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「今日はここまで、気を付けて帰るんだぞー」
帰りのホームルームは手短に終わり、担当教師の何とも気だるそうな声で言うと、教室の外へと出て行った。それと同時に教室はわっと歓喜の声に包まれる。「今日何処いくー?」とか「帰りゲーセンいかね?」とか「部活行こうぜー」など各々趣旨が教室中に飛び交う。
そんな中、ただ椅子に座っている俺は両サイドに谷内と凛子に挟まれ身動きが取れない状態である。いつもならそそくさと谷内は部活へ、凛子は人の弱みを握るために校舎を走り続けているのに今回に限って何やら俺に用事があるらしい。
何の用事か、大体予想はできる。
千匣と一緒にフライング昼食 (早弁でも可) を摂り、四限目が終わるチャイムと共に何処かへ行った千匣を見送り、俺は教室に戻ると残っていた生徒全員から冷たい視線を向けられた。なんかこう……「お前ってそういう奴だったの?」と性癖がバレたみたいな、そんな視線を唐突に貰い死にたくなった。杏仁豆腐精神なのだ、俺は。嘘だよ。甘くもないし、苦くもない。
その時、谷内と凛子は俺に何も話しかけることはなかった。谷内は兎も角、凛子なら身を乗り出して話しかけるはずなのだが、予想外の行動に俺は目をしぱしぱとしたものだ。もちろん、谷内には俺が連れ出される時に笑っていたので黄金の右ストレートをお見舞いしたわけだけど。凛子は一応女の子なので手は上げない。
となれば、この状況。やたら重苦しいオーラと怪訝な瞳を放つ二人が俺を挟む理由は一つしかないのだ。何してたの、とかその辺だ。
「さて、コヨ。私達が聞きたい事はわかってるよね?」「おうよ!」
「……包み隠さず話します」
一部、暑苦しい声を上げる奴がいたので、脳内デ○ノートに名前を記述した。俺の寿命減っていいからこいつ何とかなんねぇかな。
「千匣さんと何をしてきたの」
ほらきた、テンプレート。この決まり文句を聞くとさ、お前も実は俺の事狙ってんの? って思うわけじゃん。え? それは無いだって? それはお前、モテないからだろ。冗談だ、こんな自意識過剰な事を口走ったら谷内に筋○バスターを貰ってしまうじゃないか。
「別に普通に昼食食べただけだけど」
「……ふーん」
曖昧な事を言ったつもりもないし、はっきりと千匣とのやり取りを説明したはずなのにちょっと冷たい返答が返ってきた。とうとうお前らも俺を見捨てる時が来てしまったというのか。おお勇者よ、こんな所で死ぬとは情けない、とお叱りの言葉を頂戴しそうだ。
「マジだって! 何で信じてくんねーの!」
「いやいや、コヨ。あんたはいつだって学生の本分である青春を謳歌しないと決めているのは知ってるよ? 青春を謳歌っていうよりも男性としての機能が死んでいるって言ったほうがいいかもしれないけど」
おいおい、いつから学生の本分が青春謳歌ロード (道) になってんだよ。
学生としての本分を忘れつつある凛子は気だるそうに言葉を紡ぎだした。
「まあ、千匣誄歌さんに引き摺られて退場していったコヨが何も動じなかった、という点だけは許せないのですよ私は」
そう言い終わると、凛子は手を団扇代わりとして機能させる。水色で染められた前髪は小さく揺らぎ、両サイドのレバーはみょんみょんと跳ねる。
何も動じなかった、いや俺からしてみれば”動じられなかった”と変換してもらいたいのですよ。
千匣と初めて出会ったあの日、拷問されてからこいつには反感を買うようなマネはしないでおこう、と密かに思っているのだ。何かを反論してしまえば、何をされるかわかったものじゃない。フライング昼食の時、千匣に対して何も口を開かなかった教師と同じように、俺もまた保身しているのだ。バット、もしくは一万円札で殺されないために。もしかしたら、他に武器があるというなら、それからも殺されないために。
「あいつ、何しでかすかわからないからな」
頬杖を突き、ぼそっと本音が漏れる。
それを聞き逃さなかった凛子は「何が?」と質問してきた。
「いや、あいつ拷問する奴だからさ、俺がたてついたら何するかわからないんだよ。なんていうのかな、恐怖って言ったほうがいいのかもしれないけどな」
排水溝から水が漏れ出すように、俺の口から本音が漏れ出す。
「暦がそこまで言うなんて珍しいな。いつもクールっていうか、怖気ない性格だと思ってたんだがな」
モブキャラ降格寸前だった谷内が、やや呆れ口調で俺の性格について勝手に語りだす。ふむ、モブのくせに俺の性格わかってるじゃないか。褒めてしんぜよう。
「それでコヨ。これからどうするつもりなのよ?」
「これから?」
俺は凛子の問いに首を傾げた。
別に放課後は用事は無いし、てきぱきと帰るだけだ。これからもそれからも無い。
「千匣誄歌さんのことだよ」
ああ、と生返事。
俺の三年間の目標である『青春ラブコメ禁止』を壊されかねない危険分子である、千匣とのこれから、という事か。そんなもん決まっているだろ。
「あいつとは友達未満他人以上で付き合うつもりだ。絶対彼女なんてリア充の象徴なんて作るつもりなんて無いぞ!」
あーははは! と椅子を踏み台にし、ガッツポーズをしながら甲高い笑い声を上げる。
「蛆虫あ、し流川、あなたは私と、の約束を忘れて何暢気に世け、ん話に花を咲かせてい、るのですか? 初めてのお使いをやらされ、ている子供ですか?」
