表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1812/1844

1781話 雲雀藩の山道

 俺たちは雲雀藩への山道を進む。

 谷へつづく細い道は獣道ほどの幅しかない。

 両脇の常緑樹は鬱蒼と枝を絡ませ、頭上に昼の闇を作り出していた。


 乾いた葉を踏みしだく足音が小さく鳴り、そのたびに樹冠から名も知らぬ虫の翅が震え落ちる。

 汗ばむ空気の底で、遠くの沢のせせらぎだけが頼りなく響き、静けさは薄い氷膜のように張りつめていた。

 その氷膜を鋭く貫いたのは――。


「ギィィィイイイイ!!」


 高く、甲高い咆哮だった。

 思わず首筋の汗が粟立ち、靴底が石を噛む嫌な感触が全身を硬直させる。


「……来るぞ!」


 俺は一歩前に出て、足元の土を蹴る。

 同時に紅葉が片手を掲げ、巻き上がる草木の精気を手に集めはじめた。


「あれは焔猿ほむらざる……っ! 数は――八、いえ、十体以上です!」


 紅葉の声が張り詰め、周囲の空気が震える。

 視界の先、岩陰から火の塊のような巨体が姿を現した。

 炎を纏う毛並み、異常に発達した腕、そして真紅の双眼。

 理性の影など露ほども見えない――ただ燃える衝動だけがそこにあった。


「数も多いし、正面から斬り合っても埒があかねぇな。ここは逃げるのが利口だぜ」


 流華が薄眉をひそめ、腰の袋から黒い煙玉をつまみ上げようとする。

 だが俺は手を伸ばしてその動きを制した。


「兄貴?」


「今回は俺が前に出る。例の『走る』スタイル、試してみるにはうってつけだろ?」


「高志様、しかし危険では――」


 紅葉が懸念を口にしかける。

 だが、俺は首を横に振って微笑んだ。


「大丈夫だ。既に非戦闘中の試運転は済ませている。それに、紅葉たちにも実践経験を積んでほしいしな。俺が奴らを撹乱するから、いい感じに援護してくれ」


「……はい!」


「分かったぜ、兄貴」


「……承知……」


 紅葉、流華、桔梗がそれぞれの武器を握り直し、視線に決意の焔を灯す。

 俺は肺に新鮮な空気を満たし、脳裏で鮮烈なイメージを走らせた。

 逃げるのではなく、駆け抜ける。

 敵の間隙を縫い、雷のような速度で。


「スタイル切り替え――【走る】ッ!!」


 視界が一気に広がった気がした。

 筋肉がしなる。

 足元の大地が軽くなる。

 思考が加速し、先読みが瞬時にできる。


「ほうら、こっちだ。のそのそした攻撃じゃ、俺には当たらんぞ!」


 揺れる巨腕を紙一重でかわし、俺は地を滑るように進む。

 焔を帯びた腕の下をくぐり、背後へ回り込んだ瞬間、熱の気流が頬をかすめる。

 焼けつくような殺気が肌に迫るも、それより先に俺の脚が次の一歩を蹴り出していた。


「「ギィィィイイイイッ!!」」


 焔猿たちが咆哮とともに群れをなす。

 怒りの熱波が押し寄せる。

 跳ねるように、流れるように、斬る。


 一撃、一歩、一閃。

 刃の軌道は精密に脚の腱を断ち、巨体を膝へと落とす。

 倒れ込んだ個体に、後続の焔猿が反応できず衝突した。


「紅葉! その二体を頼む!」


「はいっ!」


 即座に応じた紅葉が掌を翳す。

 地面から蔓が爆ぜるように生え、焔猿たちを絡め取った。

 その間隙、空気すらも緊張する中、桔梗が静かに前へ踏み出す。


「……斬る」


 その一言は、宣告に等しかった。

 彼女の刃は、音を立てずに振り下ろされる。

 止水のごとく静かで、しかし圧倒的な鋭さ。

 焔猿の首筋に深々と食い込み、悲鳴を上げる暇も与えずに命を絶った。


「よっと!」


 今度は流華が軽やかに枝を蹴って宙へ跳び、懐から取り出した煙玉を放る。

 それは高く弧を描きながら落下し、次の瞬間、白煙が爆ぜた。

 煙に包まれた焔猿たちが方向を失い、咆哮とともに無駄な動きを繰り返す。

 俺はその光景を確認し、次の行動へ移る。


「――このまま畳み掛けるぞ!」


 滑るように地面を蹴って加速。

 焔猿の横をすり抜け、間合いの死角から斬りかかる。

 背中を裂いた刃が熱に焼かれる前に引かれ、血飛沫が霧のように舞う。


 十体以上いた焔猿が、七体、五体と数を減らし――最後の一体が、桔梗の刃で沈黙した。

 静寂が戻る。

 獣の唸りはもうない。


「……ふぅ。『走る』、思ったより消耗が激しいな」


 俺は膝に手をつき、荒ぶる心臓を押さえるように呼吸を整える。

 紅葉が駆け寄り、慎重な手つきで俺の胸に手を当てた。


「高志様、お怪我は……。いえ、大丈夫そうですね」


「見事だったぜ、兄貴!」


 流華が口笛を吹きながら歩いてくる。

 額に汗を浮かべながらも、笑みは絶やしていない。


「……でも、焔猿の動き……変だった気がする……」


 桔梗がぽつりと言う。

 俺たちは同時に顔を見合わせた。


「そうですね。文献で読んだことがありますが、普段の焔猿にはもっと群れの秩序があるはずです。しかし今回は、考えなしに暴れているように見えました」


「何かに追われていた。食料不足で我を失っていた。あるいは、もっと特殊な事情があった……?」


 俺は指を顎に当てて考える。

 その時、流華が谷の向こうを指差した。


「おい、兄貴。あっちに煙が上がってる。村かもしれねぇ」


 確かに、森の向こうに薄く煙がたなびいていた。

 あれは、日常の営みから立ち昇る炊煙だと思われる。


「よし。焔猿について、その村で情報を集めてみよう。これから向かう紫雲藩の情勢や紅蓮竜の話も聞けるかもしれん。もちろん、休息もしよう」


 そう言って俺は、焔猿の死骸を一瞥する。

 その目は、死んでなお、何かを訴えているように見えた――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