長老ラスアジィンニコフ暗殺
ラスアジィンニコフは異世界転生者である。少なくとも彼の中ではそうだ。彼はニホンと呼ばれる場所にかつて住んでおり、進んだ医療知識を享受していた。だから彼の治療は魔法に見えてしまった。それでついた渾名が魔僧ラスアジィンニコフであるが、これは彼を語る上で必要のない情報だ。
何故なら彼の本質はそこではないからである。彼の本質とは、悪辣さだ。そして彼もその悪辣さが嫌で堪らなかったので己を律する為に神父を道を志した。
そしてラスアジィンニコフは今日もあの小さな教会で神父をしている。
「星よかくあるべし」
死後の天国のへの導き、星とはかくあるべし、そして星は神と預言者と同一でありーそれらは等しく天国への導き手で、あるいは創造主である。
しかし、それを完全に理解する必要はないとラスアジィンニコフは考えている。何故なら自分がそうであったように、祈るという行為の中に内省と救いがあると考えていたからだ。
「神父様、どうしてユーロ=ルーシーの人々は貧しいのですか?」
シャルージェという女は彼にそう問いた。
彼の悪辣さとはこの部分である。彼は人の絶望する表情が好きだったし、人はそうあるべきだと考えていた。何故なら世界に不愉快な醜さが満ちれば、絶対的に美しいものの価値は確固たるものになると考えていたから。
「物質的な話で言えばこの世界に存在する人の為の物質があまりにも少な過ぎるからでしょうね。しかしそれは不幸ではないと私は考えていますよ」
「それは、何故ですか?」
「星に縋らねばならぬ程困窮している人の為に天国はあるのですからね」
「では金持ちは不幸なのですか?」
「金の為に金を求めるのであれば、それは不幸でしょう。しかし、分別をもってして貧しい人々に分け与えるのであれば、それは幸いです」
シャルージェは猫の流し目でラスアジィンニコフの山羊の瞳を見つめた。
「つまり富は分配されるべきと言う訳ですね、貴方の著作、市場論にも有りましたからね、私も同意で御座います。でもそれなら尚更おかしな話だと思いませんか?富が分配されるべきであるのであれば、教会は魔王の存在を擁立するべきではないし、むしろ打倒するべきだ」
「愛のない施しは役に立たないのです」
「貴方は主流でないから間違っているのかもしれないけれど、それが教会としての考えであるのであれば、私は教会も打倒しなければならないでしょうね」
シャルージェは全ての富は国家によって分配されるべきだと考えている。その為には魔王も魔王を擁立する教会も打倒されなければならない。でもその反面、ニコラスのことは本当に愛していた。だから、自分によって彼が不幸に前に最大限の幸せを享受して欲しいと思っていたのだ。
「…シャルージェさん貴方は下級とは言え貴族階級の出身でしょう?どうして魔王の恩恵を享受してきた貴方が、どうしてです?」
「私にノブレス・オブリージュの精神を与えたのが魔王カノンノフだとしたら、それを奪ったのも魔王カノンノフです。ただ、それだけのことで御座います」
ラスアジィンニコフは少し笑う。彼はシャルージェに対して他の王室の同じく、危ない女だと思っていて、ニコラス坊やは見る目がないなぁとも同じく思っていた。そしてこの結果がこれだ。本当にニコラス坊やには見る目がないと、面白がったのである。
「どうしたんです?神父様」
「いやニコラス坊やが可哀想で面白くなったんですよ。だって貴方にアレクサンドル様に、あの人は変人にしか好かれない。もうそれが面白くて」
「私は貴方にコーリャが好きなんて言ってないはずですけど」
「割と有名ですよ、だってニコラス坊やが婚姻話を断ってて、それでどことも知らぬ女が彼の部屋に招かれていたらそれしかないでしょうよ」
彼の言葉に少し彼女の頬が少し緩んだ。
「そうなんですか、コーリャ結婚断ってたんだ、私の為に」
この女案外可愛い所あるんだなと彼は思った。
「その、彼はなんて言って断ったんです?」
「カテリーナ様から聞いた話なんですが、確か思い人が居るからと断っていたらしいですね」
「それで断れるもんなんですか!?」
シャルージェは一歩前に出てそう言った。
「魔王様はニコラス坊やにだけはお優しい方ですからね」
その後しばらくの談笑が続いた。それは本当の本当に談笑であり、老人の少女の他愛のない会話だった。故にラスアジィンニコフはこの少々に少しの興味を持ってしまったし、ニコラスがこの少々を好きになってしまった理由に納得した。
