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1806話 千秋楽

 桜花城の石垣は、夜気の湿りをまとい、灯の朱がかすかに滲んでいた。

 月の光は雲に覆われ、夜闇はより深く、ひときわ重たく感じられる。

 湿った風が城壁を撫で、石と苔の間をすり抜けるように流れていく。


 主郭の門は半ば開かれ、常ならぬ風景がそこにあった。

 門前には、いくつもの影が倒れている。

 彼らの甲冑はひしゃげ、刀は手元から落ち、無惨に踏み砕かれている。

 それはただの敗北ではない。

 誇りを持ってこの城を守っていた者たちが、圧倒的な実力差によって蹂躙されたという、確かな痕跡だった。


「……で、これが桜花城ですか」


 重苦しい沈黙の中に、ひとつ、少女の声が落ちた。

 言葉は軽やかに聞こえたが、その奥にある感情は複雑だった。


「思ったより守りが手薄だったわね」


 別の声が続いた。

 戦闘の余韻が残る立ち姿には疲労が滲んでいるが、目の奥には疑念と警戒が浮かんでいた。


「主戦力が出払っているのかもしれませんわ」


 また別の声が柔らかく答えた。

 その声音はどこか遠く、考えを巡らせている様子だった。


 ミティ、ユナ、リーゼロッテ。

 桜花方面に落ち延びた彼女たちは、しばらく静養して機をうかがう――ことはしなかった。

 彼女たちは、選んだのだ。

 疲弊を押してでも、再び攻め入ることを。

 それは執念だった。

 あるいは、祈りに近い感情でもあった。


「タカシ様がこちらに拠点を移されたという情報がありました。あれは、誘導だったのでしょうか?」


 ミティが低く問いかける。

 その声には、焦燥と、ほんのわずかな怒りが混じっていた。

 彼女の視線は、暗がりの向こうを彷徨っている。

 何かを探すように。

 何かを確かめるように。


「”火御子”とかいう女も、一向に出てこないわね。拘束できたのは、前藩主の“景春”だけ」


 ユナが吐き捨てるように言う。

 手にした縄の先には、赤い着物を纏った少女の姿。

 かなりの手練であり、特に防御能力は厄介だった。

 正面からの戦いであれば、捕縛は叶わなかっただろう。


 雑兵たちを手早く片付けて三対一に持ち込めたこともあり、こうして無力化できた。

 だが、それは本当に勝利と呼べるものだったのか。

 疑念が生まれつつあった。


「ひょっとして、私たちはまんまと騙され――」


「騙してなどいませんわよ」


 その声は、背後から不意に届いた。

 香の尾のように、甘く、それでいて冷たく、肌を撫でる。

 三人が一斉に振り向いた先、廊の柱影から一人の女が音もなく現れた。


 女の歩みは静かで、無駄がなかった。

 艶やかな瞳孔は、灯を受けても深く沈んだまま。

 その眼差しは、どこか他人事のように冷ややかだった。


「あなたは……“千”。先行したベアトリクス王女たちの案内役だったはず……。こんなところで何を?」


 ミティの声には、抑えきれない驚きと戸惑いがあった。

 かつて味方だったはずの者が、ここで現れるという現実。

 受け入れがたいものだった。


「その役目は果たしましたわ。元より、わたくしは女王派閥。今は元の勢力下で働いているだけ。別に、おかしなことではないでしょう?」


 千は微笑すら浮かべずに答える。

 その語り口は滑らかで、まるで何も問題がないと言わんばかりだった。


「……まぁ、理屈は通りますけど」


 ミティは顰め、景春の腕縄を引いた。

 女藩主は口を固く結び、視線だけで城奥を示す。

 彼女の目は、何かを訴えるように揺れていた。

 そこに待つのは罠か、それとも空虚か。


「血統妖術“散り桜”……。異国の火魔法に水魔法、そして圧倒的なパワーを無力化するには、分析時間が足りなかったようですわね」


 千が冷静に戦局を分析する。

 景春の妖術は、一定以下の攻撃を無効化する。

 ”足切り性能”が非常に高い能力だが、その防御を突破できる相手に対しては脆い。

 別系統のズバ抜けた攻撃力を持つ三者が相手なら、対応に手間取ることは必至。

 敗北も致し方なしと言えるだろう。


「戦場に言い訳は通じません。前藩主を無力化した今、残る主戦力は火御子ぐらいのはず」


 ミティが即座に返す。

 その声には揺らぎがなかった。


「あいにく、火御子様とタカシさんは、どうしても外せない用事がありまして」


 千の言葉に、ユナが眉をひそめた。

 その表情には皮肉と苛立ちが浮かんでいる。


「外せない用事? この状況で、悠長なことね」


「しかし、こちらにとっては良いことです。桜花城を攻め落とすには、やはり今が好機!」


 ミティが一歩で間合いを詰める。

 迷いがなかった。

 畳が沈むほどの踏み込み。

 だが、千の踵は舞うように引き、袖口からキセルを取り出した。


「起動しなさい」


 ぶぉおおお!

 低く、囁くような音。

 続けて、不吉な風が吹いたような、機械が唸るような音が鳴った。


 主殿の襖が左右へ裂け、影が立ち上がる。

 数メートルはあろうかという巨体。

 漆黒の胴、丸い肩、節くれだった腕。

 額には行司の房を模した垂飾が揺れ、胸には”千秋楽”の三文字。

 歯車の息が一度鳴り、鉄の巨体が腰を落とした。


「それは……?」


「相撲ロボ試作一号、“千秋楽”――ごっつぁんですわ!」


 千がロボに乗り込む。

 その所作は滑らかで、既に慣れきっている様子だった。

 操縦席に収まるや否や、鉄の巨体が手刀を切る。

 床が震え、柱が鳴いた――。

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