1813話 雷穿十文字
先に空気を裂いたのは、桔梗の視線だった。
瞳の色が淡く濃く揺れ、床・壁・天井へと順々に滑っていく。
そこに刻んでおいた、自分だけの”牙”を一つずつ起こしていく。
「……【紫苑刻印】」
囁きと同時に、床板の木目が逆立った。
見えない刃がドラちゃんの足首を斜めに舐め、薄く赤い筋を描く。
続いて壁の飾り彫りが裂け、紫の光を帯びた杭が横合いから打ち出された。
「わ、わっ、わっ!? また来た!」
ドラちゃんは半歩ごとに跳び、ひねり、転がる。
だが人化した身体では、どうしても一瞬、反応が遅れる。
袖が裂け、肩口に焼けるような痛み。
血がにじむよりも早く、その傷は白い熱を立てて塞がっていくが――。
「……回復が早くても、痛みは残る。じわじわ削れば、いつか膝は折れる……」
桔梗は淡々と観察する。
息は乱さない。
指先で廊下の柱を軽く叩くと、今度は上の梁に仕込んでおいた刻印が応えた。
天井板の隙間から針のような闘気が雨になって降る。
「きゃっ!? ずる……っ、いたっ!!」
肩をかすめた一本が、皮膚を抉る。
反射的に顔をしかめた瞬間、足元がきしんだ。
床板そのものが牙をむいたように盛り上がり、バランスを奪う。
踏ん張りきれず、片膝が床を叩いた。
「……ふう。やっと、片膝……」
桔梗の胸の奥で、張り詰めていた緊張がわずかに緩む。
しかし表情は変えない。
鞘に添えた手に、静かに力を籠める。
「ず、ずるいずるい! 仕掛け、いっぱい使ってる! そっちだけずるいよ!!」
ドラちゃんが情けない声を上げる。
意味は通じない。
それでも桔梗には、その口調と視線だけでおぼろげに伝わった。
「……言いたいことはわかる。でも、理は通らない。敵の本拠地に攻め入るっていうのは、相手の土俵で戦うということ……」
静かに立ち上がり、ドラちゃんとの距離を一歩だけ詰める。
ここまで罠と刻印で削り、動きを鈍らせた。
あとは、自分の刃で終わらせるだけ。
「そろそろ……決める……」
ふっと息を吐き、腰の刀へ指を滑らせる。
鞘鳴りが、細く廊下に響いた。
その瞬間――。
「――【雷穿十文字】」
聞き慣れない声と共に、廊下が白光に飲み込まれた。
四方から奔った雷が、桔梗を中心に十字を描く。
床から、壁から、天井から。
紫の刻印を上書きするように、青白い稲妻が一斉に噴き上がった。
「……っ!?」
避ける暇もない。
桔梗の体を、十字に走る衝撃が貫いた。
闘気で補強していた骨格がきしみ、筋肉が焼けるように縮む。
致命傷ではない。
だが、全身の神経が一瞬、言うことをきかなくなった。
膝がふらりと揺れる。
「い、今のは……雷……? 雷轟さんの雷妖術とは、比べ物にならないほどの威力……!!」
桔梗は歯を食いしばりながら、かろうじて踏み止まる。
桜花七侍の一人、雷轟。
彼も雷妖術を使える。
だが、あくまで本分は剣士であるため、その出力は微妙だ。
「くっ……!」
刀を抜こうとした指先に、力が入らない。
痺れが、細い指の一本一本を縛りつけていた。
「や、やった! 今のうちに……」
ドラちゃんが嬉しそうに声を弾ませる。
ぐらついていた体勢を立て直し、ぴょんと後ろに跳ぶ。
そして、雷の匂いのする方へと振り向いた。
「モニカ!」
廊下の陰から現れたのは、一匹の兎――のように見えた。
しかしすぐに、それが二本足で立つ”兎獣人”だとわかる。
白い耳が雷光を帯び、毛並みには細い電流が踊っていた。
「ドラちゃん、こんなところで奇遇だね」
兎獣人の少女――モニカが、片手を軽く挙げてみせる。
その身体の周囲には、まだ雷の余韻がぱちぱちと揺れていた。
どこか雷神が地に降り立ったような、神々しさが感じられる。
「ユナといっしょに来たの? 気配を感じるけど」
「ひさしぶり! げんきそうだね!」
モニカの言葉を受け、ドラちゃんが全力の笑顔で答える。
言語はサザリアナ王国のもの。
だが、会話がイマイチ成り立っていない。
「……ま、言葉はまだ勉強中だよね」
モニカは苦笑いを浮かる。
ドラちゃんはサザリアナ王国の言語をカタコト程度に話せる。
落ち着いた場所であれば、ジェスチャーも交えて簡単な意思疎通が可能だ。
しかし、戦闘中に細かい意思を共有することは、まだ難しい。
「さて、と……」
モニカは視線だけを桔梗へと向けた。
雷に焼かれた刻印が、壁や床で煙を上げている。
「……新たな侵入者」
痺れる脚で踏ん張りながら、桔梗がモニカを睨む。
刀の柄を握る手はまだ震えている。
それでも、その瞳はまっすぐに敵を射抜いていた。
「……ここは桜花城。軽い気持ちで入っていい場所じゃない。すぐに立ち去るなら、見逃してあげる……」
細く息を絞った声音には、揺るぎない覚悟があった。
この場を守る者としての誇り。
そして――高志への想い。
「悪いけど、仲間を見捨てることはできないよ」
モニカの耳がぴんと立つ。
雷の余波が床を舐め、薄く火花を散らした。
「漢闘地方から来たばかりで、まだ状況を掴めてないんだけど……。アイリスやミティが戦っている気配も感じる。攻め入る理由があったってことだよね」
モニカは自分に言い聞かせるように呟く。
そして、再び桔梗を見据えた。
「まずは他の仲間と合流したいんだ。ここは、一時的にだけでも見逃してくれないかな?」
「……不可」
桔梗は、震えをごまかすように一度まぶたを閉じた。
再び開いた瞳は、先ほどよりも冷たい。




