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前編その1

シャーロック・ホームズ「知られざる事件簿」 

「消えた軍事協約書」


目次

   前編

一   「奇妙な電報」    

二   「秘密軍事協約」      

三   「密室の不可解事件」      

四   「不審な尾行馬車」    

五   「協約締結の真相」     

六   「鍵の行方」      

七   「諜報員」

八   「コロネル・シバ」         

   後編

九   「白昼の侵入者」          

十   「建艦コミッション」        

十一  「ライリー情報」      

十二  「書類鞄の購入者」    

十三  「明石中佐の工作」    

十四  「英国の背信」       

十五  「ドーバーの別れ」      

十六  「全容の解明」        

十七  「真実の裏の裏」      

エピローグ               



「消えた軍事協約書」登場人物の紹介

【主人公等】

○シャーロック・ホームズ

 本編の主人公。卓越した推理力と観察力を備えた犯罪捜査の天才。今回もその並はずれた能力によって事件解決の突破口を開く。本事件においては、犯罪捜査だけでなく、国際政治や外交の世界においても鋭い分析と洞察力を発揮した。

○ジョン・H・ワトソン

 本編の視点人物。この小説は、すべてワトソンの目を通して、彼を語り手として描かれている。善良、温厚な紳士。近々再婚のため医院を再開し、ベイカー街を離れている。そろそろ平穏な家庭生活に入りたいところだが、ホームズと関わるとそうもいかず、本編でもロシア工作員と拳銃を撃ち合うはめとなる。


【日本側主要人物】

○福島安正陸軍少将

 陸軍参謀本部第二部長、エドワード七世戴冠式参列の小松宮使節団の随行員として訪英するが、実際は日英軍事協商会議の日本陸軍代表として、英陸軍の直接支援を求めて英国側と交渉し、極秘に日英陸軍協

約を締結する。

○宇都宮太郎陸軍少佐

 ロンドン日本公使館陸軍武官、軍事協商会議にて福島少将の補佐官を務め、協約書の案文を作成した、頭脳明晰で有能なエリート軍人。今回の事件では、ホームズの捜査に協力を惜しまず、解決に当たる。

○柴五郎陸軍中佐

 小松宮使節団随行員として訪英。軍事協商会議で福島少将を補助する。二年前の義和団事件の活躍で世界的に有名となり、国際的知名人である。謙虚にして真摯・誠実な人柄で、ホームズやワトソンにも感銘を与える。砲兵の専門家でヨーロッパ各国の火砲を視察、日本陸軍の実力を冷静に見極めている。

○明石元次郎陸軍中佐

 パリ日本公使館陸軍武官。諜報活動に優れ、ヨーロッパ各地に協力者や情報提供者を持っている。フランス政府高官を買収して極秘情報を入手し、これが今回の事件を引き起こす発端となった

○玉井浩介海軍大佐

 ロンドン日本公使館海軍武官。日清戦争以後ロンドンに駐在、海軍が英国で建造した軍艦発注の大半に関わる。造船会社に絶大なコネをもち、巨額なコミッション受取の窓口を務めていた。明石中佐に収賄の

証拠を握られ、今回の彼の工作に荷担させられる。

○財部彪海軍少佐

 海軍省軍務局課員。日英軍事協商会議の日本海軍代表伊集院五郎少将の補佐官として訪英。秀才タイプのエリート士官で海軍大臣山本権兵衛の女婿。今回の海軍関係の協約書の案文を作成する。建艦に関わる

海軍士官たちがコミッションを取っていることは知っているが、義父を含め海軍上層部も関与していることから沈黙している。


【英国側主要人物】

○マイクロフト・ホームズ

 ホームズの兄。ホームズ以上に推理の才能に恵まれた、非凡な頭脳を持つ異才の人物。出不精で目立つことを非常に嫌う。判断力と調整力にすぐれ、英国の政界・官界において大きな影響力を持つ。本編の事件捜査も、外務省と日本公使館がマイクロフトを通して依頼したものであった。

○ランズダウン外相

 ロシア帝国の南下政策を警戒して、極東の現状維持を図るため日英同盟を結ぶ。また、日本がロシアと結ばないよう、日本の強い要請を受け入れて日露開戦時の英軍派遣の秘密軍事協約を締結する。しかし

一方では、フランス取り込みの交渉も行い、日本敗北を予期した英仏密約を交わすなどのマキャベリストでもある。

○ニコルソン陸軍中将

 英国陸軍省動員・諜報局長。多くのイギリス軍人と同様、ロシアとの対抗上、日本との同盟は賛成しながら、日露開戦後は日本敗北が必至として軍事協約に反対している。また英陸軍の満州派遣の取り決めなど始めから守る気はない。

○シドニー・ライリー中尉、

 オデッサ生まれのユダヤ系ロシア人で反政府活動によって南米に亡命、現地の英国情報部員にスカウトされ、英国に帰化、陸軍省諜報局に正式採用される。優秀な諜報員で、多くの機密情報に通じている。パリで明石中佐と知り合い、協力関係にある。


【その他の人物】

○メアリー・メイパリー夫人

 ワトソンの婚約者。資産家の未亡人で、気品と教養を備え、温和で優しい女性。

○林董公使

 駐英日本公使。日英同盟の功労者。超大国英国に対して積極的な外交を行う。

○西郷従徳陸軍少尉

 小松宮使節団の随行員。主に使節団の陸軍関係者の雑務に当たる。

○楠正忠式部官

 小松宮使節団の随行員。宮内省の文官で使節団の儀典係を務める。

○新田義高書記生

 駐英日本公使館の書記生。小松宮使節団の庶務と会計に当たる。

○フォン・ヘルリンク大尉

 駐英ドイツ大使館付陸軍駐在武官補の肩書を持つ諜報員。英国でドイツ諜報機関の指揮を執る。

○竹内十次郎大主計

 日本海軍主計官。ロンドンにおいて英国の造船会社建造の軍艦の会計処理に当たるが、玉井海軍大佐の下で収賄や建艦費流用等に関わる。


シャーロック・ホームズ 「知られざる事件」

「消えた軍事協約書」


  一 「奇妙な電報」

一九〇一年の新年早々、ヴィクトリア女王陛下が亡くなられて64年間続いたヴィクトリア時代も終わりを告げ、エドワード7世陛下の即位が二十世紀の幕開けともなった。

翌一九〇二年、泥沼の ボーア戦争も五月に講和が結ばれてようやく終わり、まもなく行われる戴冠式に向けて、世の中は明るい祝賀ムードに包まれていた。ホームズは、我らが君主エドワード7世の戴冠式に際して、数々の難事件の解決による国家への顕著な功績を称えてナイトの称号を授けられるはずであった。ところが、彼はこれを辞退してしまったのである。

当時、これには皆不思議がり、惜しむ声や非難する声もあったが、あくまで無位無冠の、市井のコンサルティング・ディテクテブ(諮問探偵)でありたいというのが、彼の信念だったのである。

六月二六日の戴冠式はエドワード7世の急病で延期になったが、このころ私は現在の妻と再婚するため、ベイカー街を出て、クイーン・アン街に再び医院を開業したばかりであった。いろいろと忙しかったが、ホームズ自身が引退後、 事件簿「白面の兵士」で書いたように、私は彼を見捨てていたわけでなかった。暇を見つけては、ときどきベイカー街221Bの、かつてのホームズとの共同生活の場を訪れ、彼の求めるまま事件解決に行動を共にしていたのである。

さて、この年の七月も末の二七日、私は午前中の診察を終え、午後も遅くなってしばらくぶりでホームズのもとを訪ねた。この日は暑さが厳しく、ベイカー街には強い陽射しが照りつけていた。汗を拭き拭き、玄関ドアをノックすると給仕の少年が出て家の中に入れてくれた。見慣れた玄関を通って2階に上ると、窓を開け放ちブラインドを下ろして日差しを遮った薄暗い居間で、ホームズがパイプをくわえ、何か紙片を手にして考え込みながら、肘掛け椅子にもたれていた。私を見るとホームズは喜んで言った。

「やあ! よく来てくれたね。その後、足の調子はどうだい?」

「ありがとう。もともとかすり傷だったし、今はたまに足が引きつるだけで、ほとんどよくなったよ。」

「それはよかった。かすり傷とはいえ、あの時はずいぶん出血していたから、本当に心配したよ。君が医者ですぐに適切な処置ができてよかった。」

先月末、私は、 「三人ガリデブ」事件で偽札づくりの犯人、通称殺し屋エバンズに拳銃で撃たれ、弾は奇跡的に大腿部をかすめて、軽い擦過傷を負ったのであった。

「ありがとう。弾が皮下の筋肉を少しえぐったからね。しかし、見た目ほど出血はひどくないよ。3週間ほどで傷口もふさがって、今は普通に歩ける。」

「本当によかった。ところで、ちょうどいま、君を呼ぼうかどうか迷っていたところさ。でも、ワトソン夫人が機嫌良く君を送り出したところを見ると、独身主義者の気兼ねは不要だったらしい。」

