#7 ジオコスモス・エロジオン
【#7】
だが放たれた光は、フネネラルではなく全くの虚空を穿っていた。
「え」
フネネラルが驚愕に目を見開く。そこには明後日の方角を向くアイヤツバスの腕と、それを歪ませるに至った力──たったひとつの拳──があった。
「────そんなことを聞いたら、アクセルリスはどれだけ悲しむか」
拳を解きながら、その存在は言う。フネネラルを庇うように立ち、アイヤツバスへ真っ向から向き合う。
「私たちの可愛い後輩には、そんな表情は似合わないさ。貴女もそうは思わないか?」
「……ええ、そうね」
「だからこうして私が来た」
「ミクロマクロ──」
残酷魔女副隊長、《規格の魔女ミクロマクロ》──堂々出陣。
「貴女まで現れるなんて。賑やかすぎて少し嫌になってきたかも」
「ご安心を。これ以上新たな魔女は来ないさ。必要なくなる」
「どうしてそう言い切れるの?」
「私が終わらせるから」
額が触れ合うほどの距離で、魔神へと啖呵を切る。その胆力、最早狂気にすら。
「見事な気概ね。なら、試してみましょうか」
「あ、やっぱりちょっと待ってくれ」
「……?」
アイヤツバスの返事も待たぬまま、ミクロマクロはフネネラルを見る。
「フネネラル、動けるかい? 君はヴェルペルギースに戻るんだ」
「え…………しかし、私はまだ、何も」
声と手が震える。
「何も、できていない……!」
「……なに言ってるんだ」
ミクロマクロは呆れたように、しかし優しく諭す。
「君はもうアクセルリスとの約束を果たしただろう」
「…………!」
「それでいいじゃないか」
瞬間、フネネラルを数多の感情が通り過ぎる。無力・安堵・悔悟──多数の表情を持つそれらはみな、フネネラルの糧となっていくだろう。
「…………感謝します!」
そしてフネネラルは撤退した。ボロボロの身を引き摺るようなそれは、しかし決して暗い感情を残した敗走ではなく、輝かしい未来への道筋だった。
ミクロマクロはその背を優しく見届け、そして残酷のみを宿した笑みでアイヤツバスへと向き直る。
「悪いね、待たせた」
「良かったの? 一人で帰らせちゃって」
「いいさ。私は誰とも約束してないからね」
飄々としたその顔の裏には、底知れぬ絶望と達観が見える。
「じゃあそろそろ始めようか」
「……こう、合図されて始めるのは中々おかしな感覚ね」
「そうかい? ま、たまにはそんなのも一興ってことで」
そして、ミクロマクロの拳がアイヤツバスの顎を穿った。誰の眼でも追えぬほどのそれは、正に神速の一撃。
「──」
不意を討たれ空を仰ぐアイヤツバス。その耳に色のない声が届く。
「甘く見るなよ。私は残酷魔女の『副隊長』だ」
反応されるよりも速く、高速の拳がアイヤツバスの胴を打つ。その数、一瞬にして六度。それを両腕に鉄輪を装備したままに放っている。
「────ぐ、うううう……っ!」
数呼吸遅れてアイヤツバスが呻く。魔神の感覚すらも置き去るスピードなのだ。
「貴女──」
「おや、まだ口を開く余裕がある? 流石」
魔神の視界からミクロマクロが消える。それは転移ではなく純粋なる俊足。立ち上がる土煙と残像がそれを示す。
一瞬のち、鋼鉄同士がぶつかり合うような重い音が響いた。ミクロマクロの拳がアイヤツバスの横顔を穿つその寸前、魔法陣によって阻まれた音だった。
「見切ったのか」
「辛うじて、ね」
「まぐれじゃないことを祈りたいものだ」
言葉だけをそこに残し、消える。既に複数回の攻撃を受けたアイヤツバスは、厳重すぎるほどの防御態勢を築いた。
再び衝突音が鳴り響く。今度はアイヤツバスの背後からだった。
「まったく抜け目ない!」
「私だって痛いのは嫌だから。そう何度も喰らわないわよ」
直後、拳を阻んでいた魔法陣が弾け、衝撃波を巻き起こす──だが、神速を宿すミクロマクロにとってその回避は余りにも容易く。
「──ふぅ」
そして彼女は十分な間合いで足を止めた。一息吐き、変わらぬ不敵な表情でアイヤツバスを見る。
