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1780話 中断された禊

「そ、それは……?」


 俺の口から間抜けな声が漏れた。

 言葉が形になるよりも先に、目に飛び込んできたものの衝撃に脳が処理を拒否した。

 現実感のない、しかし確かにそこにあった光景。


 少年――否、少女の顔が真っ赤に染まる。

 焼けるような羞恥が、彼女の肌を染め上げていくのが見て取れた。

 目を逸らすべきだと頭では理解していたのに、視線が吸い寄せられる。


「ち、ちがっ、これはっ、見ないでっ!!」


 声は裏返り、滝壺の水音にも負けぬほどに響いた。

 その手が咄嗟に胸元を押さえた瞬間、全てを悟った。


「お、おい。お前、もしかして――」


「やだっ! もう、ほんと最悪っ!!」


 彼女はとっさに胸元を押さえ、くるりと背を向けて岩陰へ逃げ込んだ。

 動揺を隠しきれていない。

 耳まで真っ赤だ。


 俺はただ、呆然と立ち尽くす。

 動くことも、言い訳をすることもできず。


「これはいいものを見た……! す、素晴らしい……!!」


 心の声がそのまま口に出てしまった。

 己の理性を疑いたくなる瞬間だった。

 その直後――


「っ!」


 背後から何かが、俺の頭を軽く小突いた。

 乾いた音が頭蓋に響く。

 何が起こったのか理解するよりも先に、その主が目の前に立っていた。


 紅葉だ。

 表情は柔らかい。

 けれど、その目は笑っていなかった。


「高志様……一言、よろしいですか?」


 声に張りつくような棘。

 それが逆に、いつもの丁寧さを際立たせていた。


「ふむ? 何かに怒っているようだが、あいにく心当たりはないな。紅葉、どうか落ち着いて――」


「一言、よろしいですか?」


 語尾の鋭さが、今度は明確な威圧となって耳を打った。


「……すまん、俺が悪かった。反省している」


 即答だった。

 これ以上、何かを言えば命が危ない気がした。

 瘴気による昏睡から目覚めて以降、こうした”圧”が強まっている気がするんだよな……。

 チート持ちで藩主の俺でも、怒っている紅葉には迂闊に逆らえない。


「はい。ご自覚されているなら、それで結構です」


 淡々と告げて、紅葉は一歩引いた。

 その後ろで桔梗も、静かにうなずいている。


「ううっ。み、見たでしょ……」


 岩陰から小さな嗚咽が聞こえてくる。

 震える声が、胸に刺さる。

 これは……完全に、やっちまったな。

 男は黙って、ガン見に留めておくべきだった。


 襲ってきたのは向こうからだが、俺たちはこの地においては余所者という事情もある。

 完全に理不尽な襲撃とも言い切れない。

 せめて、今からでも少しはフォローしておこう。


「すまない、妖精族の少女よ。辱めるつもりはなかったんだ。ただ、君の動きが速かったせいで、手心を加えようにも限界があってだな……」


「…………」


 答えはない。

 沈黙が続いた。


「それに、恥ずかしがることなんて何もないぞ。かなりの美乳だった。誇っていい。何なら、俺の女になって酒池肉林の限りを尽くさせてあげても――」


「もう……知らないっ」


 ぴしゃり、と水面を打つ音。

 彼女の声が、滝壺の水面に波紋のように広がって、やがて静かに沈んでいく。

 その直後、岩陰へとすっと身を引く気配があった。


 ――逃げられた。

 気配が、ふっと消えた。

 空気に溶けるような消失。

 気配察知のスキルを持っている俺でも、あっという間に見失ってしまった。


「……これ以上、ここに留まるのは難しそう。仲間を呼ばれると厄介……」


 桔梗がため息をついた。

 その表情には、警戒と反省がないまぜになっていた。

 去っていったエルフ少女が、増援を呼びに行っている可能性も否定できない。

 この場を早急に離れるべきだろう。


「ちょうど良かったぜ。俺、なんかこの滝の水は嫌いなんだよな」


 流華が髪の先から滴る水を払いながら、ぶつぶつと呟く。

 彼の声には珍しく、明確な苛立ちが混じっていた。

 何かに触れられたくない、そう言いたげな瞳が揺れる。


「流華くんも? 実は、私もなんだよね」


 紅葉が少し肩をすくめながら微笑んだが、その笑みはどこか引きつっていた。

 ここの水を嫌っているのは、彼女もまた同じだったらしい。

 いや、実は俺もだ。


 見た目はただの清流にしか見えない。

 透明で、澄みきっていて、まるで天上の水かと思うほどだ。

 だが、身を浸せば――内側から、何かが揺さぶられる。

 心の底に押し込めていた、黒い塊が浮かび上がるような、不快にも似た感覚。


 おそらく、この水に宿る神気のせいだろう。

 俺たちの中にある闇。

 それが、この神聖な水に触れたことで、かき混ぜられ、中和されようとしていたのだと思われる。

 まるで、洗い流そうとするかのように。


「……ほんともったいないよな」


 誰ともなく呟く。

 もし、これが本当に闇を削ぎ落とす力を持っているのなら、それは間違いなく有用な何かなのだろう。

 だが――それでも、俺たちはそれを拒絶する。

 闇は、俺たちの一部だ。

 否、むしろ誇るべきものなのだ。

 それを失うことなど、考えたくもない。

 もしかすると、あの少女の乱入がなかったとしても――俺たちは自ら、禊をやめていたのかもしれない。


「よし、そろそろ出ようか。長居すると、風邪をひくかもしれんしな」


 乾いた声で告げる。

 冷たい水が肌に残る。

 だが、それ以上に、この場を離れなければならないという直感が、確かにあった。


 禊は中断された。

 それでも、誰も何も言わなかった。

 後悔もなかった。


 次の目的地は、雲雀藩。

 その先には、紫雲藩が待っている。

 俺たちは、水音を背に静かに歩き出したのだった。

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