「まだ挙式前なので、メアリー・メイパリー夫人はワトソン夫人ではなく婚約者だが、なぜ彼女が私を送り出したのが分かったのかね?」

 「基本だよ! ワトソン。君の身なりを観察すればすぐ分かる。多少汗はにじんでいるが、君のカラーは糊が効いて真新しい。シャツも皺が寄ってないし、朝から着ていたものではないことが分かる。出かける前に彼女が着替えさせたに決まっている。夏向きのクラバットも洋服にうまく合わせて、女性らしい繊細な見立てだ。君の無頓着な選び方とは大違いだ。ここを訪ねることは彼女の勧めだったのだろう。」

私は、いつもながら彼の観察眼の鋭さに舌を巻き、

 「驚いたね。その通りさ。昨日、ハロウ・ウィールドの邸宅でメアリーが、『そろそろホームズさんを訪ねたら。』と言ってね。僕が君のことを気にしていることはお見通しで、『私に気兼ねしないで、ぜひ明日にでも行ってくださいな。』と勧めたのさ。今朝もメイドを連れて医院の手伝いに来てくれて、私の出かける前に着替えなど甲斐甲斐しく世話をしてくれたよ。」

そのとき部屋のドアが開いて、ハドソン夫人が、ティーポットを持った給仕を従えて、アフタヌーンィーのトレイを運んできた。

「まあまあ、ワトソン先生よくいらっしゃいました。久しぶりでお会いできて嬉しいですわ。あなたがいらっしゃらないと家中さびしくって。ちょうどお茶の時間でよかったわ。ケーキもスコーンも焼きたてですよ。さあさあ、どうぞ。」

とにこにこしながら、取り散らかしたテーブルの上を片付け、お茶の用意をしてくれた。トレイには、ティーカップ、ミルク入れ、焼きたてのスコーン、レーズン入りバウンドケーキ、キュウリとハムのサンドイッチ、クロテッドクリーム(イギリス伝統の煮詰めたミルクから作った濃厚クリーム)、アプリコットジャムなどを入れた小皿が載っている。

「ここでしか食べられないハドソンさんご自慢のスウィーツだ。我らのワトソンをもてなすにはちょうどいい。さあ、いただこう。」

こう言うとホームズは、早速食べ始めた。ハドソンさんは、ごゆっくり召し上がれと言って部屋を出て行った。私は、入れ立てのダージリンティーを味わいながら聞いた。

「僕を呼ぼうというからには、何か大きな事件でもあったのかね?」

ホームズは口を動かしながら、テーブルの上に置いた先ほどの紙片を取り、黙って私に寄越した。紙は電報でつぎのように書かれていた。


「食い道楽にはパイプがいる。ポストマーク5番の沈黙の誓いに、聴診器があればよい。

 二振りのサーベルの契約書を探している。月桂樹とオークの上で金の鷹がねらっている。

 ハンドルバーはNEに向き、海より陸の従弟を好む。ライオンは傷口をなめている。」


差出人の名もなく、意味不明の奇妙な電報を前に考え込んでいる私を見て、ホームズは、ナプキンで口をぬぐいながら言った。

「君が来るしばらく前に届いたのだ。何を意味しているか推測できるかい。」

私はほとんど分からなかったが、ふと思いついていった。

「電報は、君の兄さんが出したのだろう。『食い道楽』は、たぶん食通で美食家のマイクロフトのことだね?」

ホームズは、ご名答と言って、

「もう分かったと思うが、『パイプ』とはパイプ煙草を愛好する僕のことさ。『聴診器』も分かるね?」

私は、なるほどと思って、

「つまり僕のことかい。ということは、これはマイクロフトが君と僕に会いたいというメッセージなのだね?」

「その通りだよ、ワトソン。前にも言ったが、推理力というのは伝染するようだね、」

「いつものことさ、君の暗示のおかげで、僕の推理能力も向上したよ。」

「それはよかった。さて、兄は、ぼくらに何か探し物で、協力を求めているらしい。」

「うん、『二振りのサーベルの契約書を探している』とあるね。ところで、その前の『ポストマーク5番の沈黙の誓い』とはなんのことだろう。消印(postmark)の5番目とは出した手紙の順番かな?」

私が首をかしげると、ホームズは、

「いや、郵便の消印には日付、時間が記されている。つまり『ポストマーク』とは、おそらく時間を意味したものだろう。それに『ポスト』の頭文字はP、『マーク』はMだから、PMでラテン語のポスト・メリーデェイム(post meridiem 午後の意)つまり午後のことを表しているのだと思う。」

「なるほど、すると『5番』は、午後の5番目、つまり午後5時のことだね。」

「そうさ。」

私は、じゃあ『沈黙の誓い』はなんだろうと、しばらく考えた上で、はっと気づいて勢い込んで言った。

「そういえば、君の兄さんが入会しているディオゲネス・クラブは、会則で私語は来客室を除いて一切禁止しているそうじゃないか。『沈黙の誓い』とはディオゲネス・クラブのことじゃないかな!」

「その通りさ。君の推理力もずいぶん進歩したね。」

ホームズは、ひやかし気味にほめた。私は、それほどでもないさと受け流して、

「ところで『二振りのサーベルの契約書』とはなんのことだい?」

「これを考えるためには、後の部分が手がかりになる。『月桂樹とオーク』とは何だろう。第三共和制のフランス共和国の国章に、月桂樹とオークの枝の十字架があるのは知っているね。つまりこれはフランスのことだ。『月桂樹とオーク』が国を表していると分かれば後は簡単だ。」

私は、なるほどと思って、

 「そうか、そうすると『金の鷹』もやはりどこかの国だね?」

「うん、鷹はいろいろな国で国旗に用いられるが、金の鷹は、ロシア帝国の国旗に使われていて有名だ。現在、ロシアとフランスは協商関係にあるから、『月桂樹とオークの上で金の鷹がねらっている』というのは、フランスの支援のもとにロシアが『二振りのサーベルの契約書』をほしがっているという意味だろう。」

 「ふーん。それじゃ、次の『ハンドルバーはNEに向き』は何のことだろう。舵の柄がNEに向いたとは、何を意味しているのかな?」

「NEは略語だと思うよ。」

「分かった。NEはノースイーストだよ。北東に舵を向けたのだ。」

「NEはその通りだと思うが、北東に舵を向けたでは全体で意味をなさないよ。僕は『ハンドルバー』もやはり国に関係があると思う。」

「どんな関係だい?」

「『ハンドルバー』とは、おそらくハンドルバー・ムスタッシュのことだよ。これは別名エンペラー・ムスタッシュ(カイゼル髭)とも言って、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の髭が2輪車のハンドルに似ていたところから、そう呼ばれている。マイクロフトは『ハンドルバー』で、カイゼル、つまりドイツ帝国のことを表したのじゃないかな。」

「なるほど、そういえば、カイゼルの口髭は有名で、よく風刺画にも書かれているね。そうすると、そのあとの『NEに向き』とは何のことだい?」

「ドイツにとって北東の方角にあるのはロシアだ。おそらくカイゼルが最近、ロシアに何かと肩入れしていることを意味しているのだと思う。」

「そうか、じゃあ『海より陸の従弟を好む』も国に関係があるね? そう言えば、カイゼルとニコライ2世は従兄弟同士だよ。陸の従兄弟とはロシア帝国のニコライ2世のことだね。」

「そう、そして海の従兄弟は、やはり、カイゼルの従兄弟である我が大英帝国の王太子ジョージ・アルバート殿下さ。」

「なるほど、すべて英、独、仏、露の国際関係に関しているわけか。あと残ったのは『ライオンは傷をなめている』だが。」

私ははっと気づいて、手を打って

「分かったぞ、『ライオン』は英国だ! 獅子の紋章は我が大英帝国の国章だよ。」

「その通り。いずれも国を表していると分かったが、それでは『二振りのサーベルの契約書』とはなんだろう。これも国に関係していると思う。二本のサーベルを使う国はどこだろう。日本のサムライが腰に常に二本のサムライサーベルを差しているのは有名だ。これは日本と関係があると思う。」

私は反問して、

「しかし、日本の国章は、たしかミカドの紋章の菊花ではなかったかな?」

ホームズは、次のように説明した。

「それも考えた。今、戴冠式で世界中から祝賀のための使節が英国に来ている。王族貴族、大統領、首相、使臣たちが大勢集まって、活発な慶賀外交を行っているようだ。我が国は、ロシアに対抗するため今年の一月に日本と同盟を結んだばかりだ。ロシアとフランスは、早速これを牽制する声明を出している。たぶん、今、訪英中の日本の代表と我が国の間でロシア・フランスに対抗する秘密交渉が行われて、何らかの協定が結ばれたのだと思う。『契約書』とはその協定文書のことだろう。しかもそれは軍事に関する

