不細工は密室で呼吸も慎重になる
エッセイっぽく書いていますが、内容の九割九分はフィクションです。
残りの一分は、たぶん気のせいです。
結局、もてるやつは顔だよ。
いや、金だよ。
いやいや心だよ。なんていう。
どれも僕には縁がない。顔は不細工。貯金は雀の涙。心はといえば、もって生まれた自尊心というものを母親の腹の中に置き忘れてきたらしい。
だから世の中の女性の半分は詐欺師だと思い込むことでバランスをとっている。少なくとも自分に「ちょっと興味ありげな素振り」を見せる女性は、ほぼ百パーセント詐欺師だと疑ってかかる。そうでもしないと生き延びられない。
あの日は、会社で「備品のインクカートリッジを買ってこい」と命じられた。百貨店へ行くことなど年に一度あるかないかだ。
夕方五時。フロアはまだ平日の営業時間で、買い物客もまばらだ。
僕はエレベータホールに立った。待機していたのは大型のキャリアケースを二つ引きずる女性一人だけ。スレンダーなのに胸元にだけ驚くべき質量。Tシャツにデニム、大きなサングラス。どこかで見たことがあるような──。
ドアが閉まり、二人きりになる。
数字のパネルを見るふりをして彼女の名前を思い出そうとした。雑誌の表紙か、スマホ広告か。そうだ。「瀬名あかり」。グラビアアイドル。本物? いや、他人の空似だろ。
ゴウン──。
鈍い異音と共に、エレベータは三階と四階のあいだで動きを止めた。天井の蛍光灯が瞬き、すぐに非常灯が赤く点く。
「……あれ?」
彼女──瀬名さんかもしれない人──が呟いた。
僕は反射的に息を止める。ここで不用意に声を出したら「不審者の第一声」になりかねない。
ピンポーン。アナウンスが流れるはずのタイミングで、スピーカーからはザザッとノイズだけ。
うわ、マズい。完全停止。そして密室。しかも相手は芸能人級の美女。最悪の組み合わせだ。
*
決めた。僕は何もしない。話しかけない。疑われる隙を一ミリたりとも作らない。
距離を取るために、扉側へじりじり寄る。踵が壁につくぎりぎりの位置。腕は体側にぴたり。拳を握れば脅迫。開けば痴漢未遂。半開きで固定するのが妥当か。
照明がふっと落ち、非常灯も消えた。停電。視界ゼロ。
鼓動が耳の奥で破裂しそうだ。汗が背中を伝う。彼女の気配がわずかに揺れる。近づいた? いや、錯覚だろう。暗闇で錯覚を信じたら終わりだ。
深呼吸、厳禁。息が首筋にかかったなどと言われたら人生終了。鼻から三分の一、口から三分の一、残りは皮膚呼吸でしのごう。
「……あの」
彼女の囁き。ビクリと肩が跳ねた。
返事をしたら負けだ。詐欺師に反応してしまった時点で主導権を渡すことになる。ここはフル無視。それが安全策。
「……大丈夫ですか?」
重ねて問いかける声。震えている。演技? 本気?
ここで一つの仮説が浮上した。彼女こそ「困った男に言い寄られる被害者役」を演じて、慰謝料をせしめるプロなのではないか。証拠写真用にスマホのカメラを構えていてもおかしくない。
しかし光はない。ならば録画もできない。いや、夜景モードという便利機能がある。油断禁物。
「聞こえてますよね?」
さらに踏み込んでくる。早くも追い込まれた。無言は逆効果なのか? かといって「聞こえてます」と答えた瞬間に「今から何かされそうになった」と録音ボタンを押される可能性が──。
脳内でシミュレーションを千通り走らせた結果、最小限の音節を選択した。
「……えぇ」
蚊の鳴くような肯定。これ以上は喋らない。
短い沈黙。遠くで金属の軋む音。エレベータは動かない。
代わりに、彼女がバッグを探る微かな衣擦れが響く。ライトを取り出したのか、足元に弱い白光が生まれた。スマホの画面だろう。
その光を僕に向けず、彼女自身の膝あたりへ落としている。僕は真正面の闇に向かい合ったまま視線を固定。決して顔を照らさせるな。
「私、暗いところ苦手なんです」
知らん。得意だろうが苦手だろうが関係ない。
「スマホ、圏外で……助けてもらうにも時間がかかるかも」
助けてもらう? 誰に? 僕以外の人間に決まってる。つまり僕は不要物。了解です。
「もし長引くなら……その、寒くなるかもしれませんね」
何が言いたい。毛布もない箱の中だ、確かに冷える。けれど“その”の後に続く言葉を想像するな。距離は保つ。絶対に。
すると彼女の足音が二歩ぶん、こちらへ滑ってきた。靴底が僕の革靴に触れないギリギリで止まる。闇の中、十センチ先に膝がある計算だ。
叫べ。職務質問だ。通報だ。
だが彼女は静かに座り込んだ。床にぺたりと腰をつけ、両脚を抱え込む姿勢。泣いている? まさか。芝居じゃないのか?
