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俺は生徒同士の会話で賑わう教室に着くなり、自分の机で寝るように俯いていた。
あの後、千匣さんとの息継ぎが上手くできないほどの楽しくない朝食を無理矢理させられ、挙句の果てには「新婚さん、みたいですね」と言う始末だった。それに対しては俺はただ「へぇへぇ」と返したら箸が俺の耳を翳め壁に突き刺さり、俺は静かに悟った。
タブーを言ったら俺の命日は今日なのかもしれない、と。
まあ、まだ朝食を一緒に摂るだけならよかったのだが、学校へ行こうとしている時に千匣さんは人差し指で自分のほっぺたをぷにぷにしていた。そのジェスチャーから伝わることは大体把握できた。が、俺にはそれに挑戦する勇気も無ければ、やる意味もない。俺はたった一言「早く帰れ」と言い放ち、その場を後にし学校へ向かった。
そんな朝から無駄に盛り込まれたイベントをやり過ごしたのだけれど、俺がこうして机に俯いている理由は他にある。
このように寝るように俯く前、俺の席の横で上半身裸でボディービルダーの物真似をやっている暑苦しい男がいた、という出来事さえもどうでもよくなるほど、登校から下駄箱に辿り着くまでの間、二つの不自然な出来事に見舞われた (どうでもいいと思ったが、やはり邪魔だったので暑苦しい男を足蹴りで退けたが)。
こういう場合、不自然という言葉を使ってしまってはリア充願望者どもに怒られる気がするので、敢えてこれは普通だ、と顧慮しようと思う。あくまで顧慮だ。
まず一つ目、登校中に感じる温度差のある視線だが、今日に限ってそれは感じなかった。
朝、千匣さんとのやり取りが脳に何らかの支障を与え、視線を肌で感じる力が失われた、というわけではなさそうだった。なぜなら、変にざわめく声と驚いたような表情を浮かばせていた生徒を俺は確かに見た。
あれは一体何だったんだろう、と首を傾げ、俺はいつも通りに下駄箱へと向かう。
膨れ上がる下駄箱を見つめ、またあれだよな、と嘆きながら開けると、そこには俺の上履き以外何も無かった。これが二つ目である。
日常となっていた出来事が無かったかのように消失したのだ。全く以って謎であるし、どうしてこういう事になっているのか、説明できる人間がいるのなら欲しいぐらいだった。
「おーい、コヨー」
俺の沈んだ気持ちとは真逆の嬉々とした声音で俺の名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。
もぞっと首だけを動かし、声がした方向を見るとそこには凛子が何やら嬉しそうな表情を浮かべていた。全く以って、俺と本当に真逆の顔である。
頭の両サイドに施された三つ網はスキップをする度にぴょんぴょんと跳ね、俺のほうへ近づいてくる。こういう挙動している場合、大抵俺にとって悪い知らせが飛んでくる。
本当に言い奴だ、なんて一度足りとも思ったことはない。
「……なんだよ」
俺は気だるそうに返すと、まるでクリスマスプレゼントを貰った子供のように目を輝かせ、背中をばんばんと力強く叩いてきた。
「おめでとうコヨ! 彼女できたんだね!」
彼女の一言で教室にいる生徒は一斉にざわめきだした。
ある者は額に手を当て、気分を悪くしている。
ある者は大きく口を開け、氷のように表情が強張っている。
ある者は机の下でガッツポーズをしている。
ある者は……なぜか俺を睨んできた。
そして、俺の横の席で太ももを摩って、蹴り飛ばしたダメージを和らげようとしている暑苦しい男もまた身を乗り出し俺の顔を凝視している。なんで他人の事なのに、そこまでオーバーリアクションするの? 絶滅危惧種じゃないんだけど俺。
そんな俺は思わず咳き込んだ。喉が痛くなるほどに。
「お、おい。俺は彼女作らないって言ったはずだけどな」
「またまたー。そんな謙遜しなくてもいいんだよコヨ。あんな美人な彼女いたら隠したくなるもんね、大丈夫だよコヨ。私全力で応援するから!」
噛み合わない会話。わが生涯に一片の悔いなしと言ってしまいそうに凛子は天高く腕を伸ばし握り拳を作った。
もしかして、このガセネタが広まって登校の事や下駄箱の事が生じてしまったという事なのか? だとしたらネタがある、という事は証拠も当然無ければいけない。
残念ながら俺は探偵ではないので一般以上の推理力は持ち合わせていない。ただ、気になる点だけは俺でも見抜ける。
凛子が言った"美人な彼女"というキーワードだ。
当然ながら俺には思い当たる節がない。
しかし、オーバーリアクションしていないクラスメイトがいるということはこの事を知っている、と解釈してもいいのだろうか。半数以上見受けられるわけだが、どうも釈然としない。
正直、俺の記憶の中にそういう物は無いんだけど、お前らが見たのってドッペルゲンガーじゃね? 逆に怖いわ。
「いや……マジで俺彼女いないっつーの」
「「ほ?」」
凛子と暑苦しい男もとい、谷内は間抜けな言葉を放った。
まるで本当にドッペルゲンガーを見たんじゃないんだろうか、と思わせるほど凛子と谷内の表情は間抜けでぽかりと口が開いていた。
「いやいやコヨ。こっちだって証拠があるから言ってるわけだし、コヨは確かに恋愛しないのは知ってるけどさ、この写真見てまだ言える?」
凛子は眉間に皺を寄せ仏頂面になり、右ポケットから二枚の紙切れを俺の机へメンコのように叩きつけてきた。
まるで「こっちには証拠があるんだよ!」と言わんばかり (実際に言ってるわけだけど) の警察ドラマであるようなシーンに何ら憤りを感じるわけもなく、俺は机に叩きつけられた紙切れをジト目で見ると、二枚とも写真だった。
一枚は屋上から撮ったものだろうか、夕焼けに染まるグラウンド上で野球部の姿が目立つ写真。そこに映し出されている生徒は皆、写真の中央にある生い茂る綺麗な花の花壇に挟まれた道をまるで、とんでもない物を見てるかのようだ。
視線を中央に寄せると、そこには手にバットを持った長髪の人物が立っている。その後ろには長髪の人物に引き摺られる男子制服を着た人物がいた。しかし、よく見ると引き摺られている人物は気を失っているのか、ぶらりと手足は地面に垂れている。
状況が掴めない中、二枚目の写真を見ると俺は絶句した。
それは一枚目の拡大した奴だった。長髪の人物と引き摺られている人物の顔がよく確認できた。
映し出された人物は紛れも無く俺と千匣さんの姿。もちろん、バットを持っているのは千匣さんのほうで、引き摺られているのは俺である。
昨日の告白 (と呼べるものかは知らないけど) の後、俺はバットによって気絶させられ、こうして記憶に無い醜態を晒したというわけか。めでたしめでたし、じゃねぇけどな。
どうでもいいことだけど、おい谷内。お前は何もわからないくせに悩むフリをするな。イラつくだろ。
「で? この女性誰よ?」
凛子は顔をずいずいと俺のほうへ近づけ、詰問してくる。
徐々に鼻息が荒くなってくるという事は相当興味を示している事か。周りの生徒もそうだけど、何でお前までそこまでオーバーリアクションすんの?
