1812話 ドラちゃん vs 桔梗
桜花城、三階。
「……この城にタカシがいるかも、なんだよね」
喉の奥で転がした声が、壁に淡く響く。
廊下の角を曲がるたび、ドラゴンの巨体が梁ぎりぎりに擦れた。
鼻先をくすぐるのは血と香と、微かに漂う”知った匂い”。
「タカシの匂い……ちょっと、する。うん、きっと近い」
だが、すぐに足を止めざるを得なかった。
先には、曲がりくねった回廊。
低い天井と細い柱列。
このまま進めば、尾が壁を砕き、翼が梁を折るのは目に見えている。
「うーん……」
大きく息を吐き、ドラちゃんは目を細めた。
城を灰にすることは容易い。
だが、それはあまりにも乱暴すぎる。
「じゃあ、こっちの姿でがんばろう」
瞳が細くなり、長い尾がほどけるように消えていく。
鱗が光の粒になって舞い上がり、四肢がぎゅっと縮む。
次の瞬間、そこには一人の少女が立っていた。
「【人化】――上手くなってきたよね」
外見年齢十五ほどの少女――ドラちゃんは、ぱたぱたと腕を振った。
重さが違う。
爪は柔らかくなり、牙も隠れている。
それでも、この身の奥には、山ひとつ焼くに足る炎が息づいていた。
「タカシ、この姿も好きって言ってくれてた。えへへ……。他の人間と会っても、きっと仲良くなれるよね」
言葉はサザリアナ王国で使用されているもの。
大和に馴染まない響きが、かすかに跳ねて消える。
廊下の先に気配を感じても、彼女は笑顔で歩み出た。
「……止まりなさい」
冷えた声が、前方から飛んできた。
灯籠の影から、ひとりの少女――桔梗が姿を現す。
髪を低く結い、細い指で鞘を押さえたまま、瞳がまっすぐにドラちゃんを射抜いた。
「……あなたは何者? 尋常ではない気配……」
「あ、人間だ。えっと……こんにちは! 私はドラちゃん! 友だちになろう!」
ぱっと両手を広げ、精一杯の笑顔で名乗る。
だが、桔梗の眉が僅かに寄っただけだった。
「……何を言っているのかわからない。人間に化けた狸……? あるいは、もっと高位の物怪……? よく見ると、翼とかあるし……」
「うん?」
首をかしげ合う二人。
その間に流れる沈黙だけが、互いの言葉の断絶を雄弁に物語っていた。
ドラちゃんの耳には、桔梗の言葉がまるで別の歌のようにしか聞こえない。
一方で桔梗には、ドラちゃんの軽い挨拶が意味の読めない呪文にしか聞こえなかった。
だが、言葉が届かなくとも、気配はごまかせない。
(……脅威)
桔梗の背筋を、冷たいものが走る。
視線を合わせただけで、肺がわずかに重くなった。
この少女の身体の奥――何か巨大なものが渦巻いている。
「……でも、地の利は私にある……」
小さく息を絞り、足を半歩ずらす。
ここは三階の廊下。
四階で待機していた桔梗が、強大な気配を感じて降りてきた場所。
ここは、普段から桔梗が任されている防衛線のひとつ。
床板の下、梁の上、壁の隙間。
見えない場所に、彼女はすでに自分の闘気を”刺して”ある。
(……それに、私には高志くんからもらった加護がある。強大な力を持つ物怪が相手でも……ここなら押しきれる)
胸元の紐に指を触れ、短く祈るように目を伏せた。
ドラちゃんの方は、そんな気配の操作など気にも留めず、笑顔のまま一歩近づく。
「ねぇねぇ。タカシ、知らない? タ・カ・シ。こう、優しくて、おいしいもの、くれる……」
身振り手振りを添えて、一生懸命に伝えようとするドラちゃん。
言葉は通じない。
しかし桔梗には、その名前だけが妙にくっきりと耳に届いた。
「……高志くん?」
その瞬間、廊下の空気がぴんと張りつめた。
桔梗の表情に、初めて明確な感情がよぎる。
それは警戒と、嫉妬と、守護者としての本能がごちゃまぜになった色だった。
「……あなたも、高志くんを好き勝手にしようとしているの……?」
足元の影が揺れる。
次の瞬間、ドラちゃんの足裏に、ぴりっとした痛みが走った。
「いたっ?」
床板が、咬んだ。
正確には、床板から噴き上がった見えない刃――桔梗の闘気が、ドラちゃんの足首を斜めに切り裂いたのだ。
「――【紫苑刻印・楼閣繚斬】(しおんこくいん・おうかくりょうざん)」
ほとんど抑揚のない声でそう宣言すると同時に、次の闘気が壁から飛び出す。
紫色の線が一瞬だけ視界を横切り、ドラちゃんの頬をかすめた。
「うわっ!?」
身をひねってかわしたものの、薄く血が滲む。
人間の身体では致命になりかねない切り口。
しかし、その血はすぐに蒸気となって消えた。
「……やっぱり。普通じゃ、ない……」
桔梗の目が細くなる。
自分の”仕込み”は、城内のあらゆる場所にある。
常日頃から侵入者に備え、自身の闘気を刻み付けてきたのだ。
今、ドラちゃんが立っている場所は、その中でも最も濃く網を張った区画。
「……ここを通すわけにはいかない」
桔梗が一歩踏み込む。
足音はほとんど響かない。
代わりに、天井から針のような闘気が降り注いだ。
ドラちゃんは直感で身を沈め、くるりと前転する。
尾があれば軽く薙ぎ払えたそれは、今の人間の身体には少し忙しい。
「わー、仕掛けがいっぱい! すごい! すごいけど……」
床から、壁から、天井から。
桔梗が指を弾くたび、見えない刃や杭が飛び出してくる。
それらはすべて、事前に染み込ませておいた彼女自身の闘気。
高志から受けた加護によって鋭さと質量を増し、城という器を通して増幅されている。
「そろそろ、ちょっとだけ――本気を出そうかな」
「……意味は、わからない。でも、通さない」
桔梗が構えを低くし、腰の刀にそっと手をかける。
闘気の罠だけでは足りない。
次は、自身の刃で――。
ドラちゃんは逆に、一歩前へ。
裸足が石畳を掴み、膝が柔らかくしなる。
人間の柔らかさと竜の存在感を併せ持つ、独特の姿勢。
狭い廊下で、二人の間合いが詰まっていく――。




