犬科ルスラーン
犬科ルスラーン
霧と塵の中の戦争はまさしく蹂躙と呼ぶのに相応しい戦いだった。敵の指揮系統は砲撃でぐちゃぐちゃになっていて戦闘の継続はおろか撤退の指示すら出せない程になっていたのである。
そんな中、ルスラーンは地面に落ちた手紙を読んでいた。
「見てくださいよ伍長、これ酷くないですか?」
手紙にはこうあった。
マレンコフ夫人に関する不倫の疑い調査証。
「本当に酷いな確実に士気を下げにきてる」
この戦いは味方との戦いである故、ミハイルは情報部に偽の不倫調査証を作らせた。
「嫌らしいっすよねぇ」
敵の嫌がる事はとことんやる。そうしたら救える味方が増えるから。それがミハイルの戦略の一つであった。しかしルスラーンにはそんな難しい事はわからない。何故ならヅィベリエンハスキーであるし、その上で祖父方からサモエドの血を受け継いでいるのだから。つまり本能的に鈍感で天然なのだ。
「ルスラーン、後ろ!」
穴の中で伏せていた敵兵が銃口をルスラーンの背中に合わせた。
銃の閃光が霧の中で光る。しかしルスラーンは獣族の血による反射速度で辛うじて避ける事ができた。
「投降してください、そちらの軍に勝ち目はありません」
元農夫であった彼はルスラーンの提案を無視して喉に刃を突き立てた。ルスラーンの優れた視力はそれを見逃さず彼は自殺を止めに入ろうとした。しかし伍長は飛んで行こうとする彼を掴んで止めた。
「死なせとけ。多分その方がいい」
伍長はこの度の戦争についてこう読んでいた。
予備の予備まで人間と砲弾を投入すれば攻勢はできてもその後の防衛はできない。つまり占領地を防衛する必要がないという事であり、その様な状況になる得るのは二つの場合しかない。
一つは敵首都の早期攻略による内戦終結を狙った物。でもそれをやるなら南方軍ではなく主力たる北方軍でやるべきだ。ならばこの場合は残った一つ、南方軍の構成そのものもが揺動であるという物だ。
「な、なんでです?」
伍長はミハイルの戦略を読み切ったからこそこの男を捕虜とせずそのまま自殺させる事にした。何故なら南方軍が揺動であるのなら、これから行われるのは敗退を装った地獄の戦略的撤退であり、捕虜を慮る余裕なんて無くなるだろうと分かっていたのだから。
「腹減って凍えて死ぬのとここで喉掻っ切って死ぬの、どっちが楽かくらいわかるだろ」
ルスラーンは何も言えなかった。彼は大食いである故、腹ペコの辛さというものは誰よりも知っている。
「こんなの…」
ルスラーンの感覚は純然たる人間の何倍も鋭い。だから動物だけでなく、人間の気持ちもわかってしまう。同胞に銃を向けてしまった自分への失望と世界に対する絶望に苛まれて自死を選んだと分かってしまったのだ。
「ルスラーン、お前は正しい。だから死ぬなよ」
「分かってます」
その後、南方軍は更に東へと進んだ。大地を荒地にしながら、人の命を塵として進んだ。そして世界最大の湖、裏海にまで辿り着いたのである。
「まるで海みたいだ」
ルスラーンは秋の中頃の湖の冷たさを足に感じながら、自分の毛を薙ぐ風の中で黄昏ていた。
「あんまりそこにいると風邪引くぞ」
ルスラーンは小さな時から水遊びが好きだった。夏となれば毎日家の辺りある川に毎日行ってバシャバシャと遊んで、濡れたまま家に入ってしまうから良く母親に怒られた。だから今も今すぐ服を脱ぎ捨てて湖に入りたいと思っていたし、なんなら伍長をこの湖に放り投げてやりたいなと思っていた。でも軍事行動中なのでそれもできないし、今はその様な気分ではない。
「伍長。これからどうなるんですかね?」
例え鈍臭い犬であっても、これ程までに人と砲弾を消費すれば気付いてしまう。この戦いは負けるのかもしれないと。だから彼は遊びの気分ではなかったのだ。
「分からん。でもきっと、なる様になってくれるだろうさ」
「なる様に、ですか。それって伍長やみんながチュロスって国に帰れるって事ですか?」
「あぁ、多分な」
「そりゃ、そりゃいいですね」
彼は犬である故、リーダーや上司であるマルタや伍長に従うという事を至上の喜びだと思っている。だから彼らの宿願が果たされる事について、白分の宿願が果たされると同等の喜びであると思っているのだ。
しかし人間としての彼は違う。この犬にも自分の願いというものがあるのだ。ただ、自分で知らないだけで。
「ルスラーン、俺の予想が正しければこの後は厳しい戦いになる」
厳しい冬が来たる。戦士ルスラーンはこの冬において戦死する。




