副田
夕日を見るのは嫌いだ。
自分がとてもちっぽけなものに思えてしまうから。
真っ黒なビルの背景に鮮やかな橙が在ると、胸の奥が痺れてしまうから。
なかなか来ないバスを待ちつつ、私は時計を見る。――5時33分。既に16分遅れている。何をやっているのだろうか。時間通りに道を走るだけのことが、どうして出来ないのだろう。
こんな時は、道が込んでいるからとか、乗り降りに時間が掛かっているからとか、そんなことは考え付かない。頭の中は、ぐちゃぐちゃした真っ黒いもので一杯だ。
「行き先番号25番、西谷営業所行きです。ご乗車の方はおられませんかー?」
無気力な運転手の声が、バス乗り口付近の安っぽいスピーカーから聞こえてくる。
乗客は2、3人。どこに向かうのだろう。西谷営業所って? ……もうどこでも良いや。乗っちゃえ。
私はバスに乗り込んだ。
どこでも良いから連れてって。そんな気持ちになったのは、初めてではない。
終点なんか来なければ良いのに、と何回思ったことだろう。この優しい揺れに、永遠に揺られていたい、とも。
1番前の左側、1人席。そこに座り、窓に頭をあずける。前も横も開けているこの席は、私のお気に入りだ。
緩やかに変わってゆく景色は、私をそっと慰める。季節によって変わる街の装飾は、私の心を躍らせる。
「次は、城南大通り、城南大通りです。お降りの方はございませんかー」
相変わらず無気力な運転手のアナウンス。降車を知らせるボタンを押す人は、誰もいない。
――堤さん、久しぶりねー! 元気にしてた? あ、聞いたわよ~? また賞頂いたんでしょ。英語だっけ? あ、英語でやるプレゼンテーションのコンテストなんかあるの? 1位でしょ? すごいじゃない! 相変わらず活躍してるのね~。
――このくらい、全然何てことないですよー!
――これからも応援してるから。頑張ってちょうだいね。
――はい! ……褒められちゃった。
私を振り返り、職員室前にも関わらず、周りに見せ付けるような大きな声で照れる妃子。そんな妃子を見て、微笑ましそうに通り過ぎる先生たち……。
――妹さん、可愛いじゃない。何でもっと可愛がってあげないの?
たまに私の顔を見たと思えば、どの先生もそればかり。私が高校3年生になった時、中学部に入学してきた妹。中高一貫校である水の浦女子は、中学も高校も先生の行き来が盛んで、高校の担任をしていても、中学の生徒を知っていたりする。
――お姉ちゃーん! ぎゅーして!
……こんな妹が、気色悪いとまでは言わないけど、気持ち悪いのは確かだ。
「次は、新江四角、新江四角です。お降りの方ー」
新江四角? 気が付けば、全く知らない場所に来てしまっていた。明るかった街並みも、どこか寂れた雰囲気の場所へと変わっていた。
後ろを軽く振り返る。……誰もいない。いつの間にみんな降りて行ったのだろう。
でももう手遅れだ。終点まで行ったとしても、たかがバス。大した金額にはならないだろう。せっかくだし、最後まで乗って行こう。たまに帰らなくても、きっと支障はない。あっても知らない。
1年に1度くらい、「お姉ちゃん」から解放されても、きっとバチは当たらない。
◇◇◇
恭子が帰らない。
電話をしても、メールをしても、返事がない。こんなことは初めてだ。やっぱり、晴夏を迎えに行く時に、恭子も乗せるべきなのだろうか。
「晴夏、ごはんよー」
……2階に声を掛けるが、返事がない。
「晴夏ー! ごはん」
「うっさいババア!」
ガタン! と物凄い音がする。花瓶でも落としたのだろうか。……故意に。
目の前に並べられた4人分の食事。今日は、晴夏の好きなホワイトシチューなのに。
晴夏は下りて来ない。恭子は帰って来ない。夫は残業で今日も遅い。
ゆらゆらと立ち上る湯気が虚しい。じんわりと涙が滲んだ。
やっぱり、恭子がいないとこの家は明るくならない。晴夏を操れるのは恭子だけ。1番歳が近い、恭子だけ。
ウチはいつからこうなったのだろう。晴夏が小学生になってから? 晴夏が生まれてから?
晴夏は、昔から人なつっこい。目の前にいるのが、例え初めて出会った相手でも、「こんにちは!」とハグしに行く、そんな子だった。長女とは違うその姿に、誰もがメロメロだった。もちろん私たち夫婦も。
平均よりも随分小さな体と、臆さない性格。大人に可愛がられる条件は、完璧に揃っていた。
おかげで晴夏は、周りにいる大勢の大人に可愛がられて育った。
それが悪かったのかも知れない。
――晴夏はまだ小さいから出来ないのよ。お姉ちゃんなんだから、シートベルトを締めてやんなさい。
――晴夏はまだ小さいんだから、ご飯くらい食べさせてやんなさい。
その頃の晴夏は、もう6歳。全然小さくなんか無かったのに。
――お姉ちゃん、晴夏も一緒に遊んでやんなさい。
そう。たまに恭子が遊びに行くと言えば、まぜてやれと言った。そのせいで晴夏は、同級生の友達が出来ず仕舞いだった。挙げ句の果てにいじめられ、中学は私立に通わせている。
でも、これで良かった。
あんな品のない、合コン会場と見分けの付かない下卑た学校なんかじゃなく、私立で品のある、お嬢様ばかりの良い学校に通わせた方が、晴夏も良い友達に巡り会えるから。
そう。全てはこれで良かった。何も間違ってはいない。晴夏はいつか必ず、私からの愛を受け取ってくれる。
信じる者は、救われる。そうなのでしょう? 神父様。
◇◇◇
「ありがとうございましたー」
ピッ、という電子音と共に、バスを降りる。
もう真っ暗だ。夕日の欠片さえも残っていない。
携帯を開く。……不在着信13件、メール6件。開いてみると、大半が母からだった。心配しているのだろうか。――否、妹の扱い方が分からなくて途方にでも暮れているのだろう。
しかしその中に、1件だけ違う人からの電話が入っていた。
萩谷浩平。留守電を再生してみる。
『最近会えてないね。ちょっと会わない? 電話待ってる』
彼氏でもないくせに。
吐き捨てるように思った私は、しかしふと思った。
電話帳を呼び出し、あ、か、さ、た、な、は……は行の1番上、萩谷浩平。
通話ボタンを押した。
彼は、3コールで出た。
「久しぶり。今から会える?」
『うん。今どこ?』
「西谷営業所」
『マジ? 待ってて。俺今新江。すぐ行く』
「うん」
『あ、いっこだけ確認。分かってんだよな? 分かっててこの時間に会うんだよな?』
「……うん」
『オッケー。じゃあ、買ってかなくて良いな』
「待ってるね」
早々に電話を切り上げた。吐き気がする。気持ち悪い。辺りは真っ暗だ。涙が込み上げる。
泣くな、私。
自分で掛けたんだろ? いい加減覚悟くらい決めちまえ。
頬の裏側を、思い切り噛んだ。




