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1758話 千

「ぐおっ!? な、何だこれは……!?」


 男から呻き声が漏れた。

 困惑と苦悶、そして畏怖が入り混じった声だった。

 動こうとする意志はあるのに、身体が動かない。

 足元から這い上がる冷気が、まるで魂を凍らせるようだった。


「うふふ……」


 千は一歩踏み出した。

 足取りは静かでありながら、まるで刃のように鋭い。

 風も音も、すべてが彼女の前に退く。

 彼女の影が、黒蝕縄と同じように、じわじわと男たちを包囲していくようだった。


「あなたちの意見は理解できますわ。しかし、共感はできません。残念ながら、わたくしは過去を捨てる道を選びました。あなたたちのように、過去に縋りつくような生き方はしておりませんの」


 言葉は冷たいが、それは情を切り捨てた者の強さだった。

 千の声音には、悲哀も怒りもない。

 あるのはただ一つの覚悟。

 かつて抱いた願いを諦め、そしてなお歩き続ける決意。

 それは、彼女なりの決別の言葉だった。


「ぐ……がぁ……!」

「お、おのれ……」

「くそ……」


 呻く男たちの声は、次第に細く、儚くなっていく。

 黒蝕縄が四肢を絡め取る様は、まるで見えない意志が彼らの運命を縫いつけているようだった。

 締め付ける音すらない。

 苦悶の表情が、次第に力を失い、筋肉は弛緩し、眼球は焦点を失って虚空を彷徨う。

 やがて、その場に立っていた者たちは、一人、また一人と崩れ落ち、沈黙の中へと飲まれていった。


「ふぅ……。これで、この一帯は制圧完了ですわね」


 千が、息を吐くように呟いた。

 戦いの余韻が残る空気の中で、彼女の声だけが妙に艶やかに響いた。

 その足元には、先ほどまで牙を剥いていた男たちが、無力な人形のように横たわっている。

 彼女の命ずるままに編まれた黒蝕縄が、彼らの気力を絡め取ったのだ。


 今の彼女の任務は、魅夜裂藩を制圧すること。

 だがその冷徹な任務遂行の裏で、心の奥底には一抹の影が差していた。


「……タカシさんは、無事なのでしょうか? カゲロウさんによると、桜花藩に転移させたとのことでしたが……。………いえ、わたくしには関係ありませんわね」


 自嘲のような笑みを浮かべながら、千は首を振った。

 その仕草には、まるで何かを振り払いたいかのような焦りが滲む。


 タカシ。

 かつてはただの初級冒険者だった。

 オーガやハーピィの里での暗躍の最中、偶然出会い、偶然敵対した──ただそれだけのはずだった。


 だが、その男は何かを持っていた。

 危うさと温かさの両方を纏った、不思議な魅力。

 いつの間にか中級冒険者となっていた彼は、ドワーフの村で”霧蛇竜ヘルザム”を追い詰めるに至っていた。

 無傷で討伐するには足りなかった彼のパーティに対し、陰ながらちょっとした助力をしたこともある。


 その後もいくつかの事件でことごとく遭遇した。

 最終段階であるファイアードラゴンの件を実行する際には、タカシは上級冒険者になっていた。

 その凄まじい成長速度は千の計画を大いに狂わせ、計画失敗に追い込んだ。


 ――あの時、もしファイアードラゴンの支配に成功していれば。

 そうすれば佐京藩は、九龍地方どころか大和連邦全体すら掌中に収めていたことだろう。

 次善策としてファイアードラゴンの素材だけを持ち帰れたため、女王ひみこからの処罰がなかったことはせめてもの救いである。


「……本当に、馬鹿な男でしたわね。今頃はどこにいるのでしょう……」


 小さく呟いたその声には、どこか安堵のような、哀しみのような色が混ざっていた。

 何度も陰謀を邪魔した男。

 憎しみのはずだった。

 復讐の対象だった。

 しかし、憎めなかった。

 その無鉄砲さも、その誠実さも、ちょっとエッチなところも、彼女の心を奇妙に揺らしたのだ。


 この大和連邦に辿り着いたタカシたちが、今後どのように動くのかは予測できない。

 けれど、願わくば佐京藩側についてほしい。

 そんな淡い期待すら抱いてしまう自分に、千は内心舌打ちしたくなった。


「……千、ね……」


 彼女が一人呟く。

 乾いた風が、彼女の漆黒の外套をなぶった。


 過去を捨てたと言った。

 しかし、それは正確ではない。

 捨てたのではない、失ったのだ。

 記憶喪失。

 彼女の”千”という名は、服に縫い込まれていた文字が由来だ。


 本当にそうだったのかは、わからない。

 服の刺繍は傷んでいた。

 もしかすると、そこにはもっと長い言葉が刻まれていたのかもしれない。

 例えば『千羽鶴』『千本桜』『一日千秋』──あるいは『千変万化』。

 名ではなく、願いや祈りが込められた言葉が服に縫い込まれていただけだった可能性はある。


 しかし、今の彼女に真実を知る術はない。

 ただ、『千』という名に、自分自身がどこか違和感を覚える。

 そんな事実だけが、心に刺さっていた。


「わたくしは千……。ただの”千”ですわ」


 その言葉には、過去の自分への疑念と、今の自分への諦念が込められていた。

 行く宛も戻る場所も知らなかった自分を拾い上げ、居場所を与えてくれたのは、女王ひみこ。

 そして佐京藩だ。

 恩を裏切ってまで『自分探しの旅』を決行する気など、さらさらなかった。


「でも、うふふ……。タカシさんが来てくれることを願うくらいは、許されるでしょう」


 千が笑う。

 その微笑みは、どこか子どものような、あるいは恋する少女のようなものだった。

 希望とも、未練ともつかぬ想いを胸に、彼女は少しの元気を取り戻す。

 そして、引き続き魅夜裂藩の平定を進めるのであった。

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