協定で、相手は日本の軍関係者だったと思う。だから『二振りのサーベル』とは、日本の戦士階級サムライの後裔、つまり日本の軍部さ。」

私は納得して、

「そうすると、これは日本との攻守同盟の協定文書をめぐる事件ということだね。全体の内容を整理するとどうなるのだろう?」

ホームズは、内容を整理して、

「日本との秘密軍事協定の書類が敵に奪われたか、盗まれたのだと思うよ。それを取り返そうとしているのだ。フランスの支持の下、ロシアが日本と英国の隙をねらっているし、ドイツもロシアをけしかけ、漁夫の利を狙っている、ということさ。」

私は、最後にこうと付け加えた。

「『ライオンは傷口をなめている』とは、つまり我が大英帝国は、長年にわたるボーア人との戦いで疲弊し、ただいまはその傷を癒している最中で、日本との同盟は結んだものの、とても戦える状態ではないということだね?」

ホームズは、カップを飲み干しながら、

「マイクロフトの言いたいことは、そういうことだろう。」

そして、マントルピースの上の時計を眺めて

「さて、5時に来てくれということだから、そろそろ出かけなければならない。君も来てくれるかい?」

「もちろん、行くさ。」

私は張り切って答えた。


  二 「秘密軍事協約」

ディオゲネス・クラブは、ペルメル街にある比較的小さなクラブだが、ゴチック様式で建てられた重厚な建物だった。玄関を入ると吹き抜けのある広々としたロビーで、ドーム型の大天井にはめ込まれた窓のせいで中は明るかった。しかし、一歩奥に入ると、装飾を施した歩廊、階段、円柱、絵画やタペストリーで覆われた壁等で窓はほとんどなく、薄暗い内部は森閑と静まりかえっていた。

常識破りの奇矯な言動で知られた 古代ギリシャの哲学者の名を冠したこのクラブは、その名の通りロンドン屈指の風変わりで、閉鎖的なクラブだった。会話は会員同士でも来客室以外では禁じられ、規則を破った者は即刻退会処分となるという。しかし、クラブで供される料理は最高級で、ワインもとびきり上等だった。美食家のマイクロフトは、毎晩必ずここで過ごし、晩餐をゆっくりと楽しむらしい。クラブの創始者の一人である彼は、2階に自分専用の部屋を持っていたが、会員以外の者は一階までしか立ち入りを許されないため、我々は1階の来客室に通された。

マイクロフトがでっぷり太った巨体を肘掛け椅子に押し込むように座って、ブランディーグラスを手に葉巻をふかしながら待っていた。鋭い鉄灰色の目と厳しく引き締まった口は、威厳に満ちてなんとなく近寄りがたいが、それでいて、鷹揚で悠揚迫らぬ雰囲気も漂わせていた。

彼は英国政府のとある小部門の会計官という肩書だが、実はこれは彼の一面にすぎず、本当は絶大な影響力を持った、政府にとって欠くべからざる重要人物であった。首相を始めホワイトホール(ロンドンにある中央官庁街)の高官に繋がりを持ち、薨去されたヴィクトリア女王陛下以来、王室とも関係が深いという。彼はさまざまな国家機密に関する事項に参画しており、 「ブルース・パーティントン設計書事件」の際、これは国の最高機密に属する潜水艦の設計書があやうくドイツのスパイに盗まれそうになった事件であったが、この設計図を奪い返す作戦を主導したのもマイクロフトだった。

 我々の顔を見ると、彼は懐中時計を出して、

 「5分遅れたな。あの程度の解読で遅くなったわけではあるまい?」

 「おりよくワトソンが訪ねてきてね、つもる話に出かけるのが遅くなったのさ。」。

マイクロフトは目を細めて

 「ほう、ワトソン君は、今、住まいは別か。ということは、往診をやめて昔のように医院を再開したわけだ。きっかけは結婚だな?」

私は驚いて言った。

 「いえ、まだ婚約しただけで、挙式は十月の予定です。よい女性と出会いまして、再婚ともう一度医院を開く決心をしました。適当な家を見つけたもので、いろいろ準備が大変でしたが、ようやく一段落がついて、先週から診察を始めたところです。それにしてよく分かりましたね。」

私は彼にすべてを見抜かれているようで、なんとなく気味が悪かった。

 「君の服装、立ち居振る舞いをみればすぐ分かる。君は独身者のように見えないよ。」

ホームズは笑って、

「僕や兄のような独身主義者と違って、男は家庭を持つと野放図さがなくなるのさ。」

「さて、本題に入ろう。今日来てもらったのは、電報で知らせたように外国政府が絡んだ非常に厄介な事件が起きたためだ。事件は我が国が結んだ軍事協定の書類を相手国の交渉担当官が紛失してしまったのだ。詳しくはこれから私といっしょに外務省に行って聞いてもらう。すでに向こうは来て我々を待っていると思うので、すぐ出かけよう。」

こういうとマイクロフトはたち上がって、あわただしく部屋を出て行った。我々も急いで彼のあとを追った。玄関の外にはすでにハックニー・キャリッジ(2頭立て四輪箱馬車)が待たせてあった。マイクロフトは太った体に似合わず、身軽に馬車に乗り、早く乗るように促した。馬車は蹄の音も高く走り出した。

ホームズは、マイクロフトに尋ねた

「兄さん、相手国とは日本だね? 日英同盟の条約公文はとっくに公開されているから、これとは別に秘密の協定が結ばれたのかい?」

「そうだ。だが、内容については極秘なので私の口からは言えない。首相、外務省、陸

軍等のごく一部の関係者しか知らないことなのだ。これについては向こうで詳しい話が聞けるだろう。」

「書類の紛失にロシアやフランス、ドイツはどの程度関わっているのだろう?」

「陸軍の諜報局は彼らの仕業と決めつけている。ただし、現在のところ確証はないようだ。もし、彼らが協定交渉を察知していたならば、関与した疑いは濃厚となるが。」

「秘密交渉が行われたことは、どの程度知られているのだい?」

「分からない。両国とも直接交渉に関わったのは、陸海軍のごく少数の軍事部門だけで、一部を除いて政府関係者もほとんど知らないはずだ。私もこの事件によって始めて知ったよ。」


まもなく、キング・チャールズ・ストリートの北側にある外務省に着いた。マイクロフトが検問所の門衛に鑑札を見せて車を乗り入れ、通用門の前で下車し、イタリア様式で作られた瀟洒な建物の中に入った。この建物は、外務省のほか、インド省、内務省、植民省が入居した大建築物で、内部の壮麗さで聞こえていた。役所というよりホテルに入ったような感じで、実際、外務省などは、夜会や公式レセプションなどにも使うという。  

マイクロフトは勝手知ったようすで、案内もなしにさっさと奥に向かい、我々を大臣室に導いた。扉の前で呼び鈴を押すと秘書官が現れた。マイクロフトが大臣への取り次ぎを依頼すると、我々の到着を知らされていたようで、直ちに奥の執務室に通された。

中に入るとすでに4人の人物が安楽椅子とソファに腰掛けて、なにやら議論の最中であった。この内2人は東洋人で、年配の方は外交官らしくフロックコートの正装姿、もう一人は中年の高級軍人で、勲章を並べた肋骨服を着用していた。残りの2人は英国人で、一人は将官の階級章を付けた英国陸軍の軍人、もう一人は仕立ての良い上等な背広をきちんと着こなした紳士だった。刈り込まれた口髭を蓄え、背が高く鶴のように細身で、生え際が大きく後退して禿げ上がっていた。これが第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ・フリッツモーリス外相と思われた。

マイクロフトは背広の人物に向かってホームズと私を紹介し、さらにこちらがランズダウン外務大臣だと紹介してくれた。彼は立ち上がって握手を求め、我々をねぎらい次のように言った。

「マイクロフト、無理を言って弟さんを引っ張りだしてもらってご苦労をかけた。ホームズ君、ワトソン博士、おいで頂いてありがとう。君たちの活躍はかねがね耳にしているよ。ワトソン博士の著書もたびたび拝見させていただいている。マイクロフトから聞いていると思うが、外務省は以前にも君たちに助けを求めたが、今回もまたご無理をお願いすることになった。」

そして、2人の東洋人を我々に紹介して、

「こちらは、日本帝国特命全権公使タダス・ハヤシ子爵、ご承知のように我が国と日本は今年1月から同盟関係に入ったが、ハヤシ公使はその締結交渉に大いなる貢献をされた方だ。」

林董公使は立ち上がって一礼し、我々に握手を求めた。大臣は続いて、肋骨服の軍人を紹介し、「こちらは日本陸軍のヤスマサ・フクシマ少将、 10年前単騎で真冬のシベリアを横断されたことで有名な方だ。また2年前の 拳匪の乱の際、八カ国連合軍の一員として日本軍の指揮を執り、北京籠城の外交団救出に大いに貢献された。」

福島少将はやはり立ち上がってお辞儀して、握手を求めた。最後に、大臣は自分の横にいる大柄で赤毛の英国陸軍の将官を、ニコルソン陸軍中将で陸軍省動員・諜報局長を務めていると紹介した。

