#2 死来たりなば首元寒し
【#2】
暫く時が経ち、視点を『善』に移す。
「はぁ、はぁ、はぁ」
変わらず、息を切らしながら駆ける。いつまたその命を狙う刺客に襲われるかも定かではない。
一刻も早く、この『箱』を届けなければ。その想いがアントホッパーを包んでいたが、しかし感情だけで体は動かず。
「…………ふぅ、う……」
限界のようだ。一度立ち止まり、息を整える。深呼吸すれば、冷たい空気が身体を内側から冷ます。
望まれぬ権限を果たした現在のヴェルペルギースは、絶対零帝の庇護のもと、現世での存在を維持している。このひどく冷たい外気もまた、その証明となる一つだった。
「人が少なく走りやすいのが幸いでしょうか」
見渡せば、往来する人々は確かに少ない。全く見られないわけではないが、普段の活気あふれるヴェルペルギースと比べてみればゼロにも等しいだろう。
つい先日に環境が一変する程の、災害といっても差し支えないような影響に襲われたのだ。皆怯え引き籠るのにも無理もない上、魔女機関もそれを推奨しているのが現状だ。
「よし、急ぎましょう」
現在地はヴェルペルギースの入り口から中心のクリファトレシカまで繋がる大通り、その丁度中ほどにあたる。
これならばもう休まずに目的地であるクリファトレシカ100階まで辿り着くだろう。アントホッパーは今一度気合を入れ、駆け出そうと力を籠めた。
「追いついた」
その力を挫いたのは、背後から聞こえた冷たい声だった。
「……!」
「多少手こずっちゃったけど、想定内」
振り向いたアントホッパーの目に映ったのは、血塗れのカーネイルと、彼女が乱雑に持つ『悪』の頭だった。
「グ、あ…………」
「ワタシ……!」
「感動の再開よ? 涙を流して喜んだら?」
「私、すまない……力及ばず、無様に負けてしまった」
「そんな、そんなこと……!」
入り混じった表情で涙を流す『善』のアントホッパー。その姿を見て、カーネイルは心底愉快そうに笑った。
「ああ、いい顔するね。態々持ってきた甲斐があった」
「ワタシを離しなさい!」
「断る」
そうとだけ返すと、カーネイルは『悪』を石畳に叩き付け、その上で踏み潰した。
『善』が止めるよりも、『悪』が言い残すよりも早く、冷静に手慣れた様子の殺害であった。
「────ッ!」
怖れ、怒り、憤り。数多の強い感情が「アントホッパー」の中を渦巻いた。
そして至ったのは、奇しくもカーネイルと同じ『冷静』の境地だった。
「…………貴女」
「何? 何か言いたいことでも?」
「どうやってヴェルペルギースに侵入を? 城門の前には守衛が居たはずです。反逆者である貴女を見逃すわけもない」
「殺した」
「やはり、ですか」
顔色一つ変えず言い放つカーネイルの姿に、アントホッパーは冷静の中で恐怖する。
そして、更に。
「うん、ついでに答えておく。道中の人間も全員殺した」
「え」
瞬間、背筋が凍る。ヴェルペルギースの外気よりも、より冷たく。
「何故……何故そんなことを……! そんなことをする必要は何処に……!?」
「生かしておく必要もないし」
「……何を、言っているのです……!?」
「アイヤツバス様の目的が成就した暁には、全ての命は死に絶え、世界は滅ぶ。それならばその前に少し殺しても変わらないでしょ?」
「────」
アントホッパーは絶句した。目の前の存在が使う言葉は聞き取れるのに、その意味が何一つとして理解できない。
恐怖で心が挫け始める。意図せずとも恐ろしい、カーネイルの力。
「どうせだったら私も何人か殺したい。ただそれだけの欲求よ」
「貴女……狂っている! 貴女のような存在が生きていていい筈がない!」
「でも残念、魔女機関は私のことを受け入れていた。上手く隠してたからね」
冷酷な笑みを浮かべる。
「──そう。愚かな妹には見破れる訳がないくらい、上手く」
「呼んだか」
不意に答える声があった。
