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1810話 儀式の最終段階

 天守閣。

 風が細く鳴り、灯芯が小さく縮む。


 火御子は扇を立て、朱の唇で古詞を結んだ。

 その声は焔のように艶やかで、部屋の隅々まで染み込んでいく。

 ひとたび声が漏れれば、静寂は呼吸を止め、空気そのものが祈りに変わる。


 円環の紋がわずかに光を深め、中央に立つタカシの影が床へ濃く沈む。

 沈黙の底で、蝋の匂いと血のような香が入り混じった。

 その香は甘くも重く、魂を酔わせる。


「ふふふ……。もう少しじゃ。もう少しで、坊やは完全にわらわのものとなる」


 火御子の声音は囁きにも似て、しかし確かな熱を孕んでいた。

 瞳が細められると、瞳孔の奥で紅蓮がゆらめく。

 その微笑は甘くも毒を含んでいる。

 愛の言葉と呪詛の境が溶け合っているかのようだった。


「…………」


 タカシは応えない。

 頬の筋がぴくりと震え、喉仏が上下した。

 瞳の奥に乾いた赤が鈍く灯る。

 それはまるで、奥底で何かが焼け焦げていく音を隠しているようだった。


「それにしても、千の働きが見事なようじゃの。時間稼ぎの褒美に、坊やからの寵愛を少しばかり分け与えてやらねばならんか」


 火御子は愉しげに笑い、扇の先で空気をなぞった。

 その動きだけで、周囲の炎が呼応するように小さく跳ねた。

 朱の光が天井を這い、壁に映る影がゆっくりと蠢く。

 その蠢きは、あたかも無数の魂が息をしているかのようだった。


「…………千?」


 掠れた声が、やっとのことで漏れる。

 タカシの唇は震えていた。

 名を呼ぶその瞬間、どこか懐かしい痛みが胸を刺す。


「おお、坊や! 言葉を発したのは久方ぶりじゃの。儀式が進み、五尾が完全に定着しつつある影響かの?」


 火御子は喜悦を隠さず、足元の陣に影を落とす。

 その笑みは、慈母のようでもあり、炎の獣のようでもあった。

 指先をひと振りするたび、空気が軋み、見えぬ糸が張り詰める。

 その糸の先には、タカシの魂が確かに縫い止められている。


「……千とは、誰だ」


 タカシの言葉に、火御子は面を傾げる。

 まるで面の裏から感情が漏れ出すように、その動作はゆるやかでいて不気味だった。

 扇の骨がわずかに鳴り、朱の糸が光を撫でる。

 光の残滓が宙に細くたゆたい、瞬きの間に消えてゆく。

 炎の影が彼女の頬を舐め、揺らめいた。


「ぬ、記憶が曖昧なのか? 千はわらわの配下じゃ。サザリアナ王国で、そなたと剣を交えた女よ」


「サザリアナ……? 剣を交えた女……」


 タカシの眉間に皺が寄り、記憶の断片が痛みのように浮かぶ。

 古代遺跡。

 森。

 海。

 自室。


 ――いた。

 敵ながらもどこかお互いを憎からず思っていた日々。

 打ち合う刃の火花と、冷たく澄んだ眼差し。

 不器用に甘える目。

 共に歩いた帰り道。


 だがそれは、すでに遠く、幻のように輪郭を失っていく。

 まるで思い出すほどに熱が消えていく夢の残像。


「何、心配せずともよい。今は味方じゃ。とっておきの“千秋楽”で時間を繋いでおる」


 火御子の声が、妙に柔らかく響く。

 その音は子守歌のように響くが、眠りの先に待つのは安らぎではない。

 それは母のような慈しみに似ていながら、どこか底知れぬものだった。

 優しさという衣をまといながら、中に潜むのは炎の獣――喰らい尽くす欲望。


「千……秋楽……? ぐっ……!!」


 タカシの指がこめかみに走り、膝が半歩落ちる。

 脳裏を灼くような痛みが走る。

 胸腔の奥で火が反転するような軋みが生じ、息が荒れた。


 呼吸のたびに内側から皮膚が裏返る。

 喉の奥から、低く、獣の唸りにも似た音が漏れる。

 その背に、揺らめく影が尾のように伸びた。

 それは彼の意志ではなく、彼の中の“何か”の荒ぶりだった。


「おっと、最終仕上げの前に気が緩んでしもうたの。話は終わりじゃ」


 火御子は地に扇を置き、両掌を輪の外へ広げた。

 その所作には、もはやためらいも慈悲もなかった。

 朱の火が円の縁を滑り、梵字の窪みにすべて吸い込まれてゆく。


 吸い込まれた火は沈黙の中で脈動し、陣そのものが生きているようだった。

 炎が走るたびに、天守の柱が低く唸り、空気がひと息ごとに焦げていった。

 全てが、炎の意思に飲まれていく。


「待て……。俺は……俺は……」


 かすれた声が、祈りと呪いの狭間で震える。

 己の輪郭をつなぎとめるように、声が喉から絞り出される。

 だがその言葉を飲み込むように、火御子の瞳が燃え上がった。


「案ずるな。五尾が完全に馴染めば、心も波立たぬ。痛みも、迷いも、すべて炎が呑み込んでくれる」


 火が激しく燃え上がり、天井の梁が低く唸る。

 朱の火羽は空気を裂き、静寂の中に熱を刻み込んだ。

 タカシの背後にある尻尾が、ゆらゆらと揺れる。

 その動きは、生まれたての獣のようにも、封じられた神性の胎動にも見えた。


 やがて、瞼の奥で赤が瞬く。

 熱が視界を満たし、周囲の音すら遠のいていく。

 タカシの影は濃く縁取りされ、口元の線が僅かに鋭くなった。

 ――そして、火御子が微笑む。


「よい。ようやく”本当の坊や”が顔を出したのぅ」


 天守の灯がひとつ、ぱちりと弾けて消えた。

 闇の中、最後に浮かんだタカシの横顔は――確かに、邪悪だった。

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