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お経のような眠たくなる言葉を唱える国語教師を尻目に、俺は窓から一望 (二階なので一望とは言いづらいが) できる上空を見上げた。今朝よりも黒さが増した雲は入梅のお知らせするかのように本格的に雨が振り出していた。
できるなら、このお経を唱える音量より強めの豪雨になってもらいたいのだが、人生そこまで甘くはないし、なってもらったら逆に憤りを感じるのかもしれない。我儘な俺を許してください。
それはさておき、そろそろお経が眠気を誘う音楽に変貌しつつある。
授業開始直後はお経、もしくはゲームデータが消える呪いの音楽のように聞こえていたが、今となってはこれである。とはいえ、教壇に立ついかにもヤクザみたいなサングラス付属している先生に対して寝るという安息を求める行動をやる勇気など持ち合わせていない俺はこうして外を見ることでしか起きていられない。学生の本分を忘れてはいないけれど。
空から視線を落とし校門付近を見下ろす。
いくつもの水溜りを形成する雨はそれだけには留まらず、小さな川さえも作り上げていた。これが自然のエネルギー、などと感慨に無い事をふと思った。
教壇上の時計をちらりと見ると、やがて十二時十五分前になっていた。この眠気を誘う音楽があと三十分続くと考えると何処と無くやる気が失せる。何が? と問われたらもちろん学業の本分である勉強に対してだ。どう考えても嘘の塊である。
再び視線を窓に移し校門を見下ろす。
数秒の間に光景が変わるわけがない、と俺は毎日そう思っていた時期があった。しかし、そのたった数秒の間に見ていた光景は小さく変わっていた。
顔を窓に近づけ、それを凝視するように目を細める。
頻りに降る雨の中、校門から一人の人物が入ってきた。黒い傘を携え性別の確認がしようがない。余っている左手には風呂敷で包まれた物をぶらりと持っている。以上、雨の日に堂々と校門から入る人物の観察終了。……ではないけど。
ただぼんやりと外の光景を見るよりも、何かが動いているものを見たほうがまだ楽しさがあるというものだ。例えばこの雨の中、水溜りにダイブするように転ぶ瞬間とか、数年ぶりに再会する恋人を見て、傘を放り捨て走りその恋人に抱きつくシーンだとか色々だ。後者は別にどうでもいいのでデリート候補だが。
となると、前者である。
早く転ばないかなー、と無駄にそわそわしてしまう高揚感は何処から沸いてきているのだろうか。ああ、そういえば小学生の頃俺が道路を歩いている時に横を通り過ぎる車が水溜りを跳ねて、思いっきり水浸しになった記憶があったな。あの頃の俺ってその時なんて思ったんだろう。所詮子供だからサルのように顔を真っ赤にしてムキに怒っていたに違いない。それかはしゃいでいたか、だ。極端ではあるけれどもう何年も昔の記憶だ、覚えているはずがない。
閑話休題。
校門から入ってきた人物は躊躇無く水溜りに向けて足を突っ込む。意に介せないように目の前にあるいくつもの水溜りを全て同じ行動で前進している。まるで転ぶ要素が何処にあるのだ、と感じ取れてしまいそうになった。
このままでは転ぶというハプニングには至らなそうだ、ちょっと残念。
やがて校舎に入る前でそいつは足を止め、上を見上げた。傘もまたそれに連動するように動き、上空に佇む雲と同じ色のロングスカートを着用していることがわかる。あれだけ水を跳ねる行動をしたのだから、きっとあのスカートは濡れているのだろう。どうでもいいことだが。
スカート、ということは女性か。
きょろきょろと辺りを見渡すスカートの人 (仮称)。すると、俺が所属している教室を見上げる。本当に俺が所属している教室を見上げているのかは定かではないけれど、あくまで爪先がこちらに向いている、という拙い推察でしかない。
数秒ほどじっと俺のほうを向いて (いる気がするだけ)、再び水溜りを勢いよく跳ねながら校舎の中へと消えていった。
ここで俺のスカートの人の観察は終わった。夏休みの植物観察みたいにとは言わないけど、もう少し観察できる場所にいてほしかった、という厚かましい願いはどうも届かなかったようだ。一度もそんな事を思ってはないが。
再び黒板に視線を移す。
こちらのほうは何も変わらず、教師がチョークを使いラ○ホーを唱えているだけだった。稀に出る嫌な音はさしずめメ○パニといったところだろうか。うむ、我ながら的確だな。
