76 「仮面の歌が呼ぶ名」
会場に沈黙が落ちた。
まるで天井が崩れ落ちたかのように。
グラスの音、椅子の軋み、息づかいさえも。
すべてが静寂に飲み込まれた。
歌姫が口にした「ナギ」という名は、まるで首都の喧騒を一掃した。
空間に残ったのは、彼一人だけ。
「…な、なんだ今の…?」
一人の英雄がマグを落とした。
ビールがテーブルに飛び散る。
「彼女…お前の名前、言ったぞ。」
ユウジの声は震えていた。
ハルは笑いものにしようと軽く鼻を鳴らした。
だが、声は裏切るようにかすれた。
「おいおい…まさか、首都でこっそりファンガール作ったとか、ナギ?」
誰も笑わなかった。
テーブルの視線が、鋭い矢のようにナギに突き刺さった。
ミズキは一番近くにいた。
彼女の瞳は揺れ、驚きと…何かもっと危険なものが混ざっていた。
「ナギ…」
彼女の声は囁きよりも静かだった。
「あの女、誰?」
ナギは唾を飲み込んだ。
だが、言葉は喉に詰まった。
ステージでは歌姫が踊り続けていた。
まるで何もなかったかのように。
だが、彼女のステップ、指の動き、体のしなり。
すべてがナギだけに向けられているようだった。
まるでこの舞台は、最初から彼のためだけに用意されていたかのように。
ナギの息が止まった。
頭の中で響くのは、ただ一つの疑問。
「なんで…俺の名前を知ってるんだ?」
「ナギ」という名が、歌姫の歌声にのって響き続けた。
会場は凍りついた。
一瞬、まるで世界がその一言に縮まったかのようだった。
だが、歌姫は気づかぬふり。
柔らかく、魅惑的に笑った。
その声が会場を包み、皆の息を戻した。
「この素晴らしい店の記念日に…!」
「今夜は、店主のおごりで皆にドリンクを!」
ど10
観客が歓声で爆発した。
「うおお!」
「首都最高!」
「なんて祭りだ!」
テーブルが騒がしくなり、グラスがぶつかり合う音が響く。
笑い声と会話が一気に会場を満たした。
客たちの注目は、豪華なトーストと、トレイを抱えて走る従業員たちに移った。
だが、誰も気づかなかった。
歌姫がゆっくりとステージを降りてきたことを。
その歩みは、まるで踊るように優雅だった。
仮面の奥の視線は、一つの点に固定されていた。
彼に。
「ナ…ナギ…」
ミズキはまだ囁いていた。
視線を外せないまま。
ユージは身構えた。
いつでも飛び出せるように。
ハルは唇を噛んだ。
「なんか…嫌な予感がするな…」
ナギの喉が締め付けられた。
周囲は笑い、祝っていた。
だが、彼の世界は再び閉ざされた。
彼女の足音が近づいてくる。
ヒールの音が、胸の中で鐘のように響いた。
「彼女…まっすぐ俺に来てる…」