 一通り紹介と挨拶が済んで一同が腰を下ろすと、大臣は秘書官の運んできたキュウラソー入りのコーヒーを勧め、林公使にホームズを呼んだ事情を説明してもらえないかと頼んだ。林公使は、大臣に会釈して語り出した。

「高名なシャーロック・ホームズ氏にこうしてお会いいただいて光栄です。このたびおいでいただいたのは、我が帝国と大英帝国の両国にとって重大な事件、とりわけ我が国にとりましては国の命運に係わる事件が起こりました。事件の詳細は後ほど福島少将からご説明しますが、解決は困難を極めており、是非ともホームズ氏のご協力を賜りたいと願う次第です。ランズダウン外相のお話によると、ホームズ氏は数々の難事件を解決され、また、たびたび貴国政府、あるいは外国政府の要請に応じて内政・外交に係わる複雑な事件の解決に多大の貢献をされたと聞いております。このたびランズダウン外相の推奨もあり、我が国もホームズ氏のご協力を賜りたいと強く願うものです。」

 林公使は、ここまでを見事なキングズイングリッシュで一気に語った。公使はは白毛混じりの口髭をピンと伸ばした、押し出しも堂々とした重厚な人物で、なかなか能弁であった。ランズダウン外相はホームズの顔を見ながら言った。

「ホームズ君、兄上のマイクロフトにも話をしていたのだが、これは日本だけでなく我々英国にとっても重大な問題なのだ。この事件が解決出来ないと我が国も大きな打撃を受ける可能性がある。まだ納得できないかもしれないが、私からも是非協力をお願いしたい。」

マイクロフトはホームズを振り返りながら、

「車の中でも言ったがこの件は極秘で、我が国ではダウニング街(首相官邸)、陸軍省、外務省のごく一部の関係者しか知らない。いま両国で必死に捜査に当たっているが、事件の性質上、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)は、公式には通常の犯罪捜査の範囲しか行えない。したがって、秘密裏の捜査については、ぜひ君たちの協力が必要なのだ。」

ホームズは、少し考え込むようにして言った。

「日本のような外国ですとことばの壁もあって捜査はなかなか難しい問題があります。ともかく、我々が関わるかどうかの前に、事件の内容を聞かせてもらえませんか?」

林公使は、ごもっともとホームズに同意して、福島少将の方を見ながら説明を促した。短髪でがっちりした体躯の福島少将は、軍人らしい意志強固な表情をしていたが、かなり憔悴して顔色も悪く、少し緊張していた。私たちに向かって一礼した後、正確な英語で話し出した。

「私は参謀本部で第二部長を拝命しております。このたびはエドワード7世国王陛下戴冠式に出席される小松宮殿下の随行員として訪英しております。しかし、実際の任務は陸軍代表として両国の軍事協商の交渉のため参りました。」

「ご承知のように、ロシア帝国は義和団事件以来満州に居座り続け、各国の非難によって、ようやくこの四月に清国との撤兵交渉を妥結しましたが、どこまで履行する気があるのか極めて疑わしく思われます。 5年前には、遼東半島の旅順を強引に租借して太平洋艦隊の主力を移し、巨砲を据えて恒久堡塁を構築しております。今後は、全通したばかりのシベリア鉄道経由で、2百万と豪語する陸兵を増派してくるものと思われます。また軍艦も続々と回送しており、ウラジオストック艦隊と旅順艦隊を併せたロシア太平洋艦隊の勢力は我が国の常備艦隊に拮抗しつつあり、我が国のみならず朝鮮国、清国にとって大きな脅威となっております。」

「このような折、貴国が同盟国になっていただいたことは、我が国をどれほど力づけることかわかりません。よく知られているように日英同盟は、その第二条、第三条によりて、日英各国の戦争相手国が一カ国だけの場合はもう一方は厳正中立を保ち、第三国が交戦に加わった場合のみ同盟国を支援して戦うという条約です。しかし実は、軍事当局者ではこうした同盟条約とは別に、お互いの協力関係を深める秘密の軍事協商会議が進められていたのです。」

福島少将はここまでの長い話を、何回かにくぎりながら語った。私は始めて耳にする秘密軍事協商の話に大いに興味をそそられたが、ホームズは黙然として聞き入るばかりであった。少将はさらに続けた。

「軍事協商のための陸海軍代表者会議は、今月七日と八日に秘密裏にロンドンのウィンチェスター館の陸軍省別館で行われ、両国の軍事協約が締結されました。軍事協約書は英文で各国ごとに、陸海軍共通の協約書と陸軍単独の協約書が作られました。陸軍単独協約書については各国1通、陸海軍共通協約書については、海軍用と陸軍用に各国2通用意されました。海軍用は海軍側代表の伊集院少将がお持ちになり、陸軍のものはすべて私が携行して、スエズ経由で速やかに本国に届ける予定でした。私はこの陸軍の二通の協約書を厳重に保管しておりましたところ、去る七月十三日になって、このうち陸軍単独の協約書だけが失われていることが分かったのです。」

ホームズは、不意に沈黙を破って尋ねた。

「紛失された場所は公使館ですか?」

福島少将は、首を振って言った。

「いいえ、サヴォイホテルの私の部屋です。私は小松宮殿下の随行員の一員ですので、殿下が滞在されたサヴォイホテルに宿泊しています。私の部屋は三階の3010号室で、書類は施錠した書類鞄に入れ、鞄はスイートルームの奥の寝室の鍵付き戸棚に収納してありました。」

ホームズはさらに尋ねた。

「無くなった時の部屋の状況を教えてください。盗難に遭われたような形跡はありましたか?」

福島少将は、大きく首を左右に振りながら否定した。

「いいえ、私が見る限り賊が侵入した形跡は全くありませんでした。とくに無くなったものもありませんし、扉も窓も鍵がかかっていました。それにもかかわらず、戸棚も書類鞄も鍵がかかったままの状態で、中の書類だけが無くなっていたのです。ちなみに、鞄の鍵と戸棚の鍵は私が常時所持しておりました。」

マイクロフトが次のように言った。

「モテルのメイドやボーイ等は全員調べたよ。公式には金時計や宝石付き勲章等の貴重品紛失事件として捜査している。書類が部屋に有ったと思われる七月八日夜から十三日までにあの部屋に入った者は、関係者以外は、客室係のメイド一人だけでとくに不審なことは全くないそうだ。こちらも彼女の背後関係を調べたがとくに怪しい点はない。高級ホテルの従業員としてまじめに勤めているよ。ホテル側も信用があるからいろいろ調べてくれて、従業員の中にとくに疑わしい者はいないそうだ。警察は、どこか別の場所で鞄の中身を紛失したか盗まれたのではないかと言っている。」

福島少将はやや憤然とした調子で、

「そうしたことはありえません。八日に陸軍単独協約書が作成された後、書類鞄は公使館付駐在武官の宇都宮少佐が預かり、ホテルにもどるまで彼が肌身離さず所持していました。部屋にもどった後、前日に調印した陸海軍共通協約書も含めて、二通とも書類鞄に入っていることを確認の上、私が施錠して寝室の戸棚に格納しました。以降、鞄は部屋の外には持ち出していません。」

そして次のように付け加えた。

「この事件のあと、一応我々の方でも日本側の関係者を全員調べてみました。疑わしい者は一人もいません。書類に近づけるのは、私以外は宇都宮少佐だけですが、彼は英国側のオルタム陸軍少佐とともにこの協約書を起案した人物で、彼が持ち出す理由がありません。」

一同がしばらく沈黙した後、ホームズが突然、次のように言った。

「紛失した協約書の内容を教えていただけますか?」

私は、ホームズの単刀直入な質問に驚いた。福島少将は、言いよどんで、

「ええ…、これは日英両国の軍事機密に関することですので…、私の一存では申し上げられません。」

するとホームズは、有無を言はせぬ様子で、

「将軍、書類の紛失事件はこの書類の内容とかかわっています。通常の盗難でないとしたら、犯行の動機は明らかに書類の入手を狙ったものです。外国政府や諜報機関の関与も考えられます。従って、犯人の手がかりをつかむためにも、書類の内容は知っておく必要があります。」

このとき、林公使が日本語で福島少将に話しかけ、しばらく二人でやりとりした後、公使は次のようにホームズに言った。

「これはホームズ氏の言う通りで、この件では小村寿太郎外相から、英国側に捜査をお願いする以上、英国の関係方面に全面的に協力するように訓令されている。機密の解除は英国側もすでに了承しているし、小村外相を通じて参謀総長、陸軍大臣にも要請していただくので、差し支えない範囲で説明されたらどうか、という話をしまして、福島将軍も了解されました。」

すると、今まで黙っていたニコルソン中将がきびしい表情で口を挟んだ。

「軍人としてフクシマ将軍の懸念は当然で、我々英国側も軍機保護の点から慎重に取り扱っていただきたい。今回は政府首脳の要請もあり、機密の一部解除に同意するが、ホームズ氏にはあくまでも特例中の特例と考えてほしい。」

