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1689話 紅乃のうどん

 箸をそっと置くと、リーゼロッテは優雅に首をかしげる。

 その仕草は決して荒々しい拒絶ではない。

 むしろ、彼女なりの慎重な考察の証だった。


「物足りませんわ」


 静寂が重く垂れこめる。

 先ほどまでの和やかな雰囲気が嘘のように、場の温度が一気に下がった。


「なっ……!」


 琉徳が思わず顔をしかめる。

 彼にとって、この料理は研ぎ澄まされた技巧の結晶であり、完璧なまでに洗練された一品だった。

 それを「物足りない」と言われるとは――。

 しかし、リーゼロッテは悪びれもせず、むしろ心からの疑問を口にするように言葉を継いだ。


「上品で洗練されているのは認めます。でも、何かが足りませんの。心に残る余韻がないと言いますか……」


 審査員たちは言葉を失った。

 料理の美しさ、味の精妙さは申し分ない。

 それでも、彼女の言葉に反論できるだけの何かが、確かに欠けているような気がした。

 その沈黙を破るように、紅乃が静かに動く。


「では、こちらをどうぞ」


 彼女が差し出したのは、一見すると何の変哲もない『庶民のうどん』だった。

 黄金色に澄んだ出汁が湯気を立て、白く艶やかな麺が静かにその中で揺れている。

 具材は控えめで、刻みネギと揚げ玉だけ。

 だが、その素朴な姿には、不思議なほどの温もりが宿っていた。

 誰からともなく、審査員たちは箸を手に取り、そっと麺を啜る。


「……っ!」


 途端に、誰もが言葉を失った。

 一口目は柔らかく、じんわりと舌に染み込むような優しさ。

 二口目、三口目と進むにつれ、出汁の奥深さがゆっくりと広がり、身体の奥底にまで沁み渡る。

 気がつけば、誰もが無心で箸を動かし、麺を啜る音だけが静かに響いていた。


「……何だこれは……止まらない……!」


 審査員の一人が、思わず零す。

 その声には驚きと感動が滲んでいた。

 目の前のうどんは、決して豪華なものではない。

 けれど、一口ごとに新たな味の表情を見せ、次の一口を欲する衝動を生む。

 食べたいと思わせる力が、この一杯には確かにあった。

 そして、リーゼロッテもまた、知らず知らずのうちに丼を抱え込むようにして、夢中で麺を啜っていた。


「……これですわ!」


 青い瞳が歓喜に輝く。

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