頬杖をつきながら俺は黒板に書き出された文字をノートに写す作業に取り掛かる。あと一ヵ月後にある期末テストのためにシャーペンを走らせる。隣に座っている奴が机の下でハンドグリップを開閉し、軋む音はどうも邪魔でしかないけれど、今となっては慣れろ、としか心の吹奏楽部を励ます事しかできない。どんだけ筋肉鍛えてんだよ、RPGの世界にでも行く気かお前は。
十二時五分前、秒針はこの地獄に長く滞在できるように仕組まれ、時間が経つのが結構遅く感じる。欠伸を、体を伸ばし、シャーペンを走り続けさせる作業も段々億劫になってきた。
そんな時間を持て余す行為を遮断するかのように前方のドアが勢いよく開いた。ドス黒い空から降り注ぐ雷のような音が教室を響かせる。嘘八百な例えだ。胃が引き締まるような、そんな音が教室中に響き渡る。
突如の騒音に生徒は視線を黒板か机からドアに集中する。もちろん、教師も俺もだ。
ざわめき出す教室は徐々にボリュームをプラスの方向へ捻る。教師はそれを調整できるほど頭が回ってないのか鈍重なのかわからない。ただ呆気に取られているということだけは伝わる表情だった。
ちなみに俺はそんなざわめきの声を上げる仲間にはなっておらず、机の下に伏せた。谷内が不思議そうに見ているのを無視し、己の本分を全うするだけ。学生の本分ではなく、生き延びるための本分。
やがて、ぺたんぺたんと幼稚とも取れる音が徐々に膨張しているのがわかった。
背中に汗がつたり、心臓が大きく断続的に飛び跳ねる。
そして、その音は俺の横で止まり、
「芦流川」
その声で俺の肩は大きく机に当たるほど跳ねる。
ぎぎぎ、と錆付いたように顔を重く動かすと、そこには千匣さんが見下ろして、いや見下していた。相変わらず怪訝な目、そして手には風呂敷が包まれた何かを携えていた。
やっぱり、と後悔という言葉が全身に行き渡る。
俺が窓から見た人物はこいつだったという事を早く察するべきだった。無理に頭を回転させて、時間を持て余す行為を除外して、保健室に行くなりここから離れる選択肢を用意しておくべきだったのかもしれない。
結局、教室のドアを開けた人物がわかったのは、こいつが一歩教室に入った瞬間だったけど、何もかも手遅れ状態だったので自分を恨む以外何もできなかった。
「な、何か御用でしょうか……」
恐る恐るここに来た目的を問う。
「なにあれ、芦流川の彼女?」とか「すっげー美人」などの声が教室中に彷徨う。そんな中でもAKB員らしい言葉もいくつか混じっていた。「爆発しろ……」とか「リア充乙」とか……本当にこの状況でも言いたい放題だ。
千匣さんは俺の問いに答える前に右手を俺の頭をがっちりと掴む。まるで朝に足を掴まれた事を思い出させるような行動に俺は若干嫌な予感が走った。
「もうす、ぐ昼食です。二人っき、りのプライベート、ルームへ移動しま、しょう。先生、芦流川、を連れていきま、すがいいですよね?」
俺から目を外し、教壇にいる教師へと目を向ける。
ここからでは教師がどういう反応をしているのかわからない。ただ、今は授業中でありそう簡単に許しがでるはずもない。学生としての本分はこういう時に役に立つ、と心に染みた。あくまで表向きはだけど。
しかし、その期待とは裏腹に千匣さんは承諾を得てしまったのか、唇が上がりうっすらと笑いを形成し会釈。そして、小さい声で「あり、がとうござ、います」まで付属していた。
おかしい。教師というものは立場上生徒に勝っているはずだ。なのにも関わらず、生徒が教師に勝った、という不自然極まりない出来事が生じ、今後の教師としての立場はどうなるのだろうか。なんでかな、自分の心配より教師の心配するのは。
俺の頭を掴んでいる手は飛躍的に力が入る。頭蓋骨が軋む音は何とも気持ち悪さを覚える。
そして、そのまま俺は浮いた。
決して比喩ではないことをクラスメイトが証明してくれるはずだ。もっとも俺より驚いているのはクラスメイトなので、俺が比喩ではない証明をするしかないようだ。嫌だけど。認めたくないし証明したくはないのでこのまま試合続行といこう。
足がぶらりと垂れ下がる中、俺は教室の外へと借り出される。反抗の余地無し、危険極まりないこの状況でタブーでも言ってしまえば、窓に投げられかねない。百歩譲ってそれは無いとしても、何らかの障害事件が起きそうだ。
千匣さんに連れ出され教室から離れていく事に比例して、教室のざわめきはボリュームダウンしていく。そんな小さくなるざわめきの中、俺は確かに聞こえた。
二人の笑う声と机を叩くような音が。
腕が疲れたのか、襟を引っ張り引き摺られながら俺は溜息を一つ置く。
無事に帰ったら、また谷内のボディに一発食らわすか、と強い決心しながら俺は渡り廊下は這いずられる。