「いきなり飛ばし過ぎたかな」
「そうでしょう。あのスピード、私ですら驚いた」
裏表のない称賛。当然、ミクロマクロは耳にも入れず。
「鍛えたのね。それはやっぱり──隊長の復讐のため?」
「……さぁ、どうだろう」
「感動的な物語じゃない」
「勝手に話を進めないでくれないか。復讐譚と現実は違うって痛いほど身に沁みてるんだ」
「あら、そうなの。なにか嫌な過去を思い出させちゃったみたいね、ごめんなさい」
「いいさ、気にしないでくれ」
砂埃を立ててミクロマクロが消える。
「────っ!」
「シャーデンフロイデの復讐ってのは正しいからさ」
背後からの回し蹴りがアイヤツバスに突き刺さっていた。脇腹から広がる鈍痛がその体を包み込んでゆく。
「うそつき」
「人聞きの悪い。勝手に勘違いしただけだろう」
追撃に走るミクロマクロの拳と、迎撃に挑むアイヤツバスの拳が真っ向からぶつかり合い、競り合う。
鏡写しのごとき迫撃。その拮抗から先に動けるのは、実戦格闘経験の多い方──この場ではミクロマクロのことを指す。
「せいッ!」
その場で身を縮めながらに回転し、鋭い裏拳を脇腹へと突き刺す。
「ぐ……」
目に見える傷こそ残らないが、ミクロマクロの攻めは確実にアイヤツバスを苛めている。戦局を作っているのは彼女なのだ。
「魔力や魔法で負けていても、実戦経験なら私に利がある。だから私は負けない」
「ええ、それは認めざるを得ないわね」
アイヤツバスは暫し防御に徹したのち、隙を見て周辺に無数の魔法陣を生み出す。
「これは」
「なら私が勝ってる部分で圧倒するしかないわね」
指を鳴らす。魔法陣が一斉に縮こまり、炸裂する予兆を見せる。
それは圧倒的な魔力に物を言わせた質量攻撃。逃げ場のない連鎖衝撃波で追い詰める。それが戦災の描いたシナリオ。
しかしこのミクロマクロという演者は、脚本を無視することを得手としていた。
「せい──はアッ!」
右の脚に全力を込め、大地を踏みしめる。そうして齎される局地的な振動は、全ての魔法陣を破裂する前に破壊した。
「うそ」
「真実だ。受け入れろ──ッ!」
そして音を越える右の正拳がアイヤツバスに突き刺さった。
「ぐ──!」
最低限の防御と受け身を取り、直後の追撃は免れる。しかし獰猛なる追跡者であるミクロマクロの攻め手が休まるはずもなく、アイヤツバスは再びの防戦を強いられていく。
連戦に次ぐ連戦、魔神といえど少なくない消耗を強いられている──そのことを差し引いても、優位に渡り合うミクロマクロの実力は著しい。
それは隊長を喪ったことによる心身の洗練によるものが大きいだろう。彼女はアイヤツバスに敗れ去ったが、その遺志はこうしてアクセルリスや残酷魔女たちに継がれているのだ。
「どうした、魔神などこの程度なのかい」
彼女の四肢はそれぞれが意志を持つ獣のように猛り、獲物と見定めたアイヤツバスへ襲い掛かる。
アイヤツバスもまた攻め手の合間を縫い反撃を試みている──しかし、神速のミクロマクロには余りにも隙が無い。
「そう、かしら」
「これからもっと激しくするけど、耐えられるかな」
言葉と共に両腕を震わせた。見れば、腕に下げていた無数の鉄輪がガントレットのように装着されていた。
「はァッ!」
「く、ぅ……!」
一撃。異常なほど重々しい激突音が鳴り響いた。辛うじて防ぎ耐えていた魔法陣の防壁すらも砕かれるほどに、その拳は強さを増していた。
それらはかなりの重量となるのにも関わらず、ミクロマクロの動きに衰えや乱れは見られない。神速を維持したまま重さ・硬さが増したそれは、魔神の前にすら脅威として立ちはだかる。
「さぁ、どうだ!」
両腕が不可視に至るほどのスピードで連打を叩き込む。アイヤツバスの防御姿勢を打ち毀し、彼女をほんの一瞬の無防備に引き摺り込んだ。
そして、その間隙に渾身の一撃を放つ。
「──ここだッ!」
「────!」
咄嗟に構えた右腕が受け止めた──当然その程度で抑え込める力ではなく。
