#3 ラスト・ワード
【#3】
「キミは! ボクが! 殺す!!!」
峻厳の咆哮と共に、錆の蛇が解き放たれた。真っ直ぐに奔り、アクセルリスに錆の毒牙を穿ち込まんと迫る。
「──行けッ!」
「ボクだ……! ボクしかいないんだ! キミを殺すのは!」
蛇はゲブラッヘの狂気を宿したかのように激しくうねり、アクセルリスの放つ槍たちを躱す。
「嚙み付けッ!」
「この程度で私が殺せるとでも!」
蛇の一撃を、アクセルリスは直上に跳び逃れた。しかし、ゲブラッヘはそれをも読んでいた。
「キミはこういうとき、上に行く──よく知っているとも!」
血の涙を流しながら、空のアクセルリスへ手を向ける。周囲の虚空から生まれるのは錆色の鎖、その数は七本。
「ボクはゲブラッヘ! 神を見る者だ!」
叫びと共に、長刀を持つ鎖と合わせ八本の鎖がアクセルリスを追う。
「さあ堕ちろ! 楽園から!」
「楽園ね」
アクセルリスは次々に鋼で足場を生み出し、それを蹴り跳ぶことで鎖の追手を躱し続ける。極まった生存本能から引き出される身体能力により、その姿はまるで空中を自在に跳ね回っているかのようにすら見える。
「そんな場所があるなら、味わってみたい」
縦横無尽に空を舞い、紙一重で蛇の噛み付きを避け続けていく中、冷たい声で呟いた。
「思えば、私が生きた世界はどれも地獄だった──」
ふと飛び回るのを止め、目を閉じ、垂直に堕ちていった。予測できぬ行動に鎖たちの追跡が遅れる。
「──それでも私は生きる! 私が私である限り!」
目を見開く。極限まで高まった残酷が灼銀に宿る。
身を捻らせ着地し、そのまま槍と共に無防備なるゲブラッヘへ駆け出す。
「お前は! 私を! 否定できるのか!」
「く…………あああああああああッ!!!」
鋼の槍が届く寸前、防壁のように無数の鎖が生み出される。無論、その全てが錆色に輝き。
「ッ、危な……!」
足を止めたアクセルリスは追撃に備えるため、鋼の足場を乗り継いで後方の空中へと退く。
見下ろすその瞳には、消える鎖の向こう、心臓を抑えて苦しむゲブラッヘが映る。
「はあ……あああ……ッ!」
咄嗟の防御にリソースを割き過ぎた。鎖が次々と消滅し、長刀を握る蛇だけが残った。
とうに限界は超えている。しかし、ただ執念と意思で己の存在を保ち続ける。
「憤怒、恐怖、羨望、嫉妬、憎悪……キミへの想いが、ボクをボクとしてこの世に留まらせているのさ……!」
「ならそれごと消えろ。私の道には邪魔でしかない!」
「もうじき消えるさ。でもそれは、キミのほうが先だ!」
苦痛を振り切り、直立する。ゆっくりと息を吸い、そして叫ぶ。
「ああああああッ!!! アクセルリス────!!!」
血が流れる──目から、鼻から、口から。死線をも超えて行使される魔法は滅ぶゲブラッヘの身体を更に食い潰す。
呼応するかのように、長刀と鎖がより強い光を宿す。そのままゆっくりと、蛇がとぐろを巻き、力を貯め──
「ボクの!!! すべてだ!!!」
そして解き放つ。
「これで、殺す────!!!」
その人生で最も速い一撃が、蛇に託された。
「ッ、速────」
長刀は音と光の壁を裂き、アクセルリスへ。
スピードの向こう側へと至ったその軌道、彼女でさえ見切れぬほど。
銀色の本能が反応するよりも早く、それを錆びさせるまであと少し──
「────私がやる」
──しかし、その無意識下か、或いは宿り続ける残滓の力か。
『彼』は、それを完全に『眼』で捉えていた。
「はあ──」
彼女自身も意図せぬまま、アクセルリスの身体が動いていた。
鋼を用いて宙で身を整え、そして一撃を構える。
「────せいやああァッ!」
影色の帯を残す、強烈無比なる回し蹴り。
神速で迫っていた長刀は、二つの大いなる力の反発を受け、目で追えぬほど激しく弾かれ飛んでいった。
「…………そん、な、そんな」
虚ろに見開かれたルビー色の瞳が、錆色に変わる。
「そんな…………!」
アクセルリスはそのまま、愕然とするゲブラッヘの前方へと着地する。
そして。
「死ね、ゲブラッヘ」
「あ」
ゲブラッヘは、心臓が刃に穿たれるのを感じた。
そして、全てを悟った。
「そうか」
敗北と、死である。
「終わりだ。これで本当に」
アクセルリスがゆっくりとゲブラッヘの視界に入ってくる。
彼女の全身が段々と錆びていく。
「負けたのか。ボクは」
「そうだ」
「悔しいな」
「そうか」
「一つ、聞いていいかな」
錆の中、ぽつり、零す。
「ボクはキミにとって恨むべき宿敵であり続けた自覚がある」
「そうだな」
「どんな気持ちなんだ? そんな存在を殺したのは」
それはまるで、失われた存在証明を埋め合わせるように。
求める。アクセルリスにとって、自分がどのような存在であり、どのような終わりを迎えるのかを。
「達成感か? あるいは喪失感か? 悲哀や同情──は、キミのことだからないだろうけど」
「当たり前だろ」
「教えてくれ。アクセルリス」
「勘違いしてるみたいだな」
「え?」
「私はお前を殺さない」
「え」
錆び付いていく視界でゲブラッヘが観たのは、己に突き刺さる長刀だった。
「…………はは」
思わず、笑みを浮かべる。
「これは、してやられたな」
映すアクセルリスの表情は、やはり無感動で。
それを最後に、ゲブラッヘの眼球が錆びて砕けた。
「最後まで、キミは笑わないんだね」
「笑う理由がない。お前には、特に」
もう死はすぐそこだ。
錆び付き、上手く働かない脳で、ゲブラッヘは言葉を編む。最後まで、最後の一瞬まで。
そして。
「アクセルリス」
錆び付いた咽喉から、言葉が放たれる。
「生きて死ね」
それは怨嗟に満ちた祝福。あるいは力強く背を押す呪詛。
はっきりと、生命力に満ちた声色で、ゲブラッヘはその言葉を残した。
その直後、遂に全身が錆色に包まれた。
ここに在るのは、錆び付いた彫像と、残酷に輝く銀色の魔女だけだった。
「…………」
魔女が見下ろす中、彫像が崩れ去っていく。破片は風に乗り、朽ちて消える。
「……」
魔女は目を閉じ、そのまま踵を返した。峻厳の消え往く顛末を見届けることなく、光差す方へと歩き出した。
「…………」
そして廃村を出るその寸前、魔女はたった一つの言葉を残した。
「私を──アクセルリスを誰だと思ってる」
と。
◆
誰もいなくなった村で、からん、と音が鳴る。
それは風に吹かれて、錆び付いた長刀が転がる音だった。
取るに足らない音だったが、全て静寂に包まれてしまっているこの村にとっては、久しい音だった。
それが一人の魔女の墓標であるのなら、なおさらだ。
【錆 おわり】