1794話 戦死の報
ひみこの足がさらに一歩、引かれた。
さっきまでの余裕は、もはや微塵もない。
威厳を保とうとする口元がかすかに引きつり、視線が揺れていた。
その幼い顔に浮かぶのは――初めて見る、明確な動揺。
「……なるほどの。さすがと申すべきか……。これ以上は、少々……」
ぽつりと呟いたひみこが、懐から何かを取り出した。
それは、かわら版だった。
「坊や……最近の戦の流れ、把握しておるか? おもしろい報せがいくつか入っておってな」
わざとらしいほどの軽さを含んだ口調だった。
けれど、それが彼女の内心を隠そうとしていることは明白だった。
ぱらりと紙が風を切る音が、やけに大きく響く。
「北烈地方は、竜霊岩同盟なるものが結成されておるらしいの。統一も間近じゃと聞いておる」
「ふん……」
乾いた相槌が漏れた。
北烈地方と言えば、大和連邦の中でも北の果てに位置する。
俺が治める桜花藩は中央部にあり、今は西部の重郷地方を訪れている最中。
地理的にも、政治的にも、遠い話だ。
興味は湧かない。
だがひみこは構わず続ける。
「それから漢闘地方。雷鳴のごとき速度を誇る武闘家が台頭し、荒くれ者どもを束ねつつある。大したものじゃのぉ」
無理に取り繕った明るさ。
露骨すぎる話題の転換。
だが、俺は何も言わなかった。
「……そして、これが一番の大報じゃ。こやつの活躍は、わらわも注目しておったのじゃが……」
声の調子が、わずかに変わる。
差し出された見出しが、俺の目を釘付けにした。
『六王を束ねし豪傑、”中煌の乱”にて戦死』
ああ――知ってる。
その異名は、何度も耳にした。
桜花城を拠点に今後の方針を練っているとき、頭を悩ませた存在だ。
瘴気の影響により記憶はおぼろげだが、死牙藩の白夜湖で拳を交えたこともある。
その実力は本物だった……気がする。
そうだ、彼は強かった。
ただの武人ではない。
言葉にできない威圧感。
戦い慣れた戦略眼。
そして――なにより、何者かに忠誠を捧げているその生き様は、美しかった。
「戦死か……。そりゃ、惜しいな」
俺はぽつりと呟いた。
敵ながら、その在り方には確かな敬意を抱いていた。
けれど、その程度と言えばその程度だった。
――この時までは。
「ちなみにな、これが、そやつの人相書きらしい。戦果に似合わぬ容姿をしておるぞ」
ひみこが差し出したかわら版の片隅。
それを見た瞬間――
俺の視界が、爆ぜた。
淡い緑の髪。
幼い表情。
しかしどこか凛とした瞳と、美しいくちびる。
瞬間、胸の奥を何かが貫いた。
あまりにも強く、唐突に、そして鋭く。
「っ――が……っ」
膝が軋んだ。
心臓が大きく跳ね。脳裏に形にならない熱が走る。
記憶の底に沈んでいた何かが、暴れ出す。
思い出せない。
でも、確かに知っている。
誰よりも、近くで――
「……っ! 誰だ、これ……!」
声が震える。
否、震えていたのではない。
内側から、何かが暴れ出そうとしていた。
「坊や……?」
ひみこがかすかに怯えた声を漏らす。
それでも、逃げない。
踏みとどまっている。
けれど――
俺の中で、何かが破れた。
思考ではなく、本能が先に名を叫んでいた。
「ミティ、だ……」
言葉にした瞬間、記憶が奔流のように押し寄せた。
炎に包まれた草原。
剣と槌を交わした日々。
夜の帳の中で、眠る彼女の髪に触れた指先の感触。
優しい声。
固く結んだ約束。
俺の妻――
「ミティが……死んだ……?」
その言葉を吐いた瞬間、世界が音を失った。
足元が砕ける感覚に襲われる。
地が裂け、空が軋み、虚空が俺を呑み込もうとしていた。
――崩壊。
目に映る全てがひび割れていく。
音も色も形も意味を失い、ただ白い閃光のような虚無だけが広がっていく。
心臓を握り潰されるような痛み。
吐き気と共に、何かが頭蓋の内側で弾けた。
言葉では追いつけない、説明できない。
けれど確かに、空間そのものが――俺という存在ごと引き裂かれていくのを感じた。
「高志様っ!?」
紅葉の叫びが遠く響いた。
いや、すぐ隣にいる。
それなのに、声が遠い。
視界が朱に染まる。
俺の周囲に、焔が走る。
生き物のようにうねり、軋み、悲鳴のような音を上げて、空間を焦がしていく。
「兄貴っ、落ち着けッ!」
流華の手が俺の肩を掴む。
彼の掌が焦げた。
彼はそれでも離さない。
痛みに顔を歪めながらも、必死に俺を引き戻そうとする。
「っ、離れろ……! 今の俺に近づくな……!!」
自分の声すら、焔にかき消される。
呼吸が熱い。
世界が、燃えている。
「高志くん……」
桔梗が、剣を抜こうとする――が、迷っていた。
柄に手をかけたまま、動けずにいる。
その手が、わずかに震えていた。
「な、何事じゃ……!? わらわは……わらわは悪くないはず……! ただ世間話をしただけ……」
ひみこが狼狽する。
あの女王が。
恐れを露わにして、俺から逃げようとしていた。
「ミティが……なぜ……!」
理由を聞きたいわけじゃなかった。
ただ、言葉にせずにはいられなかった。
口に出さなければ、胸の奥が張り裂けそうだった。
焔が――全てを呑み込もうとしていた。
紅葉が必死に耐火植物を操り、俺の周囲に盾を作る。
だが、それも一瞬で焼き尽くされた。
流華が水遁の術を使い、何度も冷水の奔流を送り込む。
水はすぐさま蒸発し、白い蒸気がもうもうと立ちこめた。
桔梗が剣技で風刃を放つ。
風は炎を切り裂くが――直後、炎は再び燃え上がった。
止まらない。
この炎はもう、誰にも止められない。
怒りと悲しみと、壊れかけた記憶の断片が――
灼熱の奔流となって、俺の中で爆ぜた。




