1800話 赫刃と蒼渦
四神戦線。
砂煙が薄れた時、まず聞こえたのは水の滴る音だった。
辺りには焼けた草木と焦げた土の匂いがまだ残り、空気は熱と冷気が混ざった不穏な重さを帯びている。
朱の熱に煮立っていた幕が割れ、そこにひざをつく影が見えた。
流華だ。
黒髪が額に貼りつき、肩は荒く上下している。
「……くっ。まだ……だぜ」
声は震えていたが、そこにあるのは諦めではなく、何かを振り絞る固い意志だった。
歯を食いしばる音と、痛みをやり過ごす息遣いが微かに聞こえる。
その前で、ユナは指先に残る熱を払うようにひと息ついた。
朱の光がまつ毛に揺れ、唇の端がほんの少しだけ吊り上がる。
微笑というより、挑発にも似た余裕だった。
「いい根性ね。でも、それだけじゃ私の火力は抑えきれないわ」
「あんたの強さは認める……。けど、次は――」
「次は無い。迂闊に動けば、肺まで焦げるわよ」
「……っ!」
流華がふらつく。
タカシによって強化された忍術スキル。
しかしその忍法と足さばきは、ユナに見切られていた。
もう通じない。
他方では、黒鞘が泥に沈んでいた。
桔梗の手はわずかに震え、左脇腹に氷の刺が刺さったような痺れが残る。
リーゼロッテの薄氷は肌に優しいなどと笑っていたが、実際は骨の節だけを冷やして刀の軌を遅らせた。
「……負け、ではない……まだ……」
「かわいらしい抵抗ですこと。でも、ここまでですわ。鋭いだけの剣筋では、わたくしの水と氷は捉えきれません」
リーゼロッテは結晶の息をひとつだけ吹き、桔梗の足元に滑る氷を差し入れた。
それはまるで舞う羽のように軽やかで、それでいて剣のように鋭い。
氷が地を撫で、桔梗の足元を奪う。
膝が折れ、地面に切っ先がこすれた。
三つの戦いで最も激しかったのは、ミティと紅葉の衝突だった。
剛腕による一撃は土ごと周囲を吹き飛ばす。
紅葉は植物妖術でかろうじて防ぎ、その度に根を断たれていた。
「はぁ……はぁ……! 高志様のため……負けるわけには……!!」
「その思い、少しは認めてあげましょう。しかし、体は正直です。動きが鈍くなっていますよ」
ミティは柄頭で紅葉の胸元を突く。
その突きは小さく、だが的確で、体内の拍を半拍だけ狂わせる。
すかさず蔓が逆襲するが、槌の柄が蛇の頭を叩き落とすように正確に潰した。
「ふふ……。今の隙があれば、私を叩き潰すこともできたでしょうに。ずいぶんと甘いのですね。それとも、”おばさん”の体力では、もう力が入らないのですか?」
「強がりは結構。お望みなら、容赦なく戦闘不能にして差し上げます」
「――っ!!」
紅葉が身構える。
次の瞬間、槌は地を打たなかった。
ミティの左足が半歩だけ送られ、柄の途中で突きが出た。
紅葉の脇腹に鈍い音。
体がくの字に折れて、その場に崩れかける。
「っ……!」
蔓が本能で跳ね、紅葉の身体を抱え上げる。
しかし支えきれず、彼女は片膝をついた。
尾の幻影が一瞬だけ揺れて消える。
戦場が静まり返る。
兵たちの小さなざわめきは、やがて震えになった。
恐怖が列を渡るとき、鎧の隙間が冷えていくのがはっきり分かる。
「ば、馬鹿な……。あの桜刃三戦姫が……」
「嘘だ、三人とも負けるなんて……!」
「あり得ねぇ……」
呟きは恐怖の重さで沈み、互いの鎧の継ぎ目に入り込んで軋ませる。
ユナは顎を引き、流華の前に立ったまま朱の余熱を抑える。
リーゼロッテは桔梗の刀をそっと押しやり、氷を消した。
ミティは槌を肩に戻し、紅葉へ向き直る。
「素質はあるのでしょう。しかし、実戦経験がまるで足りていません」
ミティの声は静かで、砂の底に重石を置くみたいな確かさがあった。
その確かさは相手を責めるためではなく、ここで終わらせるための線引きの音だ。
「改めて言います。攻勢を中断し、兵を退かせなさい。今ならまだ、死傷者はさほど出ていません」
ミティの言葉はもはや勧告ではなく、命綱の差し出しだった。
ユナは視線だけで流華を牽制し、リーゼロッテはほんのわずかに氷を強めた。
「……不可能です」
紅葉の返答は早かった。
躊躇は、一瞬だけ喉に上がって、すぐに呑み込まれた。
「この攻勢は高志様のご命令です。『薙ぎ払ってこい』と。私たちが退けば、そのお言葉を裏切ることになります」
「その言葉を、タカシ様はあなたに向けて本当に言ったのですか?」
「はい。正確には……書状で、ですが」
ミティの眉がわずかに寄る。
眉間に落ちた影が、砂の表面に小さな谷を刻む。
ユナは舌打ちを堪え、朱の熱がまた喉奥でくすぶった。
「……やっぱり、実際に会った方が早いわね。案内しなさい」
「お断りします。高志様はお忙しい。昔の女など、連れて行く理由が――む?」
風が、ぴん、と鳴った。
その細い音に、兵列の何人かが思わず空を見上げる。
「……来る」
桔梗の指先が震え、黒鞘にわずかに触れた。
流華が歯を食いしばり、紅葉はゆっくりと半歩退く。
「来るって……また増援かしら? 何人来ても同じだと思うけど」
ユナが肩を回す。
ミティは槌の首金を撫で、リーゼロッテは氷の温度を一段下げた。
兵たちのざわめきが波頭のように高くなり、すぐさま引く。
稜線の上に、二つの影が立った。
光の向きと逆らいながら、輪郭だけがはっきりと増す。
どちらも風を切っているのに、衣はほとんど揺れない。
「肆。火の赫刃・四代目」
少し低めの、乾いた焔の音色が落ちる。
続いて、水底を撫でるような冷ややかさが重なった。
「玖。水の蒼渦・九代目」
名乗りの余韻が地面の芯まで沈み、熱と冷がぶつかって空気がわずかに鳴った。
戦の温度が変わる――。




