1781話 雲雀藩の山道
俺たちは雲雀藩への山道を進む。
谷へつづく細い道は獣道ほどの幅しかない。
両脇の常緑樹は鬱蒼と枝を絡ませ、頭上に昼の闇を作り出していた。
乾いた葉を踏みしだく足音が小さく鳴り、そのたびに樹冠から名も知らぬ虫の翅が震え落ちる。
汗ばむ空気の底で、遠くの沢のせせらぎだけが頼りなく響き、静けさは薄い氷膜のように張りつめていた。
その氷膜を鋭く貫いたのは――。
「ギィィィイイイイ!!」
高く、甲高い咆哮だった。
思わず首筋の汗が粟立ち、靴底が石を噛む嫌な感触が全身を硬直させる。
「……来るぞ!」
俺は一歩前に出て、足元の土を蹴る。
同時に紅葉が片手を掲げ、巻き上がる草木の精気を手に集めはじめた。
「あれは焔猿……っ! 数は――八、いえ、十体以上です!」
紅葉の声が張り詰め、周囲の空気が震える。
視界の先、岩陰から火の塊のような巨体が姿を現した。
炎を纏う毛並み、異常に発達した腕、そして真紅の双眼。
理性の影など露ほども見えない――ただ燃える衝動だけがそこにあった。
「数も多いし、正面から斬り合っても埒があかねぇな。ここは逃げるのが利口だぜ」
流華が薄眉をひそめ、腰の袋から黒い煙玉をつまみ上げようとする。
だが俺は手を伸ばしてその動きを制した。
「兄貴?」
「今回は俺が前に出る。例の『走る』スタイル、試してみるにはうってつけだろ?」
「高志様、しかし危険では――」
紅葉が懸念を口にしかける。
だが、俺は首を横に振って微笑んだ。
「大丈夫だ。既に非戦闘中の試運転は済ませている。それに、紅葉たちにも実践経験を積んでほしいしな。俺が奴らを撹乱するから、いい感じに援護してくれ」
「……はい!」
「分かったぜ、兄貴」
「……承知……」
紅葉、流華、桔梗がそれぞれの武器を握り直し、視線に決意の焔を灯す。
俺は肺に新鮮な空気を満たし、脳裏で鮮烈なイメージを走らせた。
逃げるのではなく、駆け抜ける。
敵の間隙を縫い、雷のような速度で。
「スタイル切り替え――【走る】ッ!!」
視界が一気に広がった気がした。
筋肉がしなる。
足元の大地が軽くなる。
思考が加速し、先読みが瞬時にできる。
「ほうら、こっちだ。のそのそした攻撃じゃ、俺には当たらんぞ!」
揺れる巨腕を紙一重でかわし、俺は地を滑るように進む。
焔を帯びた腕の下をくぐり、背後へ回り込んだ瞬間、熱の気流が頬をかすめる。
焼けつくような殺気が肌に迫るも、それより先に俺の脚が次の一歩を蹴り出していた。
「「ギィィィイイイイッ!!」」
焔猿たちが咆哮とともに群れをなす。
怒りの熱波が押し寄せる。
跳ねるように、流れるように、斬る。
一撃、一歩、一閃。
刃の軌道は精密に脚の腱を断ち、巨体を膝へと落とす。
倒れ込んだ個体に、後続の焔猿が反応できず衝突した。
「紅葉! その二体を頼む!」
「はいっ!」
即座に応じた紅葉が掌を翳す。
地面から蔓が爆ぜるように生え、焔猿たちを絡め取った。
その間隙、空気すらも緊張する中、桔梗が静かに前へ踏み出す。
「……斬る」
その一言は、宣告に等しかった。
彼女の刃は、音を立てずに振り下ろされる。
止水のごとく静かで、しかし圧倒的な鋭さ。
焔猿の首筋に深々と食い込み、悲鳴を上げる暇も与えずに命を絶った。
「よっと!」
今度は流華が軽やかに枝を蹴って宙へ跳び、懐から取り出した煙玉を放る。
それは高く弧を描きながら落下し、次の瞬間、白煙が爆ぜた。
煙に包まれた焔猿たちが方向を失い、咆哮とともに無駄な動きを繰り返す。
俺はその光景を確認し、次の行動へ移る。
「――このまま畳み掛けるぞ!」
滑るように地面を蹴って加速。
焔猿の横をすり抜け、間合いの死角から斬りかかる。
背中を裂いた刃が熱に焼かれる前に引かれ、血飛沫が霧のように舞う。
十体以上いた焔猿が、七体、五体と数を減らし――最後の一体が、桔梗の刃で沈黙した。
静寂が戻る。
獣の唸りはもうない。
「……ふぅ。『走る』、思ったより消耗が激しいな」
俺は膝に手をつき、荒ぶる心臓を押さえるように呼吸を整える。
紅葉が駆け寄り、慎重な手つきで俺の胸に手を当てた。
「高志様、お怪我は……。いえ、大丈夫そうですね」
「見事だったぜ、兄貴!」
流華が口笛を吹きながら歩いてくる。
額に汗を浮かべながらも、笑みは絶やしていない。
「……でも、焔猿の動き……変だった気がする……」
桔梗がぽつりと言う。
俺たちは同時に顔を見合わせた。
「そうですね。文献で読んだことがありますが、普段の焔猿にはもっと群れの秩序があるはずです。しかし今回は、考えなしに暴れているように見えました」
「何かに追われていた。食料不足で我を失っていた。あるいは、もっと特殊な事情があった……?」
俺は指を顎に当てて考える。
その時、流華が谷の向こうを指差した。
「おい、兄貴。あっちに煙が上がってる。村かもしれねぇ」
確かに、森の向こうに薄く煙がたなびいていた。
あれは、日常の営みから立ち昇る炊煙だと思われる。
「よし。焔猿について、その村で情報を集めてみよう。これから向かう紫雲藩の情勢や紅蓮竜の話も聞けるかもしれん。もちろん、休息もしよう」
そう言って俺は、焔猿の死骸を一瞥する。
その目は、死んでなお、何かを訴えているように見えた――。




