卑怯者ニコラス
卑怯者ニコラス
彼女もまた猫の瞳であり、彼の一部始終、つまり自殺未遂をしっかりと見ていた。その上で彼女は少し嬉しいなと思っていた。
「何したのさ、大体は予想つくけど」
彼女は濡れる事を躊躇わず、川で蹲っている彼を抱き締めた。震える身体を撫でて手を握る。
「シャルージェ、僕、殺したんだ、人。僕はクズなんだ、生きてちゃいけない、善く有ろうとした矢先に人殺しになったんだ!」
彼女は驚かなかった。何故ならいつかはこうなると常々思っていたからである。色恋紛いの言動を常日頃からしていて女も男も泣かせていたら、いつかは背中刺されるかあるいは自分から刺すことになるだろうなと考えていたのだ。
「そう、なら貴方は死ぬべきだね。自分の手で他人を終わらせたのだから自分の手で自分を終わらせるべきだ」
彼女は先ほど彼が捨てた石を再び手に握らせた。
「さぁ、やるんだよ。きちんと死んでね」
彼の心臓の音を猫の聴力で聞き取る。ドクン、ドクンと音が大きく速くなるにつれて彼女の中の自分に対する嫌悪感も強くなる。
私はこんな方法でしか好きな男も振り向かせられないのか。
「…できないよ」
彼の両手からころっと石が落ちる。再び彼女は彼を抱き締めて優しく背中を撫でた。
「ならニコラス、貴方は正真正銘の卑怯者だ」
「そうだ、僕は、僕は卑怯者なんだ。自分の犯した罰を贖うこともできない。僕は、僕はどうすればいいんだ」
自分の胸で泣いている愚かな男に彼女は母性的な感情を抱いた。しかしその感情すら彼女を損なう物でしかなく、再び彼女は自己嫌悪に陥る。
これでは母親と同じだ。
「そうだね、じゃあちょっと着いてきてよ」
暗い夜道を暫く歩いてカノンノーヴィ(カノンノフの貧民窟)と呼ばれる建築様式の煉瓦のアパートに辿り着いた。そしてカツンカツンと音を響かせながら階段を登り3階のシャルージェの部屋に入る。
彼女の部屋は入居したまんまというような具合で、ハンガーラックに服が掛けられていたり台所に調理器具がある事を除けば生活感があまりしない部屋だった。
「お風呂入ってきなよ服は私の置いとくから」
「ありがとう、ありがとう」
彼が風呂に向かったのを確認してから彼女はエプロンをして台所に立つ。
牛肉に塩と胡椒と小麦粉を塗してからコンロに火をつけて鍋で下焼きをする。肉の表面がよく焼けたら一旦肉を取り出し、玉葱と人参やマッシュルームを切る。そして先ほど肉を下焼きしたおかげで鍋に肉の旨みが残っているのでこれを野菜の水分でしっかりと溶かす。次に先ほど下焼きした肉を投入し、赤ワインを投入する。そこにトマトソースとバター、蜂蜜、ローリエを入れてじっくりと煮込む。
煮込み時間の30分、彼はというと座って入るタイプの浴槽で体育座りをして身体を温めていていた。
湯気の中、フョードルに掴まれた肩とあの男の血がついた頬に何度も何度もお湯を掛ける。その行為をしてるうちに自分の行動の間違いに気づく。
フョードルは自分を穢した訳ではない、穢されそうになっただけで。むしろフョードルの命を穢したのはニコラスであり、彼も彼でそれを自覚していた。そして自覚していたのにも関わらずフョードルの影を洗い落とすことで罪から逃れようとしている自分に失望している。
しかし、フョードルは確かにニコラスを穢していた。彼の尊厳を踏み躙ったということは事実であるのだから。しかしまた、フョードルの命を彼を穢したという事実もまた忘れてはならない。
特に、彼本人にとっては。
「風呂、ありがとう」
自信なさげな声とネグリジェを着た姿、そんなニコラスを見て彼女は少しムカついた。呆れた程可愛かったのだ。自分よりも何倍も。そして同時にこのような感想も抱いた。
この見た目でいつも人を口説くような口調で話すんだから勘違いされても仕方ないでしょ。
「ちょっと私もお風呂入ってくるから待っててね」
数分ほど経って彼女が戻ってくる。彼女はお皿に先程の牛肉の赤ワイン煮込みをよそってパンも用意する。それらを食卓に置いてから食器と水を用意して夕飯の支度が終了した。
「食べよっか」
二人は向かい合って座る。トマトのいい匂いに包まれる中、ニコラスはスプーンを震わせてただトマトスープの赤さだけを見ていた。
「ごめん、シャルージェ。食べれそうにない、なんか、手が動かないんだ」
彼も頭ではわかっていた。これはただのスプーンで、そしてこのトマトスープはトマトスープであると。しかしあの光景がフラッシュバックして肉体があの時に戻ってしまっているから動けないのだ。
「そう、食べさせてあげるよ」
彼女はパンを千切ってトマトスープに漬けて彼の口に放り込んだ。彼は自分で食すらままならないのかと惨めな気持ちになっていたし、何よりそんな自分によくしてくれる彼女に心の底からの信頼を置きそうになっていた。しかし完全にそうはならなかった。何故なら今のニコラスは世界を強く拒絶していて、他人を理解すること、ひいては自分を理解することに恐怖と嫌悪を抱いていたのだから。
「ありがとう、シャルージェ。美味しいよ、すごく」
しかし恐怖や嫌悪などの強い負の感情の裏腹、トマトの酸味と肉の旨味、炒め野菜とほのかな蜂蜜の甘みで安心感という若干の暖かな感情を覚えていた。多分それは、彼の肉体が生きたがっているからなんだろう。
「でしょ、私料理には自信あるからさ」
しばらくして料理を食べ終わり、二人はベッドに座ってしばらくゆっくりすることにした。
「なぁ、シャルージェ。なんで君は僕にこんなによくしてくるんだ」
「貴方のことが好きだからかな?」
「それは、どうしてなんだ」
彼女は彼の手を握ってから答えた。
「貴方に私の嫌いな私を押し付けてるうちにさ、私の嫌いな私が貴方を好きになってしまった」
彼女はつくづく女であった。母親と同じように。
「そうか、君もそうだったか。でも今更か」
そして彼もまたあの母親の子であり、シャルージェという破綻した人間を受け入れた。
「ねぇ、今日は一緒に寝ようよ。ここ断熱性ないからさ」
「君が望むのならそうしようか」
この晩、二人は同衾した。ただ互いに抱き合って寝た。大義の為に自分という存在を外部に吐き出さなくてはならない彼女にとって彼は必要だったし、食事も一人でままならない彼は彼女を受け入れざるを得なかった。
ただそれだけである。
アパートのモデルはフルシチョフカなのでこれができるのはだいぶ後すね