福島少将は、お許しをいただいたようなのでと言いながら、慚愧に堪えないといった様子を見せて、

「まずは、外務大臣閣下、公使閣下、ニコルソン中将閣下、今回の私の慎重さを欠いた不手際で、大英帝国並びに我が国に多大の迷惑をおかけしたことを改めて深くお詫びしたいと思います。責任をとるための私自身の進退も当然考えておりますが、まず、紛失した書類の行方を突き止めるのが先決で、今はその発見に全力を尽くすべきであると考 えております。ホームズ様、よろしくお願いいたします。」

こう言い終わるとホームズに深々と頭を下げた。ホームズは恐縮して答礼し、林公使は将軍の責任など誰も考えていないと言い、ランズダウン外相もこれは我が国の警備体制にも問題があったのだと慰めた。福島少将は感謝しながら話し始めた。

「紛失した書類には、我が国がロシアと開戦することを前提にした日英両陸軍の秘密協定が記されていました。先ほど申し上げた通り今年の一月三十日に締結された日英同盟は、日英各国が1ヶ国とのみ戦う場合は、各国とも厳正中立を保つという同盟ですが、軍事協約に関してはそれ以上のより突っ込んだ内容の交渉が行われたのです。」

「交渉はまず、今年の五月、日本の横須賀で予備会談が行われました。この時は主として海軍に関する軍事協定の協議が中心に進められ、陸軍に関しては、作戦方針、船舶支援、作戦地誌、兵站地誌等が協議されました。七月七日のロンドンの会議は、陸海軍合同で横須賀の協議を踏まえ、正式の陸海軍共通協約書が作成されて調印されました。しかし、これとは別に陸軍独自の本格的な軍事協定が極秘に作られたのです。これは、七日の陸海軍の会議の後、日英の陸軍のみで秘密の会議が行われ、翌八日に相互の協定が締結されました。」

ここまで言うと福島少将はニコルソン中将に向かって、陸軍協約書の詳細については、英国側から説明していただけないかと頼んだ。中将はやむを得ないという表情で、しぶしぶ語り出した。

「我が陸軍は、4年にわたるボーア人との戦争に勝利したものの、この間数億ポンドの戦費と多大の人的損害を受け、海軍とは違って実のところ日本を支援する力はない。しかし、日本側の強い要望として、強大なロシア軍に対抗するためには、地上戦力においてもぜひとも英軍の具体的支援の保障が必要ということでこの協定が結ばれたのだ。もちろん、これは正規の同盟条文に抵触することだが、現政府首脳の英断によって極秘にうちに行われた。」

こう言って、ニコルソン中将はランズダウン外相のほうをちらりと見た。

「協定の内容は、今後1年以内に限定して日露開戦があった場合、英国は1個軍団以上の兵力を速やかに満州に送ること、それからアフガン方面から国境地帯のロシアを攻撃することだ。その代わり日本は台湾に混成旅団をいくつか置き、ロシアの協商国フランスが介入した場合は、直ちに英軍とともにトンキン・安南方面の仏軍を撃攘してフランス植民地を制圧、英領インドシナの確保に当たることになっている。」

これを聞いて私は、 アフガニスタン戦争に従軍し、負傷もした経験があるので、驚いて口を挟んだ。

「ニコルソン閣下、アフガンでは私も戦った経験がありますが、我々イギリス人には気候、風土、住民とも最悪ともいうべき土地で、この地で戦う困難さは南アフリカ以上だと思われますが、本当に戦うのでしょうか?」

ニコルソン中将は、余計な事をといった表情で、

「それほど大規模な出兵にはならないと思う。ロシアもこの地で戦う困難さは十分分かっているので拡大を望まないだろう。おそらく国境線を越えて進出しているロシア軍を駆逐する程度の限定的な作戦となると思う。」

そのとき、ランズダウン外相が次のように言った

「かなり以前からロシアはしきりにインド・アフガン方面へ進出しようと、しばしば国境の侵犯を繰り返してきた。とくにアフガンは、我が国が南ア戦争で気を取られているうちに、山岳地帯では国境線を越えてロシア軍が不法占拠した地域がいくつもある。また、インドについても反英的傾向を持つ土侯国をそそのかしてイギリス排斥の暴動をたくらむなど、実に悪辣な策動を行っている。その意味で今回の出兵は、侵略に対する我々の強い意思表示を示す意味でよい機会かもしれないのだよ。」

ここで、今まで黙って聞き入っていたホームズが、

「たいへん重要な軍事機密をお聞かせいただき、まことにありがとうございました。ところで、この軍事協約書の存在を知っているのは、どのような方々ですか?」。

福島少将は、

 「我が国では協約書はまだ天皇陛下の御裁可を頂いておりません。したがって、いまだ案の段階に置かれていますので、今のところ、軍事協約書の中身を知っている関係者は桂首相、小村外相、寺内陸相などの陸海軍の首脳部及び直接交渉に当たった陸海軍の参謀将校、駐在武官のみです。とりわけ陸軍独自の協約書の詳細については、まだ海軍のほうにも詳しく伝えておりませんし、本国の陸軍部内でも、中身はおろか存在すら知らない者が大半です。」

ニコルソン中将も引き続いて、

「英国についても同様で、陸海軍共通の分はともかく、陸軍単独の協約書の中身を知っているのは、バルフォア首相、ランズダウン外相及び陸軍大臣と陸軍省の中枢部に限られ、ソルズベリ前首相や海軍にもまだ知らされていないと思う。」

ホームズは、今度はランズダウン外相に向かって尋ねた。

 「この協約書に関心を示す国は、ロシア以外にどの国でしょうか?」 

 「多くの国が関心を持つだろうが、とくに強く関心を持つのはフランスだろう。フランスは英国が日本を支援して戦った場合、ロシアの協商国だから参戦の義務がある。彼らはロシアを支援するにしても、ロシア国債を引き受けて財政援助をする程度で、何としても戦争には巻き込まれたくないのが本音だ。したがって日英の軍事協商にはずいぶん気にしている。この間もデルカッセ(フランス外相)が日英同盟の中立条項の確認を問い合わせてきたよ。フランスはドイツを牽制するために露仏協商を結んだのであって、英国と戦う理由はないそうだ。」

ニコルソン中将が、口を挟んだ。

「ドイツもそれに劣らぬ関心を示すと思われます。」

外相は、うなずいて、

「もちろんドイツも関心を示すだろう。ドイツはロシアと日本を戦わせたくてしかたがないのだ。ここだけの話だが、ドイツはロシアの南進を防ぐためと称して英独日の三カ国同盟を提起してきた。カイゼルもドイツ政府も三カ国同盟が必要と強く主張して、我が国を誘い込み、日本にも強く勧めて交渉が後に引けない時点で、突然身を引いてしまった。ロシアの矛先を極東に向けるために、慎重な日本を戦争に駆り立てるカイゼル一流の策略だろう。ハヤシ公使を前にしてこんな言い方をして申し訳ないが、日本も英国もドイツの策謀に乗せられたのだ。」

林公使は、すぐに強い調子で語った。

 「大臣閣下、ドイツの思惑はどうあれ、我が国はロシアの専横に対しては断固対決する所存です。天皇陛下の極力戦争は避けよとの仰せにより、交渉は続けて参りますが、万やむを得ない時には、政府・国民一丸となって戦う覚悟です。これは貴国を恃んで我々に戦う決心をさせるというドイツの画策とは無縁な国民感情から出発しております。」

外相は、なだめるように

「公使、貴国が信頼すべき国であり、貴国の軍民がいかに勇敢で頼りがいがあるかは2年前の拳匪の乱で証明されています。我が大英帝国が栄光ある孤立を捨てて貴国と同盟に踏み切ったのもこのためです。」

そして、やや皮肉っぽく付け加えた。

「ただ、 イエローペリル(黄禍論)を唱えるカイゼルのような反日主義者のいるドイツに対して、日本は少し警戒心がなさ過ぎる気がします。そういえば貴国には従来から親独派が多く、ここにいるフクシマ将軍などのように、日本陸軍もずいぶんドイツの影響を受けているようですね?」

福島少将は、折り目正しく反論した。

「大臣閣下、我が陸軍はドイツ兵制を取り入れ、留学生も派遣しておりますが、これは英国が海軍国として世界に隔絶した地位を占めているのと同様、陸軍国としては、ドイツに一日の長があり、学ぶものが多いと判断したからにすぎません。確かに私も陸軍大学において メッケル教官のドイツ兵学を学びましたが、あくまで参謀将校としての作戦技術を習得するためで、ドイツの政治的意図や主張を信奉するものではありません。」

外相は、笑いながら釈明した。

 「もちろん、その辺のことはよく分かっているつもりです。15年前、ドイツにはビスマルクのような偉大で賢明な首相もいたが、現在はカイゼル1人で国を統治しています。彼は繁栄する英国に嫉妬し、絶えず英国の弱体化を狙っています。その彼が、中立を装ってロシアの後押しをしていることを忘れてはならない、という意味で申し上げました。」