「う…………」
次の瞬間には、アイヤツバスが大きく後ろに吹き飛んでいた。その右腕は痛々しくひしゃげている。
痛みは遅れて到達する。その鈍痛はアイヤツバスに確固たる意識を与え、迅速な対応へと繋がる。
「でも、これで」
転移魔法を発動させ、ミクロマクロから十分なほどに距離を取った。同時に曲がった右腕に赤黒い炎を纏わせ、万全な腕へと再生させる。
「痛いのは嫌だって、言ったのに」
「流石は流石。判断が早いことで」
飄々とした笑みを崩さないまま、その行動を見届ける。しかし右足には、既に神速へと至る力が満ちていた。
「私とどっちが速いかな」
ミクロマクロが消える。
だがこれだけ間合いが離せれば、アイヤツバスもそれに対応できる。
「っと、あれ」
拳は空を撃った。視線を向けると、先程までミクロマクロのあった場所にアイヤツバスが居る。
「憎くてセコいことを」
まるで互いの位置が入れ替わったように。それがアイヤツバスの回避、あるいは回復行動。ミクロマクロの攻撃に合わせ転移魔法を行使することで、その神速から逃れる算段だ。
「これでもう、貴女の拳は届かない」
「どうだか──」
ミクロマクロが再び消える。その一瞬後には、やはり位置が入れ替わった両者があった。
「成程。言葉に偽りはなし、か」
「貴女はもう私に『視』られてるわよ」
赤黒い瞳にミクロマクロの姿が反射している。
彼我の間隔を十分に取ったアイヤツバスは、以後ミクロマクロの一挙手一投足に全ての意識を向けていた。彼女の予備動作と同時に転移すれば、このループは成り立つ。
「それを伝えられて尚攻撃し続けるほど愚かじゃないさ、私も」
拳を解き、姿勢を崩す。不意討ち狙いか、とアイヤツバスはより集中してミクロマクロを──特にその脚を見た。
次の瞬間、彼女の目前に数多の鉄輪が迫っていた。
「っ……!?」
咄嗟に防御を貼る。しかし幾つかはそれよりも早く到達し、アイヤツバスへと激突していた。
「ふぅ、重かった」
魔法陣越しに見えるミクロマクロ、その両腕に鉄輪は一つも残っておらず。
「そんなことをされたら、私も奥の手を使うしかなくなるな」
「それを外した……ならもっと速くなるのね。なんて恐ろしいのかしら」
「貴女ほどの人に言われたら、流石に照れるね」
冗談めかして笑い、体の調子を整えるように小さく跳ねながら腕を回す。
「……飛べそうなくらいだ。ああ、このまま空へ行けるなら、会いたい人がいるんだけど」
彼女の枷が外された。それが意味することは、あまりにも単純だ。
「その前に任務は果たさないとだ──!」
消える。
直後、アイヤツバスの右肩、左胸、右脇腹、左脚、その四か所に同時に衝撃が走った。
「か──は」
何もできなかった。舞う砂埃を見て移動を悟り、防御、或いは回避する。その短い行動すらも許されないスピードだった。
「どうかな、私の本気は」
ミクロマクロが初めの位置に再び現れる。余りの速度に彼女でさえも制御しきれていない部分があるのか、故にこうして呼吸を整えているようだ。
無論その行動は悠長なる隙に見える、のだが。
「ええ、流石。私が見てきた中でも最速の魔女よ、貴女は」
「それは良かった。本気だからね、それくらい評価されてもらわないと」
「でも、その隙は見逃せないわね」
不意討ち気味に黒炎の弾を放った。しかし着弾よりも早く、ミクロマクロは消えていた。
「隙? なんのことやら」
声がブレて聞こえる。絶え間なく動き続ける彼女の音は一定の位相を持たない。
「く──」
再度、アイヤツバスの全身に複数の攻撃が同時に打ち込まれる。二度目であろうと、その動きは全く捉えられず。
「さて、ちょっと頑張るか──!」
そして今度は再出現をしないまま、疾走を続けた。彼女の軌道が風を生み、風の流れを乱す。
「成程──よく理解したわ」
二度もまともに受ければその力量は測れる。冷静な知識の元、アイヤツバスは次なる一手を選ぶ。
「なら、こうね」
