1820話 いつか手をつないで
胸の奥の違和感が、楔のようにずぶりと刺さった。
声の震え方。
纏う炎の濃淡。
呼吸の間。
瞳の奥の揺らぎ。
そのどれもが――あまりにも、よく似ている。
「……ママ?」
戦いの最中、思わず零れた呼び名。
刹那、紅蓮竜の瞳の奥で、何かがきしんだ。
ほんの一拍、動きが遅れる。
攻撃の理性が途切れ、痛みに歪みながらも――隙間から漏れたような声が、ドラちゃんの耳に届いた。
「グルオォ……」
それは、咆哮ではなかった。
怒りでも威嚇でもない。
呻きながらも何かを伝えようとする――そんな声。
「……ママ、やっぱり……」
震える唇が、また呼ぶ。
涙が、頬を伝い落ちた。
熱いはずの戦場で、その雫だけが妙に冷たかった。
「私! ドラゴヴィフィア! 今は人化してるけど……私を覚えてない!? ずっと帰りを待ってたの!!」
ドラちゃんは叫ぶ。
喉が裂けそうでも、言葉で鎖を断ち切ろうとするように。
「頑張って練習して……立派な竜になれたよ! 空だって飛べるし、ブレスも吐ける! いつか手をつないで……いっしょに空を飛びたかったから……!!」
息が足りなくなる。
言葉の途中で涙が入り込み、声が掠れる。
それでも、記憶の中の母の温度を、必死に引き戻すように叫んだ。
「…………っ!!」
紅蓮竜の巨体が、かすかに震えた。
浮かびかけた素顔――だが、その気配はすぐ塗り潰される。
体表を覆う炎が一段と深い紅に染まり、瞳の奥の光が黒く濁った。
外側から、”誰か”が無理やり意思をねじ伏せている。
そうとしか思えない圧が、戦場全体を包み込む。
空気が重く沈み、火の粉さえ落下する速度を失ったように見えた。
「だから! またいっしょに暮らそう! ママ!! もう……私を一人にしないで!!」
最後の言葉は、叫びというより、幼い願いの形をしていた。
ドラちゃんは手を伸ばす。
届くはずのない距離でも、それでも伸ばす。
だが次の瞬間、紅蓮竜の喉奥が灼ける音を立て、炎が螺旋を巻いた。
「ドラちゃん、危ないですわ!!」
リーゼロッテの水壁が強く脈動し、かろうじて防ぐ。
仲間たちは熱に目を細めた。
瞼の裏が焼かれるようで、息を吸うだけで肺が痛い。
それでも誰も退かないのは、ドラちゃんの伸ばした手が、まだ前にあるからだった。
「…………ふむ」
そして、その”誰か”は姿を見せる。
火御子だ。
儀式を終えた彼女が、三階の戦場へ現れたのだ。
足音は軽いのに、踏み込むたび床が軋むように感じる。
「やれやれじゃ。有象無象が群れておるのぉ……」
タカシを吹き飛ばした一撃の気配を感知していた彼女の瞳は、怒りと苛立ちと、過剰な所有欲で濁っている。
愛する”夫兼息子”に手を上げた存在への憎悪。
そして「奪われる」ことへの恐怖にも似た執着。
その視線が、最前線へ突き刺さった。
「……戻れ。わらわの炎の中へ……」
火御子が手をかざす。
かつてタカシと共同で施した術式を通し、紅蓮竜に刻まれた呪印へ魔力が注ぎ込まれる。
紅蓮竜は苦しげに身をよじった。
ドラちゃんの呼びかけに反応しかけた瞳が、また黒い濁りに沈んでいく。
「……っ、やめて!! ママにひどいことしないで!」
怒りと恐怖が混ざり、叫びとなって飛び出した。
だが、届かない。
火御子の支配はさらに深く、さらに冷たく、竜の心を塗り替えていく。
「役立たずども、お主らにも働いてもらうぞ」
吐き捨てるような言葉が、命令の印になる。
同時に、紅葉と桔梗に与えられていた「一尾」も、火御子の一意的な指向で書き換えられた。
方向はただひとつ、「勝つ」ためだけの最適化。
そこに人の都合も、身体の限界も存在しない。
「……なに、これ……!」
紅葉の植物妖術が制御を失う。
茨がうねり、敵味方の区別なく絡め取ろうと床を這い、壁を裂き、空間そのものを締め上げ始めた。
退こうとしても、茨は逃げ道すら塞ごうとする。
戦場の呼吸が、奪われていく。
「……っ!!」
桔梗もまた、胸の奥を熱で掴まれたみたいに息を詰めた。
刻印が鋭さを増す。
代わりに、身体への負荷を顧みなくなる。
刀を振るうたび、血管が内側から焼かれていく感覚。
目の前が白く瞬く――それでも、腕は止まらない。
止めるという選択肢が、どこかへ捨てられていく。
「さぁ、終わらせようぞ」
火御子は笑わない。
ただ当然のように告げる。
勝利だけが正しいとでも言うみたいに、淡々と。
壁が揺れ、炎が唸り、茨が暴れ――紅蓮竜が黒い意志のままに、大きく翼を広げた。
翼膜が風を切り裂き、床の上の火の粉が一斉に舞い上がる。
その圧で、水壁が悲鳴を上げるように波打った。
泣きそうなほど揺れているのは、ドラちゃんの瞳。
怖いからじゃない。
信じたいものが、今まさに塗り潰されていくのが、耐えられないからだ。
「ママ……お願い、戻って……!」
その声は小さくなった。
叫ぶより、縋るしかなくなっていく。
指先が震え、膝がわずかに折れそうになる。
それでも、視線だけは逸らせない。
だが返るのは、支配された咆哮と、濁った炎だけ。
母の名を呼ぶ余地を、黒い濁りが飲み込んでいく。
火御子の影が戦場の中心に落ち、三階は一瞬で地獄へと姿を変えたのだった。




