#2 いま、私にできること
【#2】
死んだ妖精の森、アイヤツバス公房──家主は戻らない。
「────」
紫色の空よりも淀んだ空気がその部屋を包んでいた。
言うまでもなく、アクセルリスの自室たるその空間を、だ。
「────」
力なくベッドに腰かけ、曇った銀色の目は何も見ない。そして、夢見言のように一つの言葉を繰り返す。
「──殺す」
日がな、この様子だ。
(アクセルリス……)
そんな濁りきった彼女を、アディスハハは隣に寄り添いながら見守っていた。
無気力に投げ出されたアクセルリスの手。それを握る──恐ろしいほど冷たい。
(今度は……私がアクセルリスを救うんだ)
そうして蕾の中で固まっていくのは、強い決心。
「アクセルリス、ごはん食べよ? 何も食べてないんでしょ、おなか空いたままじゃ何も始まらないよ」
「──ごめん、食欲ないんだ」
「……そっか」
事態の深刻さを端的に示す言葉だった。
「食べたくなったらいつでも言ってね。私はアクセルリスのためならなんでもするから」
「──なんでも、ね」
「うん! なんでもだよ!」
「だったらさ」
言うも早く、アクセルリスはアディスハハの手首を掴み、そのままベッドへ押し倒した。
二人の身体が重なり合う。
「……っ!?」
「いいんだよね。こういうのも」
組み伏せる。片手で手首を掴んだまま、アディスハハの頬を指でなぞった。
「このまま乱暴に、力任せに、この躰を貪っても」
舌なめずり。覗く牙に理性の影は映らない。
アディスハハは息を呑んだが──なお、心は強く。
「…………いいよ」
「……」
「アクセルリスが救われるなら、体も、純潔も、命も──全部、捧げる」
彼女の瞳には強い決意の焔が猛る。それは淀んだ灼銀に、僅かな熱を帯びさせた。
「────冗談だよ」
ひょいと身を退かし、再びベッドに腰かけ、視線を落とした。
「ばか」
アディスハハに聞かれぬほどの小さな声で、そう呟きながら。
再び、静寂が世界を支配する。
「……」
乱れた髪を整えながらアディスハハも体勢を戻す。
(アクセルリス──冗談でも、あんなことはしないはず)
鋼の魔女を一番知るアディスハハだからこそ、抱く違和と不和が残っていた。
(先の一件は間違いなくアクセルリスにとってあまりに重い出来事……だけどそれは、精神の根源を歪ませるほどなの?)
『己の眼に映るアクセルリスは、果たして今までと同じなのだろうか?』
生まれてしまったその疑念が、アディスハハの心を掴み離れない。
そして、その渾沌を見透かすように──突然アクセルリスが口を開いた。
「変わらないよ」
「え……」
「私はもう、変わらない」
その言葉に澱みは無く。純粋たる銀の意志。
「何よりも己の命を優先する。大切な存在は命を賭してでも守る。そして、復讐は果たす──それが今の私」
刻む三つのエゴ。アクセルリスは鋭く言い切った。
「変わらない──変えない。決して変わることはない──!」
しかし、その覚悟は、悲しいほどの二律背反を孕んでいた。
「だから分からない」
守るべき存在と、殺すべき存在と。その二つが重なり合ったとき、彼女が選び取るべきものは。
「私は──どうすればいいの?」
銀色は、悲しく輝いていた。
「…………アクセルリス」
気圧され息を詰まらせていたアディスハハが声を振り絞る。
「今のアクセルリスの中では、どの気持ちが一番強いの」
「……どれなんだろうね」
呆けたようにアクセルリスは言う。
「『復讐』。それがあった。だけど、『大切なものを守る』っていうのが混ざってきちゃって──ぐちゃぐちゃになってる。そんな感じかな」
乾き切った笑顔で取り繕うその身は、哀れさに満ちる。
「わかんないや。こんなことなら、ずっと自分のことだけを考えて生きていればよかったのかな──」
「それは違うよ!」
アディスハハが思わず声を荒げた。
「あなたに救われた私が言うんだもん、それは絶対違う……!」
「……」
懇願するようなアディスハハの姿に、アクセルリスはひとつの命の形を思い出した。
「……トガネ」
右目を抑え項垂れる。
相棒。弟。彼の存在は、アクセルリスの在り方に最も強く影響を与えていただろう。
「……アディスハハ」
目を向ければ、アディスハハは変わらず熱い視線を向けている。
「私は……」
『変われ』。『変わるな』。旅路の中で突きつけられた矛盾。
変化か。環境に合わせ、世界に合わせ、友に合わせ──進化してきた己こそが真実なのか。
不変か。惑わず、動じず、自己だけを正しいものとする──固執し続ける己こそが真実なのか。
「本当の私は……どれなの……!」
深く、深く、項垂れる────
「…………」
目の前で深き絶望に沈む、愛する友。
それを目の当たりにしたアディスハハ──その中で、一つの可能性が芽生えた。
(……!)
それはとても悲しく、とても辛い選択であった。
しかし、アディスハハは、迷わなかった。
【続く】