腕を交差させて構えた。彼女の全身を覆うように、隙間なく魔法陣が生み出される。まさに魔の鎧。
これならばミクロマクロとて、満足な攻撃は叶わないだろう。
「そう来たか。だったら」
故に彼女は急ブレーキを掛けたようにアイヤツバスの眼前に出現し、不敵に笑った。そしてゆっくり狙いを定め、拳を打ち込んだ。
超神速を一点に込めた恐るべき一撃。魔法陣は音を立てて砕けるも、辛うじてアイヤツバスは守られた。
「貫けなかったか。流石は魔神の防御」
「当然よ」
返す言葉は返す刃と共に。しかしそれが届くよりも早く、ミクロマクロはその場から消えた。
「おっと、危ない!」
「……まったく、もう」
目を細める。辛うじて対応できていた先程までとは違い、今は完全に翻弄されている。
反撃のしようもない。目で追い切れない不可視の存在に対して、どう反撃できようか。
故にアイヤツバスは新たな計略を編む必要があった。
「速さで追いつくのは、無理……なら」
身を屈め、大地に手を付ける。偶然ではあるが、その行動は攻撃を躱すのにも繋がった。
「──何をしたかは知らないが」
声があちこちから聞こえる。その位置から、大まかではあるがミクロマクロの動きが見える。
「上手くいかないことを祈る!」
今はアイヤツバスの周囲を巡るように響いている。
「……」
一人の軍勢に囲まれた彼女はただ平静に身を置き、万全なる防御を構えるのみ。
そして、殺意の籠った気配を感じた。
「──!」
その方角へ何重もの魔法陣を貼った。一瞬、本当に短い一瞬の後、異常なほどに暴力的な衝撃が魔法陣を襲った。
「く……!」
入念な防御にも関わらずその身は揺らぎ、耐え切れずによろめいた。千鳥足を踏み、後退する。
「その隙、致命的じゃないか」
ミクロマクロが出現する。僅かながらその場に留まり、確実な止めを刺すための狙いを定め。
「終わらせる──!」
そして追撃を喰らわす。その意志だけを右足に込め、再び不可視の神速に至らんと地を蹴る──違和感があった。
「ッ!?」
それは魔神の巧妙な罠だった。不自然に動きの鈍ったミクロマクロ、その目線の先には彼女の右足に纏わりつく赤黒い魔法陣があった。
「ぱん」
直後にアイヤツバスが指を鳴らす。その命令に従うように魔法陣が収縮し、ミクロマクロの右足──その脛から先を巻き込んで無に帰す。
「ぐあ、あッ────!」
苦痛の慟哭。急速にバランスを崩し、倒れ込む。
「残念。これで貴女の神速も台無しね。大事な足がなくなっちゃったんだもの」
「──なくなったから、どうした!」
しかしその殺伐は失われてはいなかった。
ミクロマクロは脚の断面を強引に地面に押し当て、全力を籠め──そして、駆けた。
「え」
「私の足に何の価値がある!」
驚きの色を見せるアイヤツバスの眼前に拳が迫る。
「っ──!」
首を傾け辛うじて躱す。拳がこめかみを掠める──それだけでもアイヤツバスの意識が一瞬揺らいだ。そして当然その隙を見逃すミクロマクロではない。
「私の存在に!」
片足で揺らぎながらも照準を合わせ、走らせる。
「何の価値がある!!!」
「────!」
重い想いを宿した拳がアイヤツバスの顎を強く打ち上げ、吹き飛ばす。
視界と思考が揺れる。魔神に変貌しようと、基本的な生命として身体の構造が変化するわけではない。脳や心臓といった急所を潰せば、斃れるのだ。
「う──」
長すぎる数秒を経て、アイヤツバスの視界は精彩を取り戻す。そして見えるは片足で屈み、力を貯めるミクロマクロ。
「く──あああッ!」
彼女は残された片足に全力を籠め、駆ける。拭えぬ不安定さは重すぎる足枷となるが──それでも彼女は神速へと至る。
「しゃあアッ!」
「片足を失って尚──躱せない──」
その拳は歪もうとも、確固たる強さでアイヤツバスの腹へ突き刺さる。
「ぐ」
──同時に、アイヤツバスの拳もまた、ミクロマクロの胸を突いていた。
「でも、見えるようにはなった」
「が、あ…………!」
