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1791話 火御子

 狐火の尾がふわりと消えた。

 熱気と灼けた空気を残したまま、屋根の上に佇んでいた九つ尾の影が、ゆっくりとその姿を変えていく。

 火の衣がほどけるように舞い、焔の波が溶けていく。

 その中から現れたのは――俺たちの予想を遥かに裏切る存在だった。


 小さな体。

 雪のように白い肌。

 淡い朱に染まった和装の裾が風に揺れ、細い足首が覗いた。

 その額には小さな焔の紋様。

 耳は尖り、金色の瞳には計り知れない深さが宿っていた。


 ――幼女。

 見た目は、まだ十歳にも満たないだろう。

 しかし、その幼い顔立ちとは裏腹に、周囲を睥睨するその立ち姿は威風に満ちていた。


「なん……だと?」


 思わず息が漏れた。

 声にならぬ驚きが、胸の奥から突き上げる。

 紅葉も、流華も、桔梗も、その異様な存在感に、一瞬だけ言葉を失う。


「子どもじゃねぇか」


 流華が目を細める。

 その視線には、ただの驚きではなく、敵意と困惑、そして警戒が入り混じっていた。

 場に漂う空気が、静かに、しかし確実に緊張を孕んでいく。

 紅葉が、その視線を逸らさぬまま静かに呟く。


「……この気配、ただの獣人ではありません。炎霊を従える“核”のようなものを感じます」


「つまり……ただの子どもじゃないってことか」


「ええ。間違いありません。ですが……高志様、あの姿、どこかで――」


「……見覚えがある」


 そうだ。

 どこかで――


「騒がしゅうてかなわぬのぉ」


 幼女は、屋根の端にそっと膝を折る。

 静かに、だが確かに。

 俺たちを見下ろす位置に身を置くその所作には、どこか神事に通じるような神聖さすら感じられた。


「神楽を妨げるとは、焔鳥どもも無粋じゃの。ようけ暴れおって」


 口調は古めかしく、だがその声色は不思議なほどに柔らかで、耳に心地よく響いた。

 まるで、時代を超えて響いてくる記憶の声のようだった。

 その言葉が自然すぎて、そして何よりも違和感がなさすぎて、俺の背筋にぞくりと粟立つ感覚が走った。


「お前……何者だ」


 俺は静かに問う。

 手の力を抜かず、いつでも動けるよう構えたまま、呼吸を整え、全神経を集中させる。

 その問いに、幼女はふっと唇の端を上げて、微笑を浮かべた。


「”ひみこ”じゃ」


「……ひみこ?」


 紅葉が息を呑んだ。

 その反応は、ただの驚きではなかった。

 まるで記憶の奥底から、何か恐ろしいものが呼び起こされたような、そんな焦りと畏れの色が瞳に浮かんでいた。

 目が見開かれたまま、紅葉の声がかすかに震える。


「……まさか、大和南部を統べる“火の御子”……?」


 その名が、夜気を切り裂くように響いた。

 場の空気がわずかに軋み、思わず息を呑む。

 だが、当の本人――“ひみこ”と名乗った幼女は、まるでそれが当然のようにうなずいた。


「然り。わらわは火の巫女にして火の御子。……おぬしたちを害する意図はない。焔鳥どもが騒ぎおったゆえ、鎮めに来てやっただけのことじゃ。どうやら出番はなかったようじゃがの」


 声は澄んでいて、そしてどこか憂いを帯びていた。

 その口調には高慢さも怒りもなかった。

 ただ、事実を述べているに過ぎないという態度。

 けれど、その静けさこそが――逆に底知れぬ力を感じさせる。


「……焔鳥は、お前が放ったんじゃないのか?」


 俺は一歩踏み出し、問いかける。

 視線を逸らすことなく、幼女――ひみこの金の瞳を見据えた。


「否。あれは、失われし火精たちの“残響”……この地の均衡が乱れ、勝手に顕現したまでよ」


 ひみこは立ち上がり、ふわりと地へ舞い降りる。

 そして、俺に歩み寄ってきた。

 距離が縮まるたび、内に秘めた火の気配が肌に染みる。

 見えない焔が、心の奥をじりじりと炙るようだった。


「高志と申したな。おぬしの中の焔……なかなかに強い。同じ火を操る者として、惹かれるものがある」


「……どういう意味だ?」


「聞きたければ、北の山に来るがよい。わらわが求める“答え”も、そこにある」


 それだけを告げると、彼女はくるりと背を向ける。

 風に翻る和装の裾が、舞のように宙を描いた。


「ちょっと待て! “答え”ってなんだ! お前は何をしにこの地に来た!」


 俺は半歩前に出る。

 だが、ひみこは振り返らなかった。

 その背に、再び炎の尾が揺らめく。

 そして次の瞬間、まるで蜃気楼のようにその姿はふっとかき消えた。

 朱の残光だけを残して。


 ……静寂が戻る。

 宮司少女たちがかろうじて続けている神楽の音だけが、静かに響いた。


「高志様、あの少女はいったい……」


 紅葉の声が震えていた。

 無理もない。

 あの幼さにして、あれほどの威圧感。

 常識の外にある存在だった。


「火妖術使いか……。兄貴と同じだが、また別方向の強さを感じたな」


 流華が桔梗の方へ視線を向ける。

 桔梗はゆっくりと首を傾げ、小さく呟いた。


「……確かに。高志くんがまっすぐで力強い炎だとすれば、火御子は……惑わす炎……」


 桔梗が呟く。

 彼女の言葉には、どこか物憂げな響きがあった。


「敵意はありませんでした。でも……」


「味方と信じるのは危険すぎる。佐京の総大将が彼女なのであれば、何かを間違いなく企んでいるはずだ」


 あの眼差し。

 無垢さと、底知れぬ計算が同居する瞳。

 あれはただの子どもではない。


 だからこそ、確かめなければならない。

 ひみこの目的は何か。

 俺たちをどうしたいのか。

 運命に抗うための答えは――

 北の山に、ある。


「……行くぞ。ひみこを追う」


 俺は皆を振り返り、拳を握った。

 火の御子が待つ北方の山へ。

 すべての“真実”が、そこにある気がした。

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