冷たく身体に重く圧し掛かる重圧のような、そんな声が俺の真後ろから聞こえた。
甲高い笑い声は徐々に落胆し、最後のほうに至っては溜息交じりの声になってしまっていた。
凛子と谷内は俺よりも先にその声の正体がいる後ろへ視線を移す。俺の後方に誰がいるのか、検討がついているので若干遅れて首だけを動かすと、予想通りの人物が、危険分子が、俺を睨んでいた。
昼休み前に見た黒いワンピースとは違う服装の彼女。装飾の無い、ただスレンダーな体型を強調するだけのドレスを身纏っていた。でも、色のほうはやはり黒。彼女はその単色が好んでいるのだろうか。今はどうでもいいことだ。
「せ、千匣」
夕日色に染まる教室。辺りを見渡すと気がつけば数十分前までかなりの数が教室に残っていたのに、今となっては三人一組のグループが三組あるぐらいの人数しかいなくなっていた。そして、この教室に残っている全員が口を開けようとせず、視線が俺に集中している。いや俺に、ではなく危険分子に集まっているのかもしれない。この危険分子が俺を睨みつけている状況で、辺りを見渡す行為、余裕がありそうに見える行為ができたのは、この現実から少しでも逃れたいがための行動であり、その行動は無駄に終わってしまうと思うのだけど、まあ少しなり努力をしてみようかな、と思った結果だ。
千匣の右腕が伸び、広げた手の平を俺の顔へと近づける。
何をしようとしているのだろうか、と俺はそれを見ていると、こめかみを圧迫するような形をとった。俗に言う、アイアンクローを呼ばれるものだと気づいたのは、頭蓋骨が軋みだす音が聞こえてからの時だった。
「あだだだだっ!」
俺のこめかみをクローしている右腕をタップするが、その力は女性のものとは思えないほど力強く、万力のような力があった。万力というものがどこまで破壊力があるのかは知らないけど、物の例えとして描写したに過ぎない。それにしても、だ。こいつの右手は機械義手ではないのだろうか、と疑惑の念が強まっていく……、という悠長なことを考える余裕は今の俺にはない。マジ痛いんですけど!
「先ほどの言、葉は何ですか? 友達未満他人以上? 理解不の、うなことを言わないでくださ、い。あなたと私、は恋人以上恋人以下な関係な、んですよ」
一向に力を緩めようとしない千匣。
微かに聞こえる教室のざわめきと、凛子と谷内の「うわぁ……」とちょっと引いた声が聞こえてくる。そんな中、
「ちょ、ちょっと千匣さん!」
「……黙りな、さい、喪女」
死語。タブー。都市伝説級の禁忌の言葉を止めに入った凛子に向けた。アイアンクローを食らっている俺は、凛子がどんな表情を伺えない。何やらぶつぶつと「も、ももも」と呻くような声が聞こえてくる。
女子にその言葉を向けられた日には、枕を濡らす作業に徹するほどの破壊力なのだろう。さすがの俺もちょっと可哀想に思えてきた。
もっとも、俺の顔面を覆っている手を退けてくれたら助けられるかもしれないけど (いや、たぶん無理に近いかもしれない)、肝心の筋肉谷内が何もしてくれないので保留せざるを得ない。マジ痛いんだけど、このままだとひょうたんみたいな、真ん中だけが凹んだ顔になりそうだ。
「今は私、と芦流川と話をしているんで、す。部が、い者で喪女で筋肉の方々は、電線の上に立って、カラスの鳴き声でも練習してき、たらどうですか?」
「ムキーー!」
「エクセレントにブチギレたぜ……」
歯を食いしばったような声を上げる凛子と頭の悪い谷内にしては発音が完璧な声が同時に爆ぜる。
「やっちー! やっておいしまい!」
「よっしゃー!」
谷内は怒涛の声を上げ、ぱん! と拳を手の平にぶつける。千匣は俺のこめかみにフィットした手を外した。
こめかみに激痛が走る中、かろうじて目を開くと、谷内がボクシングの構えをしようとしているところだった。普段、筋肉の事しか考えていない谷内だが、格闘技など嗜む程度に学んでいるようだ。そして、千匣相手に選んだのはボクシング。
対する千匣は戦闘体勢をしていた。
これが戦闘体勢と呼べるものかどうかは知らないけど、右手を頬近くまで上げ、左手はぶらりと下がる。やや腰を下ろし、右足を足の半分ほど前に出している。
青く淀んだ怪訝な目をした千匣と笑ったように目を見開いている谷内。距離は目と鼻の先、腕を伸ばせば届く距離で二人は対峙している。
それよりも、一つだけ確認したいことがある。
谷内。お前、まさか女性を殴らないよな? そう思った瞬間、緊迫した空気は一瞬にして打ち砕かれた。
先に動いたのは谷内だった。利き腕である右手を何の躊躇も無く千匣の顔へと飛ばす。ボクシングでいうジャブといったところだろうか。そして、千匣はその鋭いジャブを――頬まで上げた右手で止めた。力負けしたように見えず、ぎりぎり、と谷内の拳を握り締めている。
無事、ジャブを受け止めた千匣の唇が不気味に笑う。
その表情に何かを感じたのか、谷内は握り締められた右手を弾き、二歩ほど飛ぶように下がり、もう一度体勢を整える。はずだったと思う。
その間合い、約人一人分の距離を一瞬にして千匣が詰め寄る。
谷内の目は驚きを隠せないように見えた。俺もまた完全に見開いていると思う。あの距離をどうやって詰めたのか全く見えなかった。
靡く髪は朱色に染まり、まるで舞っているように、まるでスローモーションのように、ゆっくりと千匣は左手を握り締め拳を作る。次の瞬間、
ドンッ!