「……!」
重々しい殺気が伝わり、カーネイルとアントホッパーの身を強張らせる。
そして直後、その両者の間に、深い斬撃の跡を刻みながら現れた影があった。
言うまでもなく、それはバシカル。横顔に冷徹の色を携えながら、袂を分かった肉親の前に姿を見せた。
「……久しぶり、バシカル。私が居なくてもやっていけてるの?」
嘲るように声を飛ばすカーネイル、しかしバシカルはそれを無視し、ただアントホッパーへと語りかける。
「まだ走れるな?」
「え……は、はい!」
「今一度、問う。貴様の任務は何だ」
「…………!」
冷たいながらも強く熱帯びたその言葉で、アントホッパーは正気と自分の役割を思い出す。
「剣を、届けることです!」
「そうだ。ならば遂行せよ」
「了解ですっ!」
そして背を向け、全速力で駆けて行った。その背中は既に遠く。
「……」
カーネイルは再び追おうと考えたが、すぐに取り消した。立ちはだかるバシカルの表情を見たからだ。
「剣、ね」
アントホッパーの言葉の一部を反芻する。
「あなた達らしい能天気なアイデアね。たかが剣一本で魔神に刃向かえるって思うなんて」
「好きに言え。どうせその顛末を見届けることはない」
「へぇ──言うようになって。私の道を妨げることもできないのに?」
言うと、カーネイルは脚に力を籠める。一跳びでバシカルを超え、アントホッパーへと追いつこうと動く。
「──!」
しかし直後、身を退いた。彼女の眼前を鋭い刃が通り抜けたからだった。
カーネイルはバシカルが駆ける姿を捉えていなかった。事実、バシカルはその場を一歩たりとも動いていない。
では、何故か。その答えが、大局を観るカーネイルの瞳に映る。
「……妙なことを」
バシカルが振りかざす愛剣ロストレンジ。その刀身が、幾つにも分割され、鞭のようにしなっていた。言わばそれは蛇腹剣。
自らの手で砕き、それを魔力で接続することで成し得た形態。普通の剣では考えられない運用だが、バシカルにとっては複数ある基本戦術の一つだ。
「だけど結局、射程を広げたところであなたは私を斬れない。意味ないんじゃない?」
「私の意味は私が決める」
そしてバシカルは、その膂力を十全に発揮し、ロストレンジを振り回す。
追従して刃の鞭も激しく走り、周囲一帯を著しく削る。
広範囲を制圧する剣技。ロストレンジそのものがカーネイルを阻む壁と化した。
「なるほど──」
渦の中、果てしなく荒れ狂う刃を紙一重で躱し続けながら、カーネイルは感心したかのような声を漏らす。
「標的を定めずやたらめったら斬りまくれば、『私を斬る』という意識を持たずに攻撃できるっていうことか。珍しく考えたね、バシカル」
言わばそれは『空間』を標的とした攻撃。この場、この対面においては最適な戦術である──が、しかし。
「でも残念、無駄」
その刃は未だ掠り傷すら与えられずにいた。
しかしそれは、カーネイル天性の運動能力によるものではない。むしろ真逆──『魔法』によるものだった。
《冷静の魔女カーネイル・キリンギ》。彼女の操る《冷静》の魔法は、己に影響を与えるものだ。
その能力を端的に示すならば『己を極度の集中状態に至らせる』ことだと言える。
明鏡止水、色即是空。あらゆるストレス、あらゆるプレッシャーから解き放たれるその魔法。それを持つカーネイルにとって、暴風のように襲い掛かる刃を躱すなど造作も無い。
一歩、また一歩悠々と歩み──剣舞う渦を苦を見せることなく抜けた。
「はい、終わり」
「……」
「少しは頭を回したようだけど、あなたにはそれが限界。そのことは私がよく知ってるもの。それじゃあね」
バシカルがロストレンジを元に戻すのと同時に、カーネイルはアントホッパーを追い駆ける。
「……そうか」
バシカルは、何かを確かめるように手を握り、そして開いた。
やがて彼女も二人の後を追い、石畳を蹴った。
【続く】