強い衝撃、一瞬だが脈動が律を乱す。生彩を失った彼女の神速は、捨て身のアイヤツバスでならば反撃できるほどに堕していたのだ。
「容赦はしないわよ。散々な目に遭わせられたから」
一筋の血を流す口を微笑ませ、敵に触れたままの拳に魔力を籠める。当然ながらミクロマクロは離れようとするが──今の彼女には、速さが足りていない。
その体の上で無数の魔法陣が弾け、冥途にまで響く衝撃が彼女に襲い掛かった。
「ぐああああああああ────ッ!!!」
血を撒き散らし、激しい弧を描いて吹き飛ぶ。その一撃は、これまでミクロマクロがアイヤツバスへと与え続けてきた連撃を遥かに凌ぐ。
「ご、は」
弾けた血潮に塗れた体が墜落した。並の魔女であれば潰れ死ぬほどの衝撃──しかしミクロマクロは、耐えた。
「効くでしょう、魔神の一撃は。貴女達の隊長もこれで死んだのよ」
「…………ああ、頭がすっきりしたよ」
三肢に力を籠めて身を保ち、血走った眼でアイヤツバスを睨む。
「そのおかげで分かったことがある」
塊の血を吐き捨てる。満身創痍の身、最早笑みなど浮かべず、真剣そのものの表情で言葉を続けていく。
「一つ、私はもう走れない。二つ、私にもう余裕はない」
「三つは?」
「それでも私は、やらなくちゃならない」
両手でしっかりと地を掴み、足裏に地面を据える。
「そういうものだ、人生は」
長く息を吐き、全ての力を片足に満たしていく。
「でも、きっとこれで最後だ」
「…………」
静かながら鬼気迫るその様子に、アイヤツバスも一切の油断を捨てる。
「ならせめて、楽しもう────!」
そして、ミクロマクロが消えた。
「────ッ!」
アイヤツバスの眼には、小細工を弄せず真正面から迫るミクロマクロの残像が見えた。
事実彼女にそのような余力はない。だからこそ全てをその足に込め、駆け出した──否、発射した。
「速い──」
身じろぎと言葉の最中、両者の視線が交差した。
(…………)
ミクロマクロは呆けたような表情の後、幽かな笑みを浮かべた。
(そうか。今か)
「は──ああああああッ!!!」
全身、全霊の拳がアイヤツバスの肩に喰らい付いた。足掻きによって急所こそ躱されたが、奇しくもそれは数多もの魔女が浴びせ続けた一撃により、最も負傷が激しい部位でもあった。
そして想いが繋がった。
「あッ!!!」
振り抜いた。その軌跡に重なったのは、肩口ごと抉り取られて宙を舞うアイヤツバスの右腕だった。
「────」
二人の時間が鈍化する。
ミクロマクロは舞い散る魔神の赤黒い血を、アイヤツバスは腕を失った心身の痛みを、それぞれゆっくりと。
「──っ、くぅ……っ!」
アイヤツバスが初めて顔を顰め、その痛みに苦悶した。魔神であれど、暴力的に腕を引き千切られるのは相当の苦痛だ。
そしてそれを見たミクロマクロの本能が叫び、動いた。
「もう一撃────!」
振り抜いた腕を戻さぬまま、強引に反対の拳を走らせる。標的に据えたのは敵の顔面。
それが届き、魔神の頭を破壊するまで、あと数センチ。
「────あ」
そこが、ミクロマクロの限界だった。
全ての力が急速にゼロとなり、緩慢に満ちて倒れ往く。
どしゃ、と鈍く汚い音で彼女は遂に地を舐めた。
「あ…………ぐ」
その目から光が失われる。彼女にとっての全ての希望がほんのわずか届かなかったのだ。無念の極地に至った者の末路が、これだ。
「く…………ふ、ふふ」
そのときやっとアイヤツバスはたたらを踏み、右肩の根元を抑える。最後まで、ミクロマクロのスピードは魔神をも超えていたのだ。
「危なかった。でも、私は生きてる」
超越的存在となった彼女でさえも、死の淵まで追い込まれていた。笑いに込められている安堵がそれを裏付ける。
「生きてる──とっても素晴らしいことなのね。久しく忘れていた感覚だったわ」
皮肉にも、だった。
「ありがとう、ミクロマクロ」
「…………死ね」
余裕のある態度も、洒落の効いた返しもできず。悔念積もる中でただ口にするは怨嗟の殺意だった。
ミクロマクロは、負けたのだ。
【続く】