この女は男にこの女ならば寄りかかられても構わないと思わせる魅力を持っている、だからニコラス坊やはこの女に惚れてしまったんだろうと。
「うん、聞きたいことは聞けました。では私はこれで失礼させていただきます」
しばしの談笑が終わり、彼女は大雪の降る街の中に消えていった。
「神父様、ラスアジィンニコフ様はいらっしゃいますか?」
「珍しいですね、一日何人も来るのは珍しいのですか」
軍服を着た男は雪を払って教会に入る。
「アレクサンドル様からで御座います、日頃の礼ということで」
「これは…ワインですか」
ラスアジィンニコフは包みを確認してそう呟いた。
「宜しければご一緒しませんか?おそらく言い値のする高級なワインでしょうし」
「良いですね、そうしましょうか」
ラスアジィンニコフは軍人を教会に招き、教会に備え付けられた埃臭くて薄暗い備品部屋を適当に片付けてそこを晩酌の場とした。
「それで、このワインは何年モノですか?」
ラスアジィンニコフはワインのコルク部分を見てそう言った。彼はこの新しすぎるコルク部分に違和感を感じていたのだ。
「30年モノです」
「そうですか、ではボトルオープナーが必要ですね。確かこの辺にあったはずなんですが…」
ラスアジィンニコフはガラクタの山の中を漁る。
「教会なのにボトルオープナーあるんですか?」
「星体拝領の際にコルクが折れてしまった時用ですよ、普段から酒を嗜む訳ではないです」
嘘である。ラスアジィンニコフは生草坊主であり、よく酒を嗜んでいる。何故なら酒を飲んでいる時だけは己の悪辣さを忘れられるからだ。
「当然ですよね、星教の神父様がそんな生草であったら、私は天国を信じられなくなってしまいます」
灯りとして用いていた蝋燭の火にポートトングを近づけて加熱する。そしてそのポートトングをボトルの首に押し付けた後、窓を開けて外気で冷やす。
「なんか、無理やりですね」
ポンっと音を立ててワインの首は飛ぶが、ラスアジィンニコフは敢えてそれを無視した。何故ならあの新品すぎるコルクを見た時点で毒が入っていると理解したからだ。
「開いてますよ、神父様」
「申し訳ございません、最近難聴でして」
ラスアジィンニコフは考察する。
おそらく毒物を入れるなら青酸カリだ。それが一番メジャーであるし。しかし青酸カリをワインに入れるとなれば少々問題が生じる。この深い赤ワインは色的にPHは4くらいで酸性だ。つまり青酸カリと混ざればシアン化水素ガスが発生する。
要はこう言うことだ。
アレクサンドル王子がこれを理解していなかった場合、致死量に至るまでの青酸カリがこのワインの中に入っていない可能性がある。何故ならシアン化水素ガスになって一部消えたから。
「さぁ、飲みましょうか」
グラスにワインを注ぐ。ラスアジィンニコフは賭けに出た。グラスの下部分を手で覆いながら半分飲んだのだ。
「良いワインですね」
軍人はラスアジィンニコフの変わらない表情に顔を強張らせて恐怖した。
どうしてこの男は毒を含んで死なないのだ?どうして?
軍人の疑問の答えはこうだ。ラスアジィンニコフは半分を飲んだが、もう半分を立派に携えた口髭に含ませたのである。
「飲まないのですか?」
ラスアジィンニコフは心の中で勝利を確信する。
やはり予想通りアレクサンドルとその部下は酒に詳しくない。当然だ、禁欲主義を貫くアレクサンドルにとって酒の分野はとても疎いだろうから。
「…化け物め」
しかしラスアジィンニコフの確信とは裏腹、軍人は怖くなって銃を抜いて彼を撃ってしまった。石造りは音を反響させて2発の弾丸が無数に撃たれたように感じさる。
「ま、まじか…」
ラスアジィンニコフは先ほど開けた窓から逃走する。下は深い雪になっており、落下による衝撃を吸収して、寒い大気は銃創を冷やし血を凍らせて止血させる。
「待て!待て!」
雪の中を転びながら走る背中を軍人は追いかける。静かな雪景色の中、パンと高い音が数発を響いた。何発か彼の背中を貫くが、今年の春は特別寒く厚着をしていた為致命傷には至らなかった。しかし、老人の足を止めるにはそれで十分であった。
「くそ、くそ」
「終わりだ、ラスアジィンニコフ」
ラスアジィンニコフは最後の力を振り絞り、近場の川に落ちた。冷えた川が彼の垢と悪辣さを洗い流してゆく。
「ごめん、カテリーナ。俺は…」
2日後、ラスアジィンニコフは140m離れた岸辺で発見される。死因は溺死であった。
今作結構展開早目になるかもしれません。




