1772話 値踏みするような視線
「今度こそ甘味処を……むっ!?」
俺が足を一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。
空気が変わった。
喉の奥がひりつき、肌の表面に冷たい針のようなものが突き刺さるような感覚に襲われる。
季節外れの風が通り過ぎたわけでもない。
ただ、俺の中の本能が「何か」を察知したのだ。
これはただの勘などではない。
間違いなく、何かが俺を見ている。
「ど、どうしました? 高志様」
紅葉が少し心配そうに眉をひそめた。
普段はおっとりとした彼女の声が、珍しく緊張を帯びている。
「……また賊でもいるの……?」
桔梗が、腰に手をやる。
戦う気満々の様子だ。
だが、違う。
さっきのような粗雑な敵意ではない。
これは――もっと質の悪い何かだ。
俺の存在そのものを覗き込んで、値踏みするような……そんな視線。
まるで、薄い紙の向こうから誰かがじっとこちらを観察しているかのような、不可思議な感覚。
「わーい! たこさんの七兄弟なのじゃーっ!!」
突如、甲高く無邪気な声が響いた。
幼い少女が、たこ焼き串を持ったまま駆けている。
その勢いと明るさに、さっきまでの緊張感が一瞬だけ霧散したように思えた。
ああ、まただ。
つくづく子どもというのは、串に刺さったたこ焼きが大好きらしい。
ちょっと言葉遣いが独特な気もするが、まぁ個性の範囲内だろう。
「ふっ……。同じ過ちは犯さん。俺は学習する男なのだよ……」
俺は誰にともなく呟き、身を翻すように素早く横に跳ねる。
先ほどの失態の記憶がまだ鮮明に残っていたからだ。
だが――
「あうっ!」
「なにっ!?」
何が起きたのか、一瞬判断がつかなかった。
幼女は、なぜか俺の避けた方向に吸い寄せられるように走ってきた。
そして、俺の脚に絡むようにぶつかり、バランスを崩した。
俺の装束がたこ焼きソースで汚れた――いや、それはどうでもいい。
そんなことより、たこ焼きの行方が問題だ。
幼女の小さな手からこぼれ落ちた七連たこ焼きが、無慈悲な重力に引かれて地面へと落ちていく。
「おっと……!」
反射的に俺は手を伸ばし、ぎりぎりのタイミングで串をキャッチした。
手のひらに伝わる温もりと重み。
俺は心の中で勝利のファンファーレを鳴らす。
「わっ! お兄ちゃん、すごいのぅ!!」
彼女がぱあっと顔を輝かせる。
その笑顔は、まるで雲間から覗く陽光のように純粋で、こちらまで嬉しくなってしまう。
自然と頬が緩むのを、俺は抑えきれなかった。
「ふっ、そうだろう。この程度は造作もないさ」
得意げに鼻を鳴らしつつも、内心では冷や汗がにじんでいた。
危なかった……。
ほんの少しでも反応が遅れていたら、地面に叩きつけられたたこ焼きが悲惨な運命を辿っていたはずだ。
同じ失態を短期間に二度も繰り返せば、さすがに紅葉たちから呆れられていたかもしれない。
「お兄ちゃん、ありがとうなのじゃ!」
幼女……いや、よく見ると少女と言ったほうが正しいか。
さっきの五歳くらいの子と比べると、一回り背が高い。
表情には幼さを残しながらも、一抹の落ち着きがあった。
そうだな……十歳前後、といったところか。
ふと目に留まったのは、彼女の頭にぴょこりと揺れる狐耳だった。
柔らかそうな毛並みに、わずかに光が差し込み、赤い糸のようにきらめいている。
狐獣人――そう珍しい種族ではないが、ここで見かけるのはやや意外だった。
この独特な言葉遣いは、ひょっとすると狐獣人の中で流行っているものなのかもしれない。
あるいは、種族は関係なく、ただ彼女の友人グループ内でブームになっているだけの可能性もあるな。
「じー……」
少女は口元に愛嬌のあるえくぼを浮かべ、こちらを見つめている。
あどけなさと知性が混在する瞳は、どこかこちらを観察しているようでもあったが……いや、違う。
目線の先を追ってみれば、それは手の中の七連たこ焼きだった。
どうやら、この命拾いした食べ物に心を奪われているらしい。
「もう落とすんじゃないぞ?」
俺は釘を刺すように言いながら、慎重に七連たこ焼きを彼女の手に戻す。
少女は「うんっ!」と大きくうなずくと、満面の笑顔で礼を言ってから小走りにその場を離れていった。
足取りは軽やかで、その背中からは一切の疑念や不安といったものは感じられなかった。
ただひたすら、焼きたてのたこ焼きに心を奪われた子どもの姿がそこにあった。
何も変なところはない。
「ふむ……。妙な気配は去ったか」
気づけば、あの不快な視線は消えていた。
俺が少女とやりとりをしていた短い間に、まるで霧が晴れるように。
だが、本当にそれだけで済ませていいのか?
胸の奥に残るかすかな違和感が、俺の思考に陰を落とす。
何か……何かを見落としているような気がする。
だが、それが何なのかはわからない。
焦点がぼやけたまま、俺はその場に立ち尽くしていた。
「兄貴、何か気になることでもあんのか?」
流華の声が、曖昧になっていた意識を現実に引き戻す。
彼はすぐそばまで来ていて、訝しげに俺を見ていた。
「いや……気のせいだろう。さぁ、甘味処探しを続けよう」
俺は言う。
これ以上、仲間を不安にさせる必要はない。
あの奇妙な感覚も、もしかしたらただの勘違いか……あるいは、風邪か何かの前触れかもしれない。
それよりも、今は紅葉たちとのひとときだ。
目の前の楽しみに集中するべきだろう。
甘味を存分に楽しもうじゃないか。




