1816話 紅剣ドレッドルート
「はっ!」
アイリスの蹴りが風を裂く。
だが、その鋭さを嘲笑うかのように――タカシはほんのわずか、肩をすくめただけでそれを避けた。
「遅い」
足が空を切った瞬間、床の術式が赤く弾ける。
複雑に刻まれた術式が赤く脈打ち、轟音と共に噴き上がった。
灼熱の柱が背後から襲いかかり、その熱気が肌を焼いた。
「くっ……」
「諦めろ。俺には火魔法と、紅剣ドレッドルートがある。どちらか一方でも天下を取れる代物だ。お前ごときが勝てるはずもない」
タカシは静かに、しかし確固たる自信をもって炎の縁を踏み越えた。
赤々と燃え上がる魔力の残滓を物ともせず、歩を進める姿は、まるで災厄そのもの。
彼の視線がアイリスを捉える。
足先、腰の動き、肩の揺れ――全てを見透かすような眼差しが、容赦なく彼女をなぞっていた。
「紅剣ドレッドルート……か……」
「何か言いたいことでも?」
「何でもない――よっ!!」
アイリスは踏み込んだ。
炎を割って、距離を詰める。
鋭い拳が突き出され、膝が迷いなく振り上げられる。
連続攻撃が矢のようにタカシを貫こうとしたが――
すべては、宙に虚しく流れた。
タカシはわずかに体重をずらしただけで、すべてを紙一重で外していった。
「ふん」
肩をすくめたような小さな動き。
その直後、逆に紅剣が弧を描いて伸びてくる。
「っ――」
咄嗟に身体をひねり、間一髪で刃を避けたアイリス。
しかし、タカシはそれも読んでいた。
剣の柄――その重量感ある金属部分が、彼女の頬を叩く。
「うぐっ!? ……た、ためらいなく顔を殴るなんて」
アイリスはよろめきながらも睨み返す。
頬に走る痛みと熱を感じつつも、気力で立ち続ける。
「ずいぶんと甘いことを言うじゃないか。覚悟を持って戦場に立つ者を、俺は性別なんぞで差別しない」
「……でも、刃は向けないんだね」
その言葉は責めではない。
ただ、彼の矛盾をそっと指摘するだけの柔らかさがあった。
タカシの眉が微かに動く。
たったそれだけで、彼の心の揺らぎを感じ取れた。
「今の、その気になれば刃で急所を狙えたよね。それでも君は――」
「口だけはよく回るな」
鼻で笑いながら、タカシは手を軽くかざす。
瞬間、炎が一斉に噴き上がった。
熱風が髪をなびかせ、焼けた匂いが鼻を刺す。
「御託はいい。俺はお前を――殺す」
「はいはい。強い言葉を使わないでよ。……弱く見えるよ?」
炎の隙間をすり抜けるように、アイリスは身体を滑らせる。
熱など意に介さぬように軽やかに、だが視線は鋭く、タカシの手元を捉えていた。
(迷宮で手に入れた紅剣アヴァロンを使ってない。こっちで新しい刀を手に入れる機会もあっただろうけど、それもなし。タカシが握っているのは、ミティお手製の紅剣ドレッドルート)
剣を握る指の癖。
力の入れ方。
それは、かつて共に旅をした頃とまったく同じだった。
(本気で殺したいなら、刃で迷いなく斬る)
頬を打った衝撃を思い返す。
そこにあったのはただの暴力ではなかった。
強く打たれたはずなのに、鋭さがなかった。
どこかで「傷を残さないように」という、奇妙な優しさがにじんでいた。
意識せずに滲み出たそれを、アイリスは見逃さない。
「タカシ……」
「足を止めるなよ」
その声が合図だったかのように、床を這っていた炎の術式が崩壊を始める。
赤く燃え盛っていた床板が、音もなく沈み、焼け焦げた木片が四散した。
足場は、地に落ちる寸前の橋のように脆く、不安定な炎の海へと変貌していく。
「……わかった。じゃあ、こっちも本気を出させてもらうね」
「本気……だと? 今までは全力ではなかったと?」
「戦えばわかるよ」
タカシは成長系チートによって各種のスキルを伸ばしている。
剣術、魔法、身体能力――すべてが高水準でまとまった、正真正銘の「一流」。
だが、”観察眼”という点において、アイリスはタカシを上回る。
アイリスは一歩前に出ると、大きく腰をひねった。
同時に視線を右に流し、足をわざと重く踏み込む。
誰がどう見ても、右の回し蹴りが来る――そう思わせる動きだった。
「次は右……か。見え見えだ」
タカシの目が細められ、一歩踏み込む。
迷いのない動きだった。
だが、その瞬間――
「――釣れた」
予測を裏切る動きだった。
飛び出したのは、タカシが見切ったはずの「右の回し蹴り」ではない。
逆方向から振るわれた、鋭い肘打ち。
その軌道は死角から滑り込み、タカシの懐へと躊躇なく突き立つ。
「……っ!?」
唐突な変化に、タカシの表情がわずかに揺れる。
だが、アイリスの動きは止まらない。
彼女はすかさず前腕を絡め、滑り込んだ彼の腕を封じる。
まるで身体をすり替えるように、半身を素早く入れ替えた。
タカシの「読み」そのものを利用し、裏をかいた投げ。
無駄な力などひとつもない。
重心を流し込みながら、アイリスの体が刃の根本――柄の部分に力をかけた。
「ぬ……!」
低く漏れた声とともに、紅剣ドレッドルートがタカシの手から滑り落ちる。
鋭い音を立てて床板を削り、火の粉を巻きながら転がっていった。
やがて紅剣は、燃え残る炎の縁に引っかかり、ぴたりと静止する。
「タカシは何でもできるけど……主軸は火魔法と剣術だよね」
アイリスは数歩下がりながら、手の指を軽く鳴らした。
その仕草に宿るのは、慢心ではなく、冷静な分析に裏打ちされた自信。
戦況の潮目が、確かにこちらに傾いた――そんな確信が彼女の背筋を伸ばしていた。
「紅剣ドレッドルートを握ったタカシは、ミティが信じた”理想の形”。その剣を外した今は――戦力半減」
淡々と告げる言葉の裏には、切り裂くような鋭さがある。
かつて共に冒険した彼女だからこそ言える、核心。
タカシはしばしの沈黙の後、口元をわずかに歪めた。
「ふ……嬲り殺しじゃ済まさないぞ、女ぁ」
その声は低く、獣のように濁っていた。
歪んだ笑みの奥では、なお折れぬ闘志が黒い炎となって燃え盛っている。
炎の光を背にしたその横顔は、もはや人のものとは思えない残酷な仮面で――それでも、アイリスは一歩も退かなかった。




