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四話

結局、夏休みの予定を立てるのに時間を費やしたせいで、その日の勉強時間は一時間もなかった。

勉強も真面目にしていたのはカイジくんだけで、私は解答を見ながら空欄を埋めていき、心乃ちゃんは飽きたのかピアノを弾いているし、清次郎くんは漫画をパラパラとめくりながら「ははっ」と笑い声を上げていた。


そんなある日、週二の診察でお医者さんからとある提案をされた。

「小野村さん、もし良かったら、明日から学校に行ってみませんか?」

「え?」

思わず間の抜けた声が出た。

「……学校、ですか?」

聞き返すと、お医者さんは穏やかに頷いた。

「はい。毎日でなくても構いません。週に一回でも、短い時間でも良いので」

「……」

頭の中が、一瞬で真っ白になる。

学校。

その言葉だけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる気がした。

「もちろん、無理にとは言いませんよ」

お医者さんは私の表情を見て、少しだけ声のトーンを落とす。

「ただ、許可証も取りやすくなりますし、外に出る練習としては良い機会かもしれません」

外に出る、練習。

診察室を出た後も、まだ少しだけぼんやりしていた。

そういえば、ホームに来てから一度も電話していないことに気づき、ロビーの壁に寄り掛かりながらスマホでお母さんに電話を掛けると、すぐに出てくれた。

『もしもし、理世。どうしたの?』

「あ、お母さん……元気?」

『元気よ。理世は?調子どう?』

スマホ越しの声は、思っていたよりもずっと優しくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「……うん、まぁまぁ」

少しだけ間を空けて答えると、お母さんは「そっか」と安心したように息を吐いた。

ごめんね、とかホームのこととか、話したいことが沢山あったのに、喉に突っかかって出てきてくれない。

「うん、じゃあね」

通話を切ったあと、しばらくそのまま動けなかった。

スマホを握ったまま、天井を見上げる。

学校には行きたくないけど、外には出たい。

自分でも我儘だなぁと笑ってしまう。

「理世、こんなとこで何してるん?」

聞き慣れた声に、びくっと肩が揺れる。

振り返ると、いつものラフな格好のまま、椅子に座ってこちらを見ていた。

「心乃ちゃん」

「なんぞ?」

「さっき診察で学校行ってみないかって言われたんだけど……」

「うむ」

下校途中に買ってきてくれたらしい団子を貰ったので、もぐもぐと口に運ぶ。

みたらし団子で美味しい。

「で、どうするん?」

もぐもぐと団子を頬張りながら、心乃ちゃんは気軽に聞いてくる。

その軽さが、ちょっと羨ましい。

「……分かんない」

正直にそう答えると、心乃ちゃんは「行かなくても良いんじゃない?」とあっさり頷いた。

「無理して行っても、余計に悪化するだけ」

「そうなのかな……?」

不安げに聞き返すと、心乃ちゃんは串をくるくる回しながら、少しだけ視線を上げた。

「うーん……人による、かな」

さっきまでの即答とは違って、少しだけ考えるような口調だった。

「無理して行って、しんどくなるタイプもいる。逆に、ちょっと無理してでも行った方が楽になる人もいるよね。ちなみにウチは前者」

彼女は軽い口調で串をゴミ箱に突っ込むと、自販機でジュースを買った。

「理世の学校はいつ終業式?終業式だけ行って、さっさと外出許可証を貰おう」

なるほど、修了式だけ行くという手もあるのか。

「……それなら、まだマシかも」


という訳で終業式の日、ガタガタ震える足をなんとか動かし、学校の門をくぐる。

終業式では全校生徒が体育祭に集まるので、久々に見るクラスメイトがちらほらいた。

壇上に上がる校長先生の話を、私は入り口付近で膝を抱えながら聞いていた。

話の内容なんて、ほとんど頭に入ってこない。

ただ、ざわざわとした人の気配と、体育館特有のむわっとした空気だけが、やけに重く感じる。

(……無理かも)

喉の奥がきゅっと狭くなる。

少しでも気を抜いたら、このまま引き返してしまいそうだった。

(あと、ちょっと……)

自分に言い聞かせるように、ぎゅっと膝を抱えた。

壇上から拍手が起こる。

びくっと肩が跳ねて、思わず顔を上げた。

「……」

周りを見渡す。

知らない顔と、少しだけ見覚えのある顔。

誰も、私のことなんて見ていない。

当たり前だけど、それが少しだけ救いだった。

(……あれ)

ふと、視線の端に見覚えのある後ろ姿が映る。

同じクラスの子だ。

名前は――思い出せないけど、確か前の席の子。

その子は、隣の友達と小さく笑い合っていた。

普通の、いつもの光景。

私がいなかった時間なんて、なかったみたいに。

(……そっか)

胸の奥に、少しだけチクっとした感覚が走る。

でも同時に――

(私がいなくても、回るんだ)

どこか、ほっとした自分もいた。

また拍手が起こる。

終業式は、思っていたよりもあっけなく進んでいく。

「――以上で終業式を終わります」

その言葉が聞こえた瞬間、肩の力が一気に抜けた。

本当に、終わった。

気づけば、呼吸が少しだけ楽になっていた。

周りの生徒たちが立ち上がり、ざわざわと動き出す。

その流れに逆らうように、私はそっと立ち上がった。

(……帰ろ)

それ以上いる理由も、勇気もなかった。

担任の先生に挨拶を言ってから帰ろうとした時、先生に呼び止められた。

「小野村、夏休みにクラスのみんなで遠出をするらしくてな、良ければ小野村も―――」

「……すみません、無理です」

先生はそれ以上何も言わず、「そうか、気をつけて帰れよ」とだけ言って、他の生徒の方へ向かって行く。

外の空気は、思っていたよりもずっと軽かった。

ポケットの中のスマホが、微かに震える。

取り出してみると、グループメッセージからだった。

―――どや、みんな生きてる?

―――お疲れ様でした。こっちは少しかかりそうです

―――オレは丁度終わったところだ!

私もポチポチと文字を打ち込んだ。

―――こっちも終わった〜!

そう返すと、すぐに既読がついた。

心乃ちゃんの提案で、近くの喫茶店に集まってお昼ご飯を食べようということになった。

今日はみんな外出だから、ホームのお昼ご飯止めちゃったもんね。


メッセージに添付された喫茶店の地図を頼りに歩いていくと、住宅街の半地下に辿り着いた。

喫茶店のドアを押し開けると、それに気づいた店員さんが店の奥から「いらっしゃいませー」と出迎えに来る。

落ち着いた声と一緒に、ひんやりとした空気が頬に触れる。 さっきまでいた体育館の重たい空気とは、まるで別の世界みたいだった。

「お、理世くん!こっちだ!」

奥の席から手を振っているのは清次郎くんだ。向かいには心乃ちゃんもいる。

「おつかれー」

席に着くと、心乃ちゃんがお冷やを飲んだまま軽く手を上げた。

「……疲れた」

そう返しながら、どっと力が抜ける。 椅子に座っただけなのに、身体がふわっと軽くなった気がした。

カイジくんの高校は少し遠いみたいで、まだ着いていない。

「みんなの制服姿、なんか新鮮」

「それな」

平日の昼前という時間帯もあってか、お客さんは誰もいないみたい。

店内にはゆったりとしたクラシック音楽が流れ、インテリアは落ち着いた雰囲気で統一されていて、なんだか心地良い空間だ。

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