ここでマイクロフトが話を戻して、

「かなり時間も過ぎたし、この辺でホームズの返事を聞かせてもらうのがよいと思いますが、ホームズ、まだ質問があるかね?」

「事件についてはいまのところはありません。事件の詳細は後日くわしく聞き取りできますし、現場も実際に見なければなりませんから。ところで、この事件が軍事機密を狙ったものならば、国内だけでなくロシア等の外国勢力が介在していることが考えられます。先ほど述べた外国スパイ、秘密諜報組織の関与は十分考えられますが、これについては当然我が国の防諜機関のほうで対処していると思うのですが、いかがですか?」

ニコルソン中将は、ホームズに向かって、

「おっしゃる通り我が諜報局は、最初からこの事件がロシアかフランス、ドイルのスパイ、若しくはその影響下の人間の手によるものとにらんでいる。専門的な訓練を受けた諜報員ならば、施錠した部屋への侵入や機密書類の窃取はそう難しいことではない。ただ残念ながら、内部協力者なしでどのように侵入して証拠も残さず書類だけを盗み取ったのか、まだその手口がまだ分からない。この辺については警察も同様だ。これに関してはホームズ氏の手腕に期待している。それから、書類が失われたからすでに2週間以

上経つのに、ロシアやフランス等がこの軍事機密を知った形跡が見られない。我々はいろいろなルートで探索しているが、通常、こういった情報を知った場合、両国は緊急に協議や電信を交わしたり、英国側に対抗手段を取ったりして何らかの反応やアクションを起こすものだ。今回はそうした兆候が全く見られないのも謎だ。」

マイクロフトは、

「情報を入手していることを秘匿しているかもしれない。とくにロシアは政府の内部で穏健派が押さえていて、まだ皇帝や軍首脳部に伝えていないかもしれない。ロシアの情勢は複雑だ。政府も保守派と改革派分かれているし、対外進出に反対し、日英と協調しようとする穏健派と、武力によって南下政策を推進しようとする強硬派がいがみ合っている。ニコライ2世は、人柄は好いが優柔不断だ。強硬派がこの情報を知れば黙っていない。これを口実に好戦的な軍部とともに皇帝を突き上げて、フランスを巻き込んで開

戦に踏み切るかもしれない。穏健派のウィッテ蔵相やラムズドルフ外相も抑えきれないだろう。」

ランズダウン外相が、さらに付け加えて、

「そうなっては大変だから書類が誰の手に落ちたかを一刻も早く知る必要があるわけだ。外国諜報機関の関与が濃厚だが、それにしても書類を盗んだ意図がはっきりしない。もしこの情報をつかんだとして、ロシア、フランスにしてもドイツにしても、何の反応も見せないのはおかしい。いずれにしてホームズ君、大変困難だと思うが、この事件の捜査に協力していただけないだろうか?」

林公使と福島少将も、はなはだ無理なお願いとは重々承知しているが、ぜひとも引き受けてはもらえないかと再び頼んだ。ホームズは承知して、こう言った。

「ここまでお聞きした以上は、引き受けざるを得ないでしょう。早速、明日サヴォイホテルにお伺いして現場の確認と関係者の聞き取りを行いたいと思いますので、日本の関係者の方々全員の立ち合いをお願いします。」

こうしてランズダウン外相ら日英の要人たちの感謝の言葉とともに、我々は辞去した。マイクロソフトは部屋の外まで見送りに来て、自分は外相との用談があるのであとに残るが、今後何かあればディオゲネス・クラブまでに連絡するように言って別れた。外務省の外に出ると、すでに馬車が手配されて待っていた。


帰途の馬車の中で、私はホームズにあの日本人たちの印象を聞いてみた。ホームズは、窓の外を眺めながら、

「極めて怜悧で進取的な国民だね。それに勇敢だ。たかだか40年足らずの内に、ほとんど無の状態から独仏に匹敵するほどの海軍を作り上げ、今や強国ロシアの侵略にまともに立ち向かおうとしている。」

私は、10年前の新聞記事を思い出して、

「あのフクシマ将軍だが、語学はかなり堪能だね。英語だけでなく、フランス語もロシア語もできるようだ。彼の単騎シベリア横断の話については、当時新聞で読んだことがある。たった一人でシベリアの奥地まで入り込んで旅をしたのだから言葉には不自由しなかったに違いない。たしか冒険旅行にかこつけてロシアの内情や兵用地誌を探ることも目的だったらしい。そうすると彼は優秀な情報将校だったわけだ。」

「指揮官としても優れているのだろうね。彼は拳匪の乱のとき、日本軍を指揮したらしいが、当時の新聞記事によると、日本軍はロシア軍よりはるに規律正しく、勇敢だったらしい。日本軍の武勇と軍規の厳正さは、タイムズも賞賛していたね。将兵の素質もあるが、やはり指揮が優れていたせいもあると思う。」

私は、真面目で責任感の強そうな福島少将の姿を思い浮かべ、ふと気になって、「ニコルソン中将だが、私は軍にいたとき名前を聞いたことがあるが、会ったのは初めてだ。極めて有能そうな人物だが、どうもわれわれが関わることには、彼はあまり乗り気でなさそうだね?」

「うんそうだね。ぼくらに何が分かるか、といった態度だった。それに日本との軍事協定も内心では反対らしい。本気で協力する気があるのか疑わしいね。」

私は驚いて、どうして分かると訊いた。

「フクシマ将軍の説明の時、僕はニコルソン中将の様子を見ていたが、彼はたいして関心を示さなかった。はじめから問題にしていない態度だ。日本公使に対しても素人扱いをしていると思う。彼は日本をあまり評価していないようだ。」

ホームズの冷たいことばに、私は、東洋人を軽侮する我々白人の差別感情に心が暗くなった。そしてこう聞いてみた。

「今回の事件は、ロシアかフランスによって書類がすでに国外に持ち去られていたら、フクシマ将軍には気の毒だが、取り返すことは不可能じゃないかな?」

「そうだね。その場合はたとえ書類を取り返してもあまり意味がない。軍事機密はすでに相手側に知られてしまったのだから。あとは、政治や外交の問題だね。」

ホームズはそう言って、その後は何も語らなかった。

ベイカー街に到着ののち、ホームズは馬車から降りながら、明日私がサヴォイホテルに同行できるかと尋ねた。

「もちろん、行くよ。戦争になるかどうか国家の重大事だ。それに、明日は予約患者もいないので休診をして、朝早くベイカー街を訪ねるよ。」

そう言って別れ、そのまま家に向かって馬車を走らせた。


   三 「密室の不可解事件」

 次の日(七月二八日)の朝、私はホームズを訪ねた。ホームズは、ちょうど朝朝の最中だった

「おはよう、ワトソン。朝早くからご苦労様。いっしょにどうかね?」。

「おはよう、もうすませて来たよ。」

私は近くの安楽椅子に腰を下ろし、葉巻に火をつけながら、サイドテーブルの上のディリー・テレグラフ紙を取った。第一面に、エドワード七世の虫垂炎手術の回復も順調に進んで、来月の九日にウェストミンスター寺院で戴冠式が行われることが決まったことが出ていた。ホームズは、トーストを食べ終わり、ベーコンエッグを頬ばりながら、

「戴冠式は、はじめ六月二六日の予定だったから、40日以上遅れたわけだ。各国は待ちくたびれただろう。」

私は、新聞記事を見つけて、

「ここに日本のエンペラーの名代、コマツ宮殿下のことが出ているぜ。彼は、六月十九日ロンドン到着、七月一日国王名代の皇太子主催の晩餐会に招かれ、2日間バキンガム宮殿に滞在し、七月三日に皇太子の見送りを受け、ロンドンを離れてパリに行ったらしい。現在はヨーロッパ諸国を歴訪中で、シベリア鉄道経由で帰国するそうだ。」

「それでは事件の時、コマツ宮は不在だったわけだ。フクシマ将軍を除いた随行員は全員同行したのかな?」

ホームズは、そう言ってカレンダーを見た。

「今日は、七月二八日だ。戴冠式まであと13日間しかない。捜査を急がなければならない。」

私は、なぜだいと訊いた。

「戴冠式後は、要職にいるフクシマ将軍はいつまでも英国に滞在できないよ。かといって彼は書類を持たないままではとても帰国できないだろう。下手をすると、彼は責任を取って所決するかもしれない。」

「ええ! まさか、いくらなんでも、そこまではしないだろう?」

「いや、昨日の彼の様子をよく観察したかい? 強く自制していたが、かなり心を高ぶらせていて手が震えていたよ。ニコルソン中将の説明の時などは、自責の念からか、ずっと下を向いていたね。それに、昨夜読んだ オールコック卿の著書によると、サムライというのは、命を惜しまないことを美徳と考え、我々西欧人には理解できないほど死を軽視する種族らしい。何か落ち度があると、HARAKIRIというそうだが、すぐ自ら短刀で腹部をえぐって自殺をするそうだ。」

