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1804話 火御子とタカシ

「……ふむ、ようやく四神連合が降伏しよったか」


 障子の骨が、わずかに、しかし確かにきしんだ。

 その微かな音が、静謐な空間に不釣り合いなほど鋭く響く。

 まるで、長きにわたり張り詰めていた緊張の糸が、ようやく緩んだことを告げるかのように。


 火御子の笑みは、一見すると穏やかで、むしろ柔らかさすら感じさせた。

 だが、その唇の奥に灯る紅の瞳は、まるで氷の中で燃えさかる焔の芯のよう。

 じりじりと揺れながらも、一点の曇りもなく、冷ややかに何かを射抜いている。 

 そこにあるのは情熱ではない。

 静かで、凶暴で、そして断じた意志の光だった。


 神威成功体――「しぃ」と「くぅ」が投下されてから、数日。

 ほんの数日の出来事だった。

 しかし、それだけで敵は膝を屈し、降伏に至った。

 これで、九龍、四神、重郷、近麗……かつては独立を保っていた諸勢力が、すべて“双将”の手に落ちたことになる。


「坊や、良かったのう。わらわたちの支配はさらに盤石になったのじゃ」


 火御子は、まるで子に語りかけるような口調で言う。

 その声音には甘さがあったが、それが慈愛かどうかは定かでない。

 言葉をかけられた黒髪の青年――タカシは、沈黙を保ったままだった。

 

 彼の瞳は、まるで深山に湧く清流のように澄んでいる。

 その澄んだ眼差しの奥には、感情の揺らぎがない。

 冷たくもなければ、暖かくもない。

 怒りも悲しみも、微笑みさえも存在しない。

 穏やかでもなく、落ち着いてもいない。


「…………」


 ただ、空虚。

 まるで、世界と自分の間に分厚い硝子の壁があるような距離感。

 風の止んだ湖面のように、微動だにせぬその心象は、ある意味で不気味なほど静かだった。


 彼は、ただ座っていた。

 まるで、自らの意志ではなく、命じられたからそこにいるかのように。

 あるいは、自分という存在がすでに何かに預けられているかのように。

 それは人間というよりも、ただ「在る」だけの存在。


「……む? しかし、敵の主戦力が桜花方面へ逃げた形跡があるじゃと?」


 その声音は、まるで霞に包まれた刀のように、柔らかく、それでいて鋭さを秘めていた。

 火御子の白い指先が、手にしていた扇をふわりと返す。

 風すらためらうような静謐の中で、その動作だけがひときわ鮮やかだった。


 彼女の扇の先が、地図の東を指す。

 その紙の上には、幾重にも折り重なった山脈が線として描かれていた。

 山の線に扇の影が重なった瞬間、障子越しの夕陽が、その影を仄かに朱に染め上げた。


「ま、ちょうど良いか」


 ぽつりと零れたその言葉には、重みも緊張もなかった。

 言葉の温度は、冷たくも熱くもない。

 まるで水面に落ちた雫のように、誰の心にも波紋を残さない静けさ。


 それは、誰かに向けた発言というよりは、己の中に湧いた思考の欠片。

 言葉にしておかなければ形にならない独白。

 あるいは、自身の支配欲を咀嚼するような呟き。


「桜花より西部は、わらわたちの支配下になったのじゃ。神々の協力も取り付けた。紅蓮竜も従わせた。ならば――これから東部を睨むにあたり、拠点を移すのも良かろう」


 その声音には、未来を語る者の確信が宿っていた。

 だが、その確信の底にあるのは、希望ではなかった。

 次なる戦への飽くなき欲望――戦意、そして支配欲。


 タカシは、それでもなお答えない。

 その表情に、言葉に応じる意思は見られなかった。

 ただ静かに、無言のまま首を傾け、火御子の言葉が届く範囲に身を置き続けている。

 まるで、そこに存在すること自体が、彼に課せられた義務であるかのように。


 彼の姿は、まるで命令を待つ人形のよう。

 硬直した背筋。

 焦点の合わないその眼差し。

 けれど、肩口から覗いた黒髪が、室内にともる灯の赤に染まるその一瞬だけが、彼が今も“生きて”いることを証明していた。


「…………」


 ふいに、タカシが動いた。

 その瞬間には、前触れも兆しもなかった。

 ただ静かに、滑らかに立ち上がった。

 動きに迷いはないが、そこに意志を感じ取ることも難しい。


「……また書物を読みに行くのか? 勉強熱心じゃのう」


 火御子の声音には、わずかに愉悦の響きが混じっていた。

 振り返らぬ青年の背に向けて放たれたその言葉は、どこか戯れるような軽やかさを持っていた。


 だが、それに対する返事はない。

 タカシは一言も発さず、そのまま背を向けたまま、ゆっくりと歩みを進める。

 一歩、また一歩。

 足音さえ、沈黙に溶けていった。


 火御子は小さく息を吐き、ゆるやかに上体を起こす。

 その動作もまた、長く続いた対話の終わりを告げる儀式のように静かだった。


「まぁよい。この紫雲藩を旅立つ前に、好きなだけ読んでおくが良い」


 城の外では、遠い空に戦の煙が細く棚引いている。

 塗り替えられた勢力図は乾ききらず、支配者たちは次の方針を探っている。

 ページの端を湿らすような微かな風が、廊の隅で旗を鳴らした。


 タカシは黙って進む。

 手が取手に触れる瞬間、薄い影が床をわずかに切り分けた。

 世界は静かに継ぎ目を変える。

 彼の歩幅に合わせて、時代もまた一行だけ進んだ。

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