とは言え、これを説明するのには中々難儀である。説明するのは単純であるのだけれど、説明した後はたぶん俺はトイレへ直行するだろうね。特にその日の夜に起きた出来事を話すと……、だから名前だけを述べることにした。
「……千匣さんッス」
「センバコ? それって千円札の千に魍魎の匣の匣って漢字書くの?」
「なんで知ってんだ?」
意外、というわけではないけれど、凛子は彼女の事を知っているようだった。それもそうだ、伊達に二足歩行型台風と呼ばれるだけのことはある (呼んでいるのは俺だけかもしれない)。
「知らない方がどうかしてるよ。だって彼女はこの琴羽ヶ丘高校の理事長の娘だもん。何処のクラスに所属しているかはわからないけど、もしかしたらVIP待遇生徒だと思う」
凛子は顔を歪ませ、腕を組む。
なるほど、と俺は適当に相槌を打つ。
そう言われた所で千匣誄歌の事などどうでもいいのだ。実際、地下で監禁拷問され、挙句の果てには俺の家に不法侵入。犯罪のオンパレードをする奴と仲良くするつもりもないし、できるなら俺に近づいてほしくないレベルでもある。
あ……梅干を思い浮かべてないのに口の中で唾液が溢れてくる。……前兆だ。自らリバーストラップを踏むとは情けない。学習しろ俺。
そもそも、どうしてこの写真から「彼女ができた」と噂が立つのだろうか。どう見ても彼女とデートという定義からはみ出している光景だ。デートなんかした事がないので定義はわからないけど、と脳内辞書にそう付け加えた。
「それで何で引き摺られてんのよ」
「そ、それは……」
仁王立ちする凛子は威風堂々をしていた。
教えるまでこのままだ、と無言の圧力が掛かってくるようだ。その後ろにいる谷内もまた仁王立ちだ。お前、ここまで一言も喋ってないけど何でそこまで偉そうなんだよ。
俺は凛子の詰問に口がごもる。
何と言えばいいのか、まず何処から説明すればいいのかすら俺の頭は働こうとしない。それもそのはずだ、ここで説明した所で自らリバーストラップを踏んでしまう事が目に見えている。
絶体絶命。
今の心境を表すぴったりな四文字熟語。はて、どうしたものか。
バットで殴られる前を説明すればいいのか? それとも……××××から説明すればいいのか、どっちを説明すればいいのかわからない。
今なら『どっちの料理ショー』の参加者の気持ちが分かる気がする。困るよな、こういう状況って。いや、そっちはそっちで当たりがあるからいいけれど、こっちは最悪両方とも外れという結果だってありうるのだからお互い様ではないのか。
「えーっとですね」
俺は口を開く。
最悪の想定であるリバースを回避できる手段など無い。バットで殴られた所から説明した所でその後の聞かれてアウトだ。もし、この苦渋の選択を回避できる手段があるのなら車型タイムマシンを用意する必要があるだろう。しかし、そんな画期的な物はこの現代あるわけがない。
つまり、先述通り回避不可。でも、予想はできる。
俺がトイレでリバースしている光景が。
その後、俺の返答を待つかのように生徒は耳を立てて静まり返る教室。溜息さえ勝手に漏れるほど、みんなは俺の回答に期待している奴もいれば失望している奴もいるのだろうか。渇求すぎるだろ、それは。
俺は静かに二人だけに聞こえる音量で黒いラブレターの事から地下で監禁拷問された事を一から説明した。説明している途中、何度吐きそうになったか、両手の指では数え切れないほどだったと思う。結局俺は説明が終わったと同時にトイレへと駆け込んだ。予想通り、俺はトイレでリバースするハメになってしまった。
凛子と谷内はまあ、笑ってた。むかつくほどに。だから俺はトイレから戻ってすぐに谷内のボディに一発ぶん殴った。凛子はあくまでも女子なので、その分も一緒に谷内を殴った。計二発。
やっぱり、車型タイムマシンがあると助かると心の底からそう思う。
――パート2って何処に飛ぶんだっけ?