「ああ、聞いたことがあるよ。随分野蛮で非人間的な行為だ。」

私は、ぞっとしながら、あの沈着冷静なフクシマ将軍がそんなことをするとは考えられなかったが、いや、死より名誉を重んじるというサムライの末裔ならやりかねないな、と思い直した。

ホームズは急いで食事を終えると、私たちは辻馬車を雇い、サヴォイホテルに向かった。ホテルは、テムズ川沿いのトルファルガースクエア、エンバンクメントにあった。正面玄関からドアマンに導かれてフロントに向かおうとすると、ロビーにいた軍服姿の日本人が2人我々に近づき、上官と思われる1人が流暢な英語で話しかけた。

「シャーロック・ホームズ氏とワトソン博士でございましょうか?」

ホームズが答えた。

「はい、ホームズは私です。こちらはワトソン君です。」

彼はお辞儀をして握手を求めて言った。

「私は、日本公使館付駐在武官、陸軍歩兵少佐、宇都宮太郎と申します。こちらは小松宮随行員の西郷従徳歩兵少尉です。本日、お出でいただくことを福島少将からお聞きして、お待ちしておりました。お会いできて光栄です。」

宇都宮少佐は、中肉中背で容姿端正、挙止動作も上品で、いかにも理知的な感じがした。隣の若い少尉は手も足も大きい、角張った顔をしたいかつい大男で、やはりお辞儀をして握手を求めた。彼は、野太い声でたどたどしい英語を使って、

 「部屋までご案内いだします。こちらでごわす。」

彼は、さきに立って歩き出した。我々はあとに続き、エレベーターを使って3階まで上り、3010室に招き入れられた。前室を通って中に入ると豪華な応接間で、正面の広い窓からテムズ川全体が見渡せた、

中央のソファの前に昨日の福島少将ともう1人の将校が立っていた。福島少将が、随行員の安藤歩兵中佐と紹介した。挨拶が終わると我々はソファを勧められ、福島少将は向かいの安楽椅子に座った。左側の椅子に安藤中佐、右側に宇都宮少佐が腰を下ろした。若い少尉はドア近くの腰掛けに座った。私は、メモのためいつもの革張りの手帳とペンを取り出した。福島少将は、我々の訪問を感謝してから、

「関係者はこの4人のほか、あと3人おりまして、公使館付駐在武官の玉井海軍大佐、及び海軍省軍務局の財部海軍少佐、もう一人小松宮使節団随行員の柴陸軍中佐がいます。玉井大佐と財部少佐は本日、ポーツマスに入港している訪問艦隊のほうへ出張中で、柴中佐は公務で現在イギリスを離れております。」と言い、次のように付け加えた。

「陸軍協約書の存在を知っていたのは以上の七人だけです。いずれも軍関係者で、他の随行員の侍従や式部官、侍医の医科大学教授などは知りません。」

「コマツ宮殿下はご存じですか?」とホームズが尋ねた。

「畏れ多い事ですが、宮殿下にはいまだお知らせ申しておりません。陸軍大臣、参謀総長の厳命により、許可が下りるまで、交渉委員とその補佐官、事務に当たる陸軍関係者以外には、誰にも知らせないことになっております。」

このとき、ドアがノックされ、ボーイがお茶を運んで来た。さきほどの少尉がトレイを受け取り、ごつい手でコーヒーの茶碗やタルト、ガラスの器に入った果物などをテーブルに並べた。ホームズはさらに尋ねて、

「紛失した書類をごらんになった方は、フクシマ将軍とウツノミヤ少佐以外にどなたですか?」

宇都宮少佐が、

「書類の管理は実質的には私に任せられていましたので、代わってお答えします。福島閣下と私以外には誰もおりません。駐在武官の玉井大佐と海軍省の財部少佐にも、厳秘ということで陸軍単独の協約書のほうはお見せ申しておりません。ここにいる陸軍の関係者も、不在の柴中佐も含めて3人とも書類そのものは目にしておりません。」

と答えて、ただし、七日の日英陸海軍代表者会議のあと、ロンドンに残った陸軍関係者全員で、翌日の会議の打ち合わせや資料準備などしたため、皆、日本側の要望事項や提案の内容は知っていると断り、次のように付け加えた。

「七日に締結した陸海軍共通協約書の原本2通の内、海軍用の1通は玉井大佐が保管し、陸軍用の1通は私が預かって公使館にもどったあと、いったん武官室の金庫に入れて保管しました。翌八日、もう一度代表者会議の場に持参して、この日新たに締結した陸軍単独の協約書といっしょに書類鞄に入れ、私がホテルまで持参しました。」

福島少将は、その後に続けて

「あとは昨日お話しした通り、もう一度中身を確認の上、書類鞄に施錠し、寝室の戸棚に収納いたしました。それ以降、鞄はこの部屋から出しておりません。紛失までの間、私以外に部屋に立ち入った者は、ホテルのメイドを除くと、随行員の陸軍関係者及び公使館の玉井大佐と宇都宮少佐、海軍省の財部少佐のみです。」

ホームズが尋ねて、

「八日に鞄に入れてから十三日に紛失に気づくまで、書類をご覧になったことはありますか?」

「一度あります。この部屋で九日午後に玉井大佐ら海軍関係者とここにいる宇都宮少佐などで陸海軍共通協約書の日本語翻訳の打ち合わせを行いました。但し、陸軍単独協約書については鞄に入れたままにしておきました。」

私は、横から口を出して言った。

「それでは、九日午後まではあったわけだ。無くなったのはそのあとから十三日の紛失の発覚時までとなる。」

福島少将は、首を振りながら、厳しい表情で重々しく答えた。

「そうなります。」

この後、ホームズは関係者全員の行動を明らかにする事を求めて言った。

「念のために、書類の存在を知っておられる関係者の、九日から十三日までの行動を教えていただきませんか?」

いままで沈黙していた安藤中佐が、

「私は、七日の会議には出席しておりませんが、日本側の準備作業に加わりました。八日の陸軍のみの会議は、歩・騎兵専門委員として会議の前半のみ参加いたしました。会議終了とともに任務が終わったので、翌九日朝、小松宮殿下に随行するためロンドンを離れました。先週ロンドンに至急戻るように命令を受け、昨日ブリュッセルからこちらに到着し、事件を知りました。」

福島少将は、宇都宮少佐のほうを見て説明を促した。

「九日は、先ほど福島閣下がおっしゃった通り、閣下と海軍側の玉井大佐、財部少佐及び私がこの部屋で翻訳の打ち合わせを行いました。翌十日は、閣下は私を同伴の上、午前10時にホテルを立たれ、英国陸軍最高司令官ロバーツ元帥、及びブロード・リック陸軍大臣を表敬訪問されました。十一日は、閣下は午前九時にホテルを出発、ポーツマスにいる訪問艦隊の伊集院少将のもとを訪ね、その日は、巡洋艦浅間に宿泊されました。私は、公使館で終日、執務をしておりました。十二日、閣下は、十日からポーツマスに出張していた玉井大佐と一緒にロンドンにもどられ、私は駅まで迎えて、公使館で閣下と林公使との昼食会に同席しました。午後は武官室で打ち合わせのあと、ホテルまでお送りし、晩餐をともにしてから公使館に戻りました。翌日の朝、閣下が書類の内容を確認しようとした際、紛失に気づかれたのです。」

宇都宮少佐の説明を聞いているうちに、私は思わず口に出して言った。

「そうすると、十一日早朝から十二日夜にかけての間、この部屋は無人だったわけですね?」

福島少将は、

「会議やら視察、表敬などであちこちに出かけますので、よく留守をします。そのため、西郷少尉を留守番としてホテルに常時待機させるようにしておきました。」

宇都宮少佐が、補足して

「西郷少尉に確認したところ、十一日、閣下が出発されたあと、メイドが掃除とベッドメーキングを行ったそうですが、いつものことで不審な点はなかったということです。その日は閣下が留守をするので、彼はとくに気を配っていたそうですが、部屋を訪れる者は一切無かった、ということです。少尉の部屋は閣下の部屋の真向かいにあり、宮内省の若い式部官と相部屋です。この式部官は宮殿下の各国歴訪中は、ロンドンで連絡係を命ぜられていました。彼も留守の部屋が多いので、注意していたそうです。」

ホームズは、もう1人おられる中佐の方はいかがですかと宇都宮少佐に聞いた。

「柴中佐は、宮殿下に随行されるため、安藤少佐に一日遅れて十日早朝ロンドンを出発されました。前日の九日は、王立陸軍士官学校の視察のため、終日お出かけでした。現在は、使節団一行を離れて、フランスの砲工学校視察のためまだ向こうにおられますが、すでに緊急の連絡を送っていますので、用務を終え次第すぐにお戻りになられると思います。」

私は、メモを取りながら、

「そうするとサイゴウ少尉を除いて、アンドウ、シバ両中佐とも、十日の十時以降はホテルにはおられなかったのですね?