と、マットに叩きつけられたような鈍い音が教室にこだまする。
「っ!」
引きつったような表情を浮かばせる谷内。そして、ずるずると身体が崩れ始めた。腹部を見れば、千匣の左拳が内臓辺りを捉えているのが見えた。
教室の床にうつぶせに倒れる谷内を千匣は見下す。追い討ちは不要、そう思ったのか、くるりと俺のほうを振り向く。
「矛対矛な、ら負けません」
にやりと笑い、千匣はそう宣言した。
俺は倒れた谷内を一瞥した後、目だけを動かし凛子の顔を伺うと、口が開きっぱなでこの状況が読み込めないと感じさせていた。焦点も定まっていないように見える。
「さて、次は邑緒栗り、ん子。あなたの番です」
そう言うと、この琴羽ヶ丘高校でトップレベルの筋肉を持つ谷内を一発でKOさせた左手はメキメキ、と力が入った。
一歩、また一歩と小鹿のようにふるふると震える足で下がる凛子。精神の奥底まで千匣による恐怖が侵食完了しているのかもしれない。
俺は暴君千匣を止める力を持っていない。もし、精神世界の魔獣が『力が欲しいか?』と問いかける時が来るのなら、それを甘んじて受け入れようと思う。千匣を止めるために。けれど、現実はそんな甘いものではないことは知っている。RPGで言う外に一歩出たらモンスターと遭遇して倒して一気にレベルマックスにはならない。徐々に経験値を溜めてやっとレベルが上がる、というのが現実的なのだ。
だけど、ラスボス級の強さ (これだけでは足りないか) でも、レベル1の俺でも止めれる術がある。先述、『力を持っていない』と描写してあると思うが、それは物理的なものが無いだけで、言葉の力、とでも言っておこう。
虚偽の審査は不要。いや、言った後に訂正を入れると思うけれど (心の中でね)。さてさて、暴君でも止めに行きますかね。俺の不幸を笑うような奴でも、俺にとっては大事な奴で、何だかんだ言って助けてくれる奴だから。
「止めろ千匣」
凛子に近づこうとしている千匣の足がぴたりと止めり、俺の顔を覗き込んでくる。
「止めな、いでください、ます? 芦流川」
怒気交じりの声を俺に向けてくる。正直、このまま関わり無く帰りたいのだけれど、まあ友達を放っておくなんて人間できてません。なので、ぶつけます。言葉の暴力を。嘘を。何よりも千匣が傷つく言葉を。
「俺の友達を傷つけるような奴と付き合えるか」
千匣を睨みつけるように言い放つ。これがどれだけの破壊力があるのかは知らない。でも、千匣は俺を好きでいてくれる。だからこそ、俺はこの言葉を放った。
さっそくだけど、訂正することにしよう。
俺は誰とも付き合う気はない。それだけの訂正で締めくくろう。
握り締めていた左手は徐々に力を失い、ぶらりと垂れ下がる。戦意喪失、彼女にとって俺の言葉はそれだけの破壊力があったということが確認できた。
短い溜息をつく千匣は、「わか、りました。以後気をつ、けます」という言葉で何とか暴君を止めることに成功した。
凛子はほっと胸を撫で下ろしており、まあ貴重なシーンが見れたのでヨシとしましょう。断じてそんなことは思ってはいない。ただちょっと罪悪感だけが心の隅に残っている、そんな感じだ。
俺のせいで怖い目にあったんだ。そこはどうしても罪悪感が生まれてしまうものなのだ。
静まり返った教室を見渡す。三組のグループはいつの間にか消えていた。こんな修羅場的なものを見たら、怖くて逃げ出してしまうのもしかたがない。俺だってちょっとちびりそうだったもん。
教室に残った四人 (谷内を含めていいものか悩むところ) は黄昏る。
そんな中、千匣が口を開いた。
「それで、は、本だ、いに移り、ましょう」