1773話 ひみこ
「――ひみこ様。あの男を間近で見て、どう思われましたか?」
青く澄みきった空に、いくつかの白雲がゆるやかに流れていた。
日差しはやわらかく、風も穏やかで、まるで時が止まったかのような静謐があたりを包んでいる。
「……」
女性従者の言葉を受けたひみこは、無言のまま天を仰ぐ。
まぶしさに目を細めつつ、ひみこの唇がそっと綻んだ。
その笑みにはどこか懐かしささえ混じっている。
まるで長い間探し続けていた何かを、不意に見つけてしまった時のような――いや、それ以上に、心の奥をくすぐる奇妙な歓びがあった。
「実に……実に不思議な男じゃ。外見はただの人間じゃが、内包している”存在値”はとんでもない……」
囁くような口調だった。
だがその声音には、抑えきれない熱が宿っていた。
燃えるような激情ではない。
もっと根深く、芯から湧き上がるような熱。
感覚に訴える熱量が、言葉の端々に乗っていた。
「あなた様がそうまで仰られるとは……。あの男、相当な実力を持っているようですね……」
女性従者の声には、深く探る視線の重みが込められていた。
ただの返答では終わらない。
ひみこの言葉の裏にある真意を――その奥に潜む思惑を読み取ろうとしていた。
「それに、奴は間違いなく“熱い”男じゃ。その内に秘めた熱さが、仲間を惹きつける……。実に興味深い存在よのう、あの高橋高志という男は」
ひみこは腕を組み、わずかに顎を引く。
視線は虚空の一点に定められ、まるでそこに実際にその男が立っているかのようだった。
その目に映る光景は、他の誰にも見えない。
だが彼女には見えているのだ。
炎のように燃える意志。
鋭くも真っ直ぐな瞳。
そして何より――人々を引き寄せる“何か”。
名状しがたい輝きが、彼女の内なる観測に焼き付いて離れない。
「しかし……奴は何故、桜花藩を支配したのでしょうか?」
空気が一瞬、微かに揺れた。
従者の問いを受け、ひみこは思案するように首を傾げる。
赤い髪が風にゆるやかに踊り、一本の糸のようにその輪郭をなぞった。
思考の奥底に沈んだ何かを探るように、その瞳はふたたび空へと向かう。
「そこまでは分からぬ。じゃが……あの男を上手く利用すれば、大和の統一は遥かに容易くなる。それは確かじゃ。わらわが力を“貸し与える”に相応しい存在じゃと認めようぞ」
その声音には、もはや迷いはなかった。
言葉のひとつひとつに宿るのは、決断した者特有の静かな覚悟。
そしてその底に澱むようにして息づくのは、ひみこ自身の自負。
世界を動かすに足る男に出会ったという確信と、それを見出した自らの眼力への誇り――静謐な自尊の香りが、あたりの空気さえわずかに引き締めた。
「……っ! で、では……」
声を上ずらせたのは、同行者の方だった。
普段は芯の通った声をしているが、そのときばかりは揺れていた。
まるで、今にも枝から滑り落ちそうな小鳥のさえずりのように。
思わず一歩、身を乗り出す。
空気が張り詰め、音が消えた。
「慌てるな。物事には順序というものがある。この地に来たばかりじゃが、一度佐京藩に帰還して準備を整えようぞ」
静かな口調だったが、そこには迷いのない確固たる意志が宿っていた。
ひみこが静かに指し示したのは、一度退くという判断だった。
「はっ! ただちに!!」
その言葉を待っていたかのように、女性従者は胸を張る。
命を受けたことで、曇りのない瞳が一層輝きを増した。
若さと誠実さが入り混じるその表情には、どこか剣を抜く寸前の緊張と高揚があった。
「……いや、待て! ひとつ、重大なことを忘れておった!!」
唐突な言葉に、空気が一瞬凍る。
女性従者の背筋がぴんと伸び、喉が小さく鳴った。
「そ、それはいったい……?」
息を飲む。
彼女の視線はひみこの唇へと向けられ、今にも次の命令が落ちてくることを待っていた。
だが次の瞬間――。
「この蛸炎珠の七兄弟じゃ! せっかく買ったのじゃから、きちんと平らげておくべきじゃろう!!」
場の空気が一変した。
凍てついていた緊張が一気に溶け、代わりに呆れの風が吹き抜ける。
女性従者はあからさまに眉をひそめ、ひとつ息を吐いた。
「……そんなことですか」
「”そんなこと”とは何じゃ! 佐京には、このような食べ物は普及しとらん! 物珍しい食べ物には、それ相応の価値が――」
「要するに、観光客気分で食べたいだけでしょう……。まぁ、それぐらいなら待ちますから。早く食べてください」
「急かすな。この蛸炎珠とやら、かなり熱いのじゃ。焦って食べたら、口の中が大火傷になるじゃろう」
真剣そのものの声。
ひみこはまるで目の前のたこ焼きが神聖な供物であるかのように、じっと見つめた。
その眼差しには、ただの軽食とは思えぬほどの覚悟が宿っている。
「あなた様ともあろうものが、そんな弱音を言わないでください。“ひみこ”の名が泣きますよ」
「うるさいのう。食べればいいんじゃろう、食べれば」
ぷいと顔を背けながら、ひみこはたこ焼きを口に突っ込む。
「……っ! 熱い! 想像以上に熱いのじゃ! はふはふ……はふはふ……」
頬を真っ赤にして悶える姿は、先ほどまでの威厳など見る影もなかった。
外見年齢相応の、あまりに人間らしい愛嬌ある仕草。
「…………はぁ」
同行者にため息が漏れる。
けれど、それはどこか優しげな響きを帯びていた。
まるで、少しばかり手のかかる母を見守る、娘のように。
「くくく……。待っておれ、成り上がりの女将軍め。高橋高志を従わせれば、お前たちなど敵ではないぞ。さらに、紫雲藩の神々の力まで加われば……」
ひみこは何を目論むのか。
タカシにとって、彼女は敵か味方か。
それとも――そのいずれでもない、もっと厄介な存在なのか。
だが、ひとつだけはっきりしている。
この国の命運に、彼女の存在が深く関わることになる――それだけは、間違いなかった。




