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雪を食う

 雪を食う


 ラスアジィンニコフが死んだ。その事実はニコラスの心を揺さぶりはしたが、彼を酷く落ち込ませるほどショッキングという訳ではなかった。何故ならニコラスがラスアジィンニコフの死について、こう考えていたからだ。

 奴の著作は基本的に危険なものだったし、母上との蜜月の件だってある。死んで良い奴ではないけれど、死ぬ理由はある奴だった。

 彼にとってラスアジィンニコフの死というのは、言ってしまえば当然のものであったのだ。しかし彼とて、いくらラスアジィンニコフが自分の母親カテリーナと同衾するような人間でも、思想をばら撒いて知識人を刺激して遊ぶような男であっても、つまりラスアジィンニコフがどんなにカスであっても、彼にとっては実の父親よりも近しい、まるで育ての父であったので弔いくらいはしてやろうと考えていた。


 「家族の前だったから言わなかったけど、貴方の死体本当に酷い臭いしてましたね」


 教会の横の僅かな土地、ラスアジィンニコフの墓跡の前でニコラスは彼の葬儀を振り返っていた。


 「母上もあの後言ってましたからね、酷い臭いって」


 ラスアジィンニコフの葬儀は慎ましやかに開かれた。参列者はニコラスとヨセフとカテリーナ、それだけだった。彼は多くの人間から本当に嫌われていたのである。


 「つまり貴方は星教的には本当にミソカスな悪人だったわけですね、私にはよくわかりませんが」


 ニコラスには死体が酷く腐るから悪人という感覚がよくわからなかった。何故ならニコラスは神が世界を内包すると考えていたからである。つまり彼にとって人間の意思は神の性質の振る舞いでしかなく、ラスアジィンニコフがどんなに悪い人間だとしても彼の悪事は彼の意思によるものではなく、神の決定による悪事であり、従ってラスアジィンニコフに罪と言える罪は無いと考えていたのだ。


 「すいません、すいません」


 猫の瞳を持った女がニコラスに話しかけた。ニコラスはその瞳を見て一瞬心臓が大きく鳴った。彼女の流し目がシャルージェの流し目に似ていたのである。


 「前妻なんです、この人の」


 「既婚者だったんですかあの人…子供とかっているんですか?」


 「はい、今年で17になります。絶縁状態ですけど…」


 「…お名前を伺いしても?」


 「シャルージェ・ウリヤノフという名に御座います」


 ニコラスは開いた口が塞がらなかった。しばらくしんしんと雪が降る音だけが残り、しばらくの後にニコラスは彼女に問う。


 「ちょっと待ってください。彼女の父称ってヴィサリオノヴィチでしたよね、ヴィサリオンさんが父親じゃないんですか?」


 シャルージェのフルネームはシャルージェ・ヴィサリオノヴィチ・ウリヤノフである。つまり父称はヴィサリオノヴィチであり、これはヴィサリオンの息子を表す。


 「ヴィサリオンは今の夫です、恥ずかしながら、その、托卵なんですよ」


 ニコラスは一度自分の顔をぶっ叩いた。ニコラスは恥ずかしかったのだ、自分は彼女に自分のセンセーショナルな部分も話した、でも彼女自身の話は自分には話したくなかったんだなと理解したのである。


 「ラスアジィンニコフは知ってるんですか?それ」


 「あの人は多分、知らないと思います。父称も姓も違いますし、私から連絡も入れてないので」


 ニコラスは雪を掴んで、そしてそれを頭に被った。自分の父親と慕っていた男が自分の好意に思っている人の父親だったのだ。彼は一時的に気が狂ってしまった。


 「頭を冷やします」


 「風邪引いちゃうから辞めといた方がいいと思うけど…」


 シャルージェの実の母親は娘と同じような口調と瞳でニコラスに接した。そしてニコラスはもう一度雪を掴んで自分の顔にぶっかけた。


 「頭、冷やさせてください、だって友達なんですよシャルージェ、それで私にとってラスアジィンニコフは父親なんです」 


 ニコラスは人より発狂し易い。だから自分に降り掛かる不幸も自分による不幸も神の決定したこととして処理する為、自己防衛的な心理で神が世界を内包するという哲学を信仰したのである。


 「え、血繋がってるんですか?私の娘と」


 「ない、ないはずです、おそらく、多分」


 ニコラスは断言できなかった。何故なら自分の母親とラスアジィンニコフの蜜月を知っていたからだ。


 「その、ラスアジィンニコフが父親ってシャルージェは知ってるんですか?」


 「シャルージェは存じておりますでしょう。兄のことともありましょうが、これもあの娘が出て行った理由だと思いますから…」


 ニコラスは再び雪を被って、今度は食べた。とにかく身体の熱を下げたかったのである。彼にはシャルージェと血が繋がっているかもしれない、そしてそれを彼女が知っているという事実が耐えられなかったのだ。何故なら彼女の好きが兄弟に向けられる好きである可能性があるのだから。


 「兄さんのこと?なんですか?それ」


 「あら、あの子話してなかったの。私の‥少し待ってください、私も頭を冷やします。確かラスアジィンニコフって侍従をやってらっしゃってましたよね?それで、ラスアジィンニコフを貴方は父親のように慕っている。もしかして貴方も宮廷付きの者ですか?いや、カテリーナ王妃との噂を真実とするのならば…」


 「あぁ、私はラスアジィンニコフの下で見習いをやっておりました、親と疎遠の私にとって彼は父親なんです、それだけですよ」


 「そうですか、では申し訳ございません。彼女の兄について、私は貴方に話せません」


 「大丈夫ですよ、無理に話せなんていうつもりはなかったので」


 しばらくの沈黙の後、彼女から話し出した。


 「すいません、私はこれで」


 ニコラスは彼女の微笑みと流し目でシャルージェの顔を思い出し、そしてラスアジィンニコフの顔と自分の顔を思い出した。彼はその雑念を消す為、もう一度雪を被って食った。歯の痛みが思考による痛みを忘れさせてくれる。

前作の主人公がなんかメンタルお化けすぎたので、今回の主人公はメンタル少し弱いけど回復力が凄いみたいな感じにしてます

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