#1 不安定のアイヤツバス
【戦火はただ、殺伐と】
【#1】
「戦火の魔女。それが私、アイヤツバス・ゴグムアゴグよ」
アイヤツバスが、笑っていた。
「────」
一瞬にして世界が凍り付く。
アクセルリスはゆっくりと振り返り、アイヤツバスを見た。アイヤツバスの赤黒い瞳を見た。
「お……お師匠、サマ…………?」
その表情は困惑と混乱が綯交ぜになり、青白い色を見せている。
「こ、れ…………どういう、ことで……す、か?」
彼女の背を嫌な汗が伝う。心臓の鼓動は恐ろしいほどに昂り、呼吸は荒く。
「お師匠サマ…………っ!」
そしてフラフラと歩み始める。アイヤツバスの元へ、救いを求めるように。
「待てアクセルリス、危険だ!」
「わた、し、は──私は」
制止も届かず、ふらり手を伸ばし──アイヤツバスへと、戦火の魔女へと、届く。
半ば倒れ込むようになる彼女を、アイヤツバスは愛をもって抱き留めた。
「お師匠サマ──」
「ごめんね、アクセルリス。辛いわよね。でも大丈夫よ。ほら──」
「あ────」
優しく頭を撫でた。銀色の髪が艶めいた。
そしてアクセルリスの中で、あらゆる感情が、想いが、言葉が溢れ──そのまま気を失った。
「おやすみ」
アイヤツバスはアクセルリスを抱いたまま、その赤黒い視線を邪悪魔女たちに向けた。
「──さて」
「アクセルリスに何をした」
バシカルは既に剣を構え、その切っ先をアイヤツバスへと向ける。
「勘違いしないで。寝ちゃっただけよ。この子、とても疲れていたみたいだから」
その言葉からは、ただ純粋なる母性だけが満ちていた。
だが、しかし──彼女はあの、戦火の魔女なのだ。
「生きて逃げられると思うな。ここは魔女機関本部クリファトレシカ。数々の精鋭たちが、既にお前を包囲している」
「手際がいいわね。流石は魔女機関。ずっと間近で見てきた価値があるわ」
「…………あの日、取り逃した戦火の魔女──まさか、これほどまでに近くに、いたとは……!」
極めて強い感情に駆られ、バシカルの言葉には熱が籠る。今すぐにでも肉薄し、斬撃を叩き込まんとする殺意。
「ふふっ」
しかしアイヤツバスは、対照的に冷静なまま、黒い魔法陣を生み出した。
「来るぞ、皆備えろッ!」
「……ッ!」
バシカルは叫ぶ。戦火の魔女の魔法が行使されようとしている。
その規模は計り知れない。皆一様に身構え、脅威に備える──
──だが。
「…………なんだ?」
どれだけ待とうと、彼女たちを暴威を襲うことはなかった。
ただ、その場からアイヤツバスとアクセルリスの姿が消えている。ただそれだけだった。
「消え……」
「転移魔法かッ!」
即座に状況判断を下し、忙しなく周囲を見渡すバシカル。
通常の転移魔法は、その転移先を非常に強くイメージしなければ成功しない。
従って、転移する先は視認できる範囲であるというのがセオリーだ。
だからこそバシカルは自分たちの周りへと警戒の目を向けたのだ。
だが、しかし。
「いない……?」
アイヤツバスの姿は、何処にもなかった。忽然と姿を消していた。
「ありえない──どこか遠くに消えたとでも?」
静かに、しかし確実に狼狽を見せるのはカイトラだ。攻撃に備え伸ばされていた触腕が縮む。
「いや……それがどうにも、ありえそうだ」
「ケムダフ?」
答えたのはケムダフ。神妙な顔で、ヴェルペルギースの夜空を見上げる。
「今、ヴェルペルギースの魔力が歪んだのを検知した。それはまるで、一つの存在が時空を超えたかのような──」
「──待って、それじゃあまさか」
シャーカッハが言う。他の皆も、口にはしないが、一つの可能性に思い当たっていた。
「アイヤツバスは転移魔法でヴェルペルギースから脱出したってこと……?」
「そうなるね、どうにも」
「よもや、そんなことが──」
「可能なのだろうな、戦火の魔女ならば」
バシカルのその言葉に、誰もが口を噤むしかなかった。
「でもだとしたら、彼女は何処に? 転移が可能なほど強く想起できる場所なんて限られると思うけど」
「それは────」
そしてバシカルは気付いた。かの敵が逃れ果てた場所を。
「──シェリルス、行くぞ!」
「ッ、了解!」
その鬼気迫る様子に、シェリルスは息を呑んだ。邪悪魔女の誰もが、彼女を止めることはできないと悟る。
そして剣を収め、駆け出した。一刻も早く、戦火の魔女に追いつかねばならないと。
「アイヤツバス────!」
【続く】