僕の喉がかすかに鳴った。これは生理現象であって、同情とか興味とかではない。
「……怖がらせてごめんなさい」
突然、謝罪が飛んできた。意味が分からない。怖がっているのは君だろ。
「あなたの方が、きっと怖いですよね」
何を言っているんだ。怖いのはお前の次の一手だ。
「知らない人と狭いところで閉じ込められて、不安ですよね」
そこで初めて気づく。もしかして彼女は本当にパニックになっていて、同じ状況下の僕を気遣おうとしているだけなのか? 詐欺師にしては回りくどすぎる。そもそも僕なんかをハメても利がない。
それでも即座に信用へ舵を切るのは危険だ。最後まで疑え。それが生き延びる鉄則。
「えっと……私は瀬名あかりと言います」
やはり本人だったか。
「モデルと、バラエティに出たりしてます。今日は撮影帰りで……変装とか苦手なのでバレバレでしたよね、多分」
段取り良く身の上を明かす。ここまでオープンにする必要はあるのか? 有名税で慣れているとはいえ、初対面の冴えない男に詳細を語るメリットは皆無。
「あなたのお名前も伺っていいですか?」
拒否すれば角が立つ。だが答えれば個人情報を与える。リスクとベネフィットを天秤にかけ……ベネフィットがゼロだったので、最短で名乗ることにした。
「佐伯……といいます」
「佐伯さん」
妙に柔らかい声色で復唱された。鳥肌が立つ。苗字を呼ばれただけでときめくほど安い男ではないつもりだ。きっと冷房のせいだ。
そこから十五分ほど、沈黙が続いた。実際はもっと短かったかもしれない。耳が痛いほどの静寂の中で、彼女が小さなくしゃみを漏らした。冷気で肌が粟立ち、僕も同時に肩を震わせる。
もういいんじゃないか?
善意を装う罠かもしれないが、ここまで来て「凍死しました」では寝覚めが悪い。僕はゆっくり右手を持ち上げ、ジャケットの裾を摘んだ。左手は使わない。両手を使う動作は攻撃と見做される恐れがある。
ジャケットをそっと剥ぎ取り、足元の闇へ滑らせる。布地がコツンと何かに当たり、止まった。
「よかったら……」
声にならない囁きが漏れた。届いたかどうか分からない。
闇の向こうで布の擦れる音。彼女がジャケットを拾い上げたらしい。
「……ありがとう、ございます」
礼を言われると途端に後悔が押し寄せる。恩を売った形になり、それを盾に関係を迫ったと逆手に取られるパターンがある。終わった。僕の浅はかさが招いた追加リスク。
しかし次の瞬間、袖を通す音ではなく、畳んで膝に載せる気配を感じた。着ていない? 防寒より証拠品として確保しておく算段か?
考えすぎだ、とどこかで冷静な自分が呟いた。人をすぐ犯罪者扱いするのはやめろ、と。
救助隊が到着したのは、そこから十分後だった。
懐中電灯の光が差し込み、まず目に飛び込んできたのは制服姿の消防士、続いて担架。非常扉がこじ開けられ、生暖かい空気が流れ込む。
「怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫です」
声が裏返った。羞恥よりも安堵が勝る。
瀬名あかりは僕のジャケットをきちんと畳み、両手で差し出してきた。膝掛け代わりに使ったのか、僅かに皺が増えている。
「ありがとうございました。助かりました」
至近距離で見る瞳は、驚くほど澄んでいた。薄い化粧越しに血の気が戻りつつある頬。テレビで観る数倍は人間らしい温度があった。
受け取ったジャケットは温かい。彼女の体温だと思うと急に触れづらくなる。慌てて袖を通すと、微かに甘い香りがした。嗅いではいけないものだ。脳がざわつく。
消防士に促され、非常階段へ降りる。ヒールの低いパンプスで彼女が慎重に一段ずつ進むので、自然と僕が先を行く形になった。背中に視線を感じながらも、振り返らない。
地上に辿り着くと、夕焼け色の照明がビルのガラスに映っていた。往来のざわめきがやけに大きく聞こえる。日常への帰還だ。
「では、これで」
僕は九十度のお辞儀をして、逃げるように歩き出す。長居は無用。SNSにタグ付けされる未来など御免だ。
「あの!」
背後からの呼び止め。心拍が再び跳ね上がる。借金の申し込みか、番号交換か、あるいは警察同行か。
恐る恐る振り返ると、瀬名さんはエントランスの庇の下に立ち、両手で小さな紙片を掲げていた。名刺サイズのカード。表面には「感謝」とボールペンで書いてある。裏には電話番号でもメールアドレスでもなく、「無事に帰宅できましたら、今日のこと忘れてください」と添えられていた。
思わず眉が緩む。忘れてくれ、と書いて忘れてほしくなさそうな文面。矛盾している。だけど嘘はないように感じた。
「……分かりました。じゃあ、全部忘れます」
聞こえているかどうかも分からない小声で返事をし、紙片を受け取らずに頭を下げた。彼女は微笑んで、手を振った。
僕は足早に百貨店を離れ、駅までの道を歩く。手帳の切れ端みたいなカードがポケットに入っているわけでもないのに、右胸の辺りがじんわり熱を持っている気がした。
恋愛沙汰になどならない。連絡先もない。ただ、ほんの少しだけ世界との距離が縮まった夜だった。
結局、もてるやつは顔だよ。
いや、金だよ。
いやいや心だよ。なんていう。
顔も不細工で金もなく自分に自信のない僕は、明日からもやっぱり、自分に気のある素振りを見せる女性はほぼ百パーセント詐欺師だと思っている。
だけど万一、本当に困っているだけの人がいたら――そのときは迷わずジャケットくらいは貸せる男でありたい。
そんなことを考えながら改札を抜け、地下鉄のホームへ降りた。電車が入ってくる風が、まだ火照った頬にひやりと気持ち良かった。




