男の娘ニコラス
男の娘ニコラス
「ごめん、私は今になって自分が如何に薄情な人間なのか自覚した。だから覚えてないんだ、君のこと」
ニコラスは先ほどまで他人に興味がなかった。だから彼の名前も彼とどこで出会ったのかも憶えていなかった。
「え…私ですよ、あの夜踊ったじゃありませんか。フョードル・セルゲーエフです」
栗毛の髪にまだ幼い印象を感じさせる顔。ニコラスは猫の瞳は色をはっきりと認識できないが、それでもやっと理解した。目の前にいる青年があの時自分と踊ってくれた青年であると。
「あぁ、君はあの時の振り回し過ぎる人か。それで君はどっちなんだ、ヨセフ兄の世界を生きやすいと思えるのか、それか…」
フョードルはニコラスの言葉を何度も咀嚼してから答えた。
「そうですね、魔王ヨセフの思想には私も共感します。無政府主義とか農村共同体中心社会とか、あるいは無神論とか、その辺の小難しい事ではなく、やりたいようにやると言う単純な部分に深く同意します。だから私はやりたいようにやる、それで今やりたい事というのは貴方の脱走を手伝う事なんですよ」
「それは、なんでだ」
「魔王ヨセフは個人的に好かない、というよりも魔王ヨセフとはユーモアセンスが合わない。私には国がたくさんあっても地図描くのが大変だねって感想しか出ないんですよ。でもヨセフは魔王だから従わないとならないし、ヨセフの言っている事も一理あると思ってしまっている。だからせめて嫌がらせをしようかなと」
「なるほど、そういうことか。ならば私を連れて行け、嫌がらせがしたいんだろ?」
ニコラスはフョードルの鍛え上げられた大きな手を取った。自分の手とは違う、血管の浮き出た岩のような、安心感を与える頼り甲斐のある手だった。
「この男を移送する、魔王からの急命だ」
部屋前の衛兵は敬礼をして二人を見逃した。そしてそのままチェルーヌイ宮殿を出て、彼の留めた馬車にまで辿り着いた。
「凄いな、こんな簡単に」
「私は信頼されてますからね」
代々セルゲーエフ家は辺境伯として極東の大国中蓮との国境を守護してきた。故に戦人のヨセフは彼を信頼している。ヅィベリエンの厳しい気候に首を絞められながら200年もロマリク家を裏切らなかったのだから。
「足元にお気を付けください」
二人は馬車に乗り込み、並んで座る。御者は覗き窓から二人が乗ったのを確認して馬を走らせた。
「その、そろそろ離してほしい、かな。ちょっと痛いよ」
ニコラスは未だに強く握られている手に痛みを覚え、手の主人の顔を見た。フョードルの瞳はあの時のヨセフのような恍惚とした物であり、ニコラスは今まで他人に対して全く抱けなかった、生き物としての根源的な恐怖を彼に抱き、猫の瞳の瞳孔が大きく開いた。全身の血が一気に引いて肌が寒くなる、でもそれなのに身体の内側は熱を持っていて背中から汗が吹き出る。
しかし体感の熱量とは裏腹、彼の心臓はどんどん静かになる。筋肉は凍り付いたように萎縮して動かない。
「これはこれは、申し訳ございません」
ニコラスは何も返さなかった。いつもの饒舌さを失って、何故という言葉だけが頭を埋め尽くしていた。
彼は他人を興味を持とう、そう思った結果人並みの感覚を覚えた。故に自分に向けられる劣情を初めて見てしまって恐怖したのだ。
「ニコラス様?どうしたんです?」
「…ご、ごめん。なんか、いやなんでも無い」
ニコラスは両手で顔を覆いながら天井を仰ぎ見た。彼は自分の感情を、自分の恐怖心を自分に対して説明できなかった。だから言いようの無い不快感に襲われている。
少し経ってカノンノフグラード郊外に建てられたセルゲーエフ家の別荘に辿り着いた。
「よく手入れがされた庭だね」
カチューシャ宮殿程とは言わないが、大公爵の本宅と比べて見劣りしない程立派な豪邸である。よく整備された芸術的な庭と冬に水を出し忘れたせいで管が壊れてしまった噴水を後にして屋敷に入る。
「お帰りなさいませ、旦那様」
巨大なシャンデリアのぶら下がる玄関口にて、カエルを思わせるような頬の広さと低く大きな鼻、平たい瞳を持った婆さん召使いが深く礼をしてフョードルのコートを預かった。そしてフョードルはその老婆に何かを耳打ちした後、ニコラスのコートを預かった。
「ちょうどお湯が沸いたようです。ご入浴になさりますか?」
「君の言葉に甘えたいが、その、一つお願いがあるんだ」
「と、申しますと?」
「一人で入浴させてくれ、お願いだ」
ニコラスはさっきのこともあってこのフョードルという人間に恐れを抱いてしまっている。故に男なんだから一緒に入ろうと言われるのは嫌だったし、何よりニコラスは自分に一人の時間が必要であると強く思っていたのだ。
「当然でしょう、私はお湯代が勿体無いとかケチケチするつもりはないですよ」
「そうか、ありがとう。君には助けられてばかりだ」
ニコラスの若干の憂い顔見下ろすフョードルはまだしてもこの男に良くない欲求を抱いた。いや、彼は良くない欲求だとは思っていない、ただ自然的な欲をニコラスに抱いた。
ニコラスは婆さん召使いに連れられ大浴場に向かった。
「では、お着替えをお持ちして参ります故」
ニコラスは一人となり、脱衣所に入る。彼は鏡の前で自分の着ていたニコラス王子を王子たらしめる服を脱ぎ捨てた。
彼の肉体は呆れるほど美しく一流の彫刻家が素材を厳選した上で主と星の啓示の下に造られた完璧な美を持っている。何故なら彼の肉体は下半身にある男たる証拠を見なければ女のそれとも男のそれとも取れる、極めて中性的な肉体であり、雌雄同体、完成性を帯びているのだから。
しかし彼はこの時ばかりは自分の肉体を恨んだ。
彼も薄々察しているのだ、フョードルの瞳を見て、ヨセフの瞳を見て、そして何より自分の姿を見て。自分の肉体があまりにも美しく女らしく、男をその気にさせてしまうような肉体であることを察してしまったのである。
「身勝手だよ、皆」
それは彼の空っぽな心から吐き出した呟きであった。
彼は大理石の柱に囲まれた浴室、桶でお湯を掬って自分の身体にかける。タオルを石鹸で泡立てて、自分の肉体を強く擦った。特にあの時握られた手を強く擦った。あの瞳とあの力を忘れるように努めたのだ。
泡を流してお湯に浸かる。二十分ほどして、少し眠気を感じたのか、彼は浴槽から出て脱衣所で身体を拭いた。
「なんだ、これ…」
彼の服として用意された服の胸元には白色のハイネックリボンが付けられており、そして下半身はズボンではなく、縦縞の入った緑色のスカートだった。
「あの!間違えてます!」
彼はドアを叩き叫んだ。するとドアの向こうから先ほどの婆さん召使いの声が聞こえた。
「合っております、貴方様がこの屋敷に滞在したとなればフョードル様がお困りになるので、偽装として女装なさってくださいと」
「そんな…」
この後落とします




