』。
神となり遥かに規模の大きくなったこれは、名付けるのなら『鋼の森』だろうか。妖精もまた、鋼の森の中で歌い踊る。
「く────!」
魔神の力を得た鋼は僅かなうちにその樹林を拡大する。突き刺さった腹部を中心に、アイヤツバスの右半身と両脚を刺し絡め捕っていた。それは一息の間に起こったテラフォーミング。
そしてアイヤツバスの動きが鈍ったその一瞬の隙を突き、アクセルリスは大きく離れた。存在を確かめるように手を握る。永く魔剣と触れていたが、全くの欠損も傷もそこにはなく。
「はぁ──すぅ────ふぅ」
彼女は項垂れて呼吸を整えながらも、喰らった数多の魔力をじっくりと咀嚼し、そして指先に至るまで己の魔力と全ての残酷を満たしていく。
「そうだ──そうやって静かにしてるほうが、あなたには似合う」
「私が一番嫌いなことなのだけれど……!」
神の膂力も、戦災の炎も、強い独我と妖精との絆を宿した鋼の拘束を解くことは叶わない。やがて魔剣も消え果てる。
悠々、身体に残ったアイヤツバスの魔力を嚥下し尽くし、アクセルリスは真っ直ぐに立つ。
「命という糸。縁という糸。運命はそれが織り成す布のようなもの。かつてあなたはそう言った」
手にしていた神器をその場に浮かべ、代わりに弓を握った。同時に剣と槍を形成していた鋼が霧散し、折れた一対のトガネへと戻る。
そのトガネの先端部をゆっくりと弓につがえた。神殺しの矢であれば、やはりこれより相応しいものは無い。
「なら、私の『糸』は────」
一気に弓を引き絞る。影の衣の中、銀色に輝く血管がこれまでよりも強く浮かび上がり、光と影の調和を窮める。
「──此処に在る!!!」
そして、解き放つ。
魔神、魔女、使い魔、妖精。繋がる縁、伸びる糸を束ねられたが如きその一矢。世界の終局にまで至った全ての想いを乗せ、全てを超えてアイヤツバスへと迫る。
「何度も、何度も──!」
アイヤツバスは怒りさえも籠めて叫ぶ。同時、虚空に幾重にも重なった魔法陣が生み出され、その破壊と引き換えに飛来する切先を天へと弾いた。
「──!」
「この程度で十分! 残念ね、あなたの繋げてきた縁じゃ私の執念を超えないわ!」
「それを決めるのは私だ! 今までも、今も、これからもずっと!!!」
答えを吠えながら、アクセルリスは折られたトガネを手に駆ける。
「死ね! アイヤツバス──!」
「私が死ぬのは……!」
心臓へと奔るトガネをアイヤツバスはただ一つ自由な左腕で受け止めた。
神の半剣と神の炎鎧、互いに力を迸らせたままに拮抗する。
「他の全てが滅んでからよ!」
「私は滅びない、私は生きる! だからあなたの望みは果たされない! 諦めろ!」
「こう見えても私は一度もなにかを諦めたことがないの!」
「なら私が! あなたを諦めさせる!」
一際強く、アクセルリスがトガネを圧し込むが──しかし拮抗を優位に傾けるのはアイヤツバスだった。段々と左腕が上がっていく。
「できるのかしら? その折れた剣で……!」
アイヤツバスは思案する。この『縁を断つ剣』さえ滅ぼせば、魔女機関の希望は失せ、やがて世界は滅びる。
だがそれよりも手っ取り早く──目と鼻の先にあるアクセルリス。その命を消せば同じ結末を導くことができる。
アクセルリスがアイヤツバスを殺すために埋めた距離。それは同時に、アイヤツバスがアクセルリスを滅ぼすのにも十分かつ最適な距離だった。
「ねぇ、アクセルリス!」
「私はやる! 私たちならできる! だって──」
競り合いの中、アイヤツバスは鋼の森による拘束が緩むのを感じていた。もう少しの間があれば右腕は自由を取り戻す。そうなれば、その拳がアクセルリスの心臓を消し飛ばすまでに繋がるだろう。
「だって、だって、だって!」
「言い訳は聞きたくないわ、あなたの言葉から」
緊迫、限界突破。神の命ふたつ、それが死の一重にまで迫っているのだ。生きるか死ぬか、生存競争は神であっても変わらぬ姿で存在する。
そしてアイヤツバスは微笑んでいた。心身ともに、有利なのは自分だと確信していたからだ。
(ああ──もうすぐ終わる。終わってしまうのね。念願のはずなのに、何故だか名残惜しい)
そのとき、アクセルリスが呟いた。
「だって──トガネは折れていない」
「…………」
アイヤツバスにとっては不可解極まる言葉。その脳裏に訝しみが生まれたとき、赤黒い眼は見た。
半ばで折れたトガネ、その断面から光る何かが伸びているのを。極限状態にあり、なおかつ黒炎や鋼で溢れ返ったこの戦場では見落としてしまうほど細い、それは。
「…………糸?」
命と命を結ぶ『縁』の糸だった。
「あ」
鋼の糸が何を繋ぎ止めていたのか。それに気付いてしまうよりも先に、アイヤツバスは背中に感覚を味わった。
何かが刺さったような感覚。しかし痛みはなく、苦しみもない──ただ確実に、『何か』が断たれた、そんな感覚だった。
「────斬った」
『それ』が何なのか、神はすぐに理解する。
「あなた──これが──そんな──!」
『縁』が斬られた、その感覚しかない。
そして今、影鋼の魔神が斬ったのは──世界を呪う怨念、或いはアイヤツバスに宿り続ける祝福として残り続けていた、『ケター』という縁だった。
此処に禍根は絶たれた。全ての遺志が祓われ、ケターは遂に死んだのだ。
「あ、ああ、ああああ────!」
アイヤツバスの視線が震える。彼女を繋ぎ止め、幾度も幾度も死や絶望の際から再起させてきた淵源が消えたのだ。
その身が揺らぎを見せたのをアクセルリスは残酷に見届けた。
「これでやっと」
「アクセルリス」
「あなたを殺せる」
そして目を閉じた。競り合いを続けていたトガネに鋼と影が宿り、最高の輝きを与え──
「死ね」
一気に、斬り裂いた。
「────」
その太刀筋は不格好に生えていた戦災の結晶を砕き、同時にアイヤツバスの心臓を両断した。
瞬間、全ての音と共に、全ての炎、そして全ての鋼が消えた。
「…………」
「…………」
静謐となった二人の世界。残心のまま、風が吹いた。
【続く】