と言って、随行員の中でホテルに残ったのはだれかを訊いた。

宇都宮少佐が西郷少尉になにやら日本語と思われる言葉で話しかけると、彼は立ち上がって少佐に受け答えしていたが、しばらくして我々に向き直り、たどたどしい英語で語った。

「英語があんまりうまくないで、申し訳ないでごわす。お答えいだします。七月三日、宮殿下がご出発なったあと、閣下以外は、安藤中佐殿、柴中佐殿、おい。あとは宮内省の楠式部官が残り申した。そんで公使館の書記生が一人、1日おきに通いで昼間だけホテルに来ちょりました。九日と十日に安藤中佐殿と柴中佐殿が宮殿下の元へ出発されたんで、残っちょるのは、閣下と楠はんとおいだけとなりもうした。十日と十一日に閣下がお出かけに行かれもうしたんで、おいは楠はんと丸三日間ホテルに詰めて留守番して見張ちょりました。ほかにはどっこも行っておりません。」

ホームズはここまで聞くと、それでは部屋を見せてくださいと言って、立ち上がった。福島少将が先に立って、寝室のドアを開けた。中には、豪華なベッドが二つ並んでいて、装飾を施した化粧台、ソファなどが置かれていた。姿見を埋め込んだ壁の横に飾り戸棚があり、福島少将が鍵で観音開きの戸を開けると、中に真新しい黒革製の上等なブリーフケースが入れてあった。

鞄はふたを広げて開けるタイプで、鞄の左右に丈夫な皮バンドが通してあって、がっちりと全体を締め付けるようになっていた。ふたは鞄の真ん中の掛け金で止めて鍵をかけ、把手は金具で固定して、極めて堅牢な作りだった。今現在、書類は公使館の金庫に保管してあるので中は空だった。ホームズが鞄を手にとって調べ、私に向かって、英国製で製造業者はホワイトハウスコックスだと言った。

「こういう状態で戸棚に鍵をして、施錠した鞄を入れておきました。紛失に気づいた十三日の朝もこのままの状態でした。開けてみると陸軍単独の協約書の書類だけが無くなっていたのです。」

福島少将は、こう言って、ポケットから戸棚の鍵と鞄の鍵らしいものを出して見せた。ホームズは、書類以外は何が入っていたかを聞いた。

「何も入れていません。この鞄は重要書類を保管するため、ロンドンで購入したもので、他には使っていません。」

ホームズは丹念にブリーフケースを調べて、書類の分量や大きさを尋ね、そして、どこで購入したかを聞いた。宇都宮少佐が代わって答えた。

「ボンドストリートの文具・鞄の専門店で私が購入しました。店の名前は確かスマイソンだったと思います。購入は今月の初めでした。」

ホームズは部屋とクローゼットの中とベッドの下をざっと調べ、もとの部屋にもどって今度は念入りに調べ始めた。窓、カーテン、扉、天窓など一つ一つ調べ、ときどき拡大鏡を出してじっくり観察した。床の上に腹ばいになって絨毯の様子を調べたりした。みんなは、じゃまにならぬよう部屋の隅に寄って、興味深そうにホームズの様子を眺めていた。浴室と洗面室に入ったが、こちらはすぐ出てきた。やがて部屋の横に鍵の掛かった扉を見つけ、ここを開けてほしいと言った。

福島少将が言った。

「そちらは隣の3009号室の部屋に抜ける扉で、普段は鍵がかかっています。鍵は西郷が預かっているはずだが。」

ホームズが、誰の部屋かと聞くと、少尉が少しあわてて、おどおどした調子で言った。

 「そっちは柴中佐殿の部屋になっちょります。たったいまフランスにおられるけん、おもどりになってから、お調べもうしたらどぎゃんだすか。」

ホームズは、分かりました。そうしましょうとあっさり同意し、少尉に柴中佐が戻ったら連絡してほしいと頼んだ。また、宇都宮少佐に向かって、明日にでも玉井大佐と財部少佐にもお会いしたいと言った。

宇都宮少佐は、ちょっと困った顔して、

「一応、ご希望ということでお伝えしておきますが、玉井大佐のほうはお忙しい方なので会えるかどうか…、」と言って、ともかく伝えことを約束した。

ホームズが、調べは終わったと伝えると、

「お手数をおかけします。今後ともよろしくお願いいたします。」

福島少将は深々と頭を下げた。他の将校たちも同じようにお辞儀をした。


我々は見送りを断り、1階に下りてホテルの支配人に、小松宮使節団の盗難事件で面会を求めた。ホームズの名刺を出していたので、支配人はすぐに現れて、驚いた様子で、と心配そうに言った。

「これは、これは、高名なシャーロック・ホームズ様でございますか。使節団の貴重品盗難事件の事でお調べでしょうか。なんでも金時計やダイアモンド付きの勲章を取られたとか? あの件については、外務省、警察の方で詳しく調べ、当ホテルとは無関係ではないか、と言われておるのでございますが、何か新しい事実が見つかりましたのでしょうか?」

ホームズは、いや、外国の要人なので失礼になってはいけないから、もう一度調べてくれと外務省から依頼されたと言って、部屋係のメイドを呼んでもらった。メイドはすぐに来たが、不安そうな様子だった。

私は、なだめるように言った。

「君を疑って調べにきたのではないのだ。もう一度はじめから調べ直すために君にも来てもらったのだ。盗難が見つかった日のことをもう一度詳しく聞かせてほしい。」

「あの日のことは何度も聞かれてすべてお答えしているのですが、なにを答えたらよろしいのでしょう?」

彼女は安心したらしく、少しいらだった様子で言った。ホームズは、まあまあとなだめて、十一日に、掃除で部屋に入った時のことを詳しく聞き始めた。

「はい、あの日は、3010号室のお客様がお発ちになった後、掃除をしようとスペアキーで鍵を開けていると、すぐ前のお部屋のお客様が出てきて部屋の中に入ってきました。私が掃除をしている間、お部屋の中で見張っているような様子でした。私は、同じ日本の方なので、留守番をしているなと思って気にしませんでした。掃除を終えて外に出ると、その方からチップをいただきました。」

「部屋の中の様子で、何か気のつくことはなかったかい?」

「とくに気がつくことはございませんでした。部屋をきれいに使われる方で、掃除が楽でした。」

「寝室の飾り戸棚の中は掃除したかな?」

「いいえ、しておりません。お客様の滞在中は、クローゼットや戸棚が閉まっている場

合、開けないことにしています。お客様の持ち物が入っていますので。」

「君は、隣の3009号室の部屋係もしているのかい?」

「はい、そうです。」

「十一日に、その部屋も掃除をしたかね?」

「いいえ、3009号室は、お客様は十日からしばらくお留守なので、掃除はしておりません。掃除は、十日にお客様が出かけられたあと行いました。」

「十日のいつ頃掃除をしたのかな?」

「確かお客様が朝九時前、トランクを出して、ポーターに運ばせているのを見ました。それで出かけられたと思って、掃除に行きました。当分留守にされることを聞いていましたので、部屋のカーテンなども全部締めておきました。」

「部屋の鍵は掛かっていたかい?」

「はい、掛かっていました。」

ホームズは、ありがとうと言ってメイドを帰した。

そのあと、支配人に、隣の3009号室の部屋の構造と3階の使用状況を聞いた。支配人によると、3009は、3010の控えの間としても使えるように、壁に行き来できる扉がもうけてあり、3階は、偶数番号がメインルーム、奇数番号が控えの間となるよう、すべてがこのような構造となっているといった。

3階は、フロアー全体が七月三日まですべて日本の使節団の貸し切りとなっていたが、小松宮殿下の出発後は、3009、3010、3011、3016の四室を使用中とのことだった。各室の鍵及び控えの間との境の鍵はまとめて使節団に渡しているということで、どの部屋に誰が入っているかは、部屋割りを日本側がしているのでよくわからない、とのことだ。

ホームズは、協力を感謝し、必要なときにはまたお伺いすると言って、ホテルを引き上げた。調査を終えて、ベイカー街に戻る途中、私は、ホームズに言った。

「正面の扉からの侵入は目立つし、それに向かいの部屋に留守番がいて、常に見張っているからやりにくいだろう。隣の室からの侵入は、合い鍵さえあれば十分考えられるね。両方の部屋とも留守でいないのだからやりやすいと思う。ただ、鍵のかかった鞄から鍵なしでどうやって書類だけ取り出したのだろう。やはり合い鍵を使ったのかな?」

「いろいろの可能性が考えられる。ともかく、捜査の方向は2つある。一つは犯行の手口の解明だ。もう一つは犯人の割り出しだが、そのため書類を盗む動機を持つ者を洗わなければならない。」

下宿に戻り、ハドソン夫人のすばらしいキドニーパイの昼食を取ったあと、2人で今日の調査結果をもう一度整理した。一段落してホームズは、今日はこれくらいにしようと言って、

「明日は、僕1人で調査するので、君は医院の仕事をしてくれたまえ。明後日、午後からでも来てくれたら助かるよ。」

私は、了解して自宅に帰った。



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