75 「仮面の歌姫が呼ぶ夜」
「…気のせい、かな」
ナギは小さくつぶやき、ステージから目をそらした。
謎の仮面をつけた歌姫が、妖艶に踊り続けていた。
彼බ
彼は深く息を吐いた。
覚悟を決めるように、ミズキに身を寄せる。
「なあ…」
声はいつもより低く、かすれていた。
「ごめん。」
ミズキは目をぱちくりさせた。
話の意図がすぐには掴めなかった。
彼女はゆっくりとワインの杯をテーブルに置く。
「…何が?」
彼女の声は落ち着いていた。
だが、目に一瞬、警戒の色がよぎった。
ナギはテーブルの下で拳を握りしめた。
「あの日…お前が故郷に帰りたいって言ったときのこと。」
彼は少し頭を下げた。
「俺、笑って…地球のこと、余計なこと言った。バカなこと言った。」
ミズキは長い間、黙っていた。
その沈黙の裏には、思い出の海が広がっていた。
眩しい広間。
召喚されてからの初めての会話。
鋭いビンタと、心に響いた焼けるような痛み。
彼女は椅子の背もたれに体を預けた。
腕を組む。
「ふーん、思い出したんだ。」
唇の端がわずかに動いた。
「で、今更どうしたの?」
ナギは顔を上げた。
その瞳には、いつもの挑戦や嘲笑はなかった。
「今は…ただ、知っててほしかった。」
彼は静かに言った。
「後悔してるって。」
周囲の笑い声、グラスの響き、音楽。
仮面の歌姫の華やかな踊り。
そのすべてが、まるで二人だけの世界から溶け去った。
ミズキはステージに視線をそらした。
それでも、彼女の声ははっきりと響いた。
「私は言葉で許したりしない。」
「行動で示してよ。変わったってことを。」
「それなら…もしかしたら、信じるかも。」
ナギは小さく頷いた。
唇にわずかな笑みを浮かべる。
「わかった。約束な。」
その瞬間、ステージの歌姫が動きを止めた。
暗いマスクの隙間から、彼女の視線がナギを捉えた。
今度は確信した。
――気のせいなんかじゃない。
ミズキは柔らかく微笑んだ。
首を少し傾け、ナギの顔をじっと見つめる。
「ナギ、大丈夫?」
彼女の声は静かだった。
「なんか…別人みたい。まるで誰かにすり替わったみたい。何かあったの?」
ナギは小さく笑った。
だが、目には真剣な光が宿っていた。
「いや…ただのラグノルドのせいさ。」
「隊長?」
ミズキが聞き返す。
「そう。」
ナギは頷いた。
「あの地下室での二週間の訓練…」
彼はため息をついた。
唇には本物の、飾らない笑みが浮かぶ。
「怖い話に聞こえるだろ、わかるよ。」
「でもさ…実は、ここに来てから多分、一番いい時間だった。」
ミズキは目をぱちくりさせた。
驚いたように眉を上げる。
「マジで?」
「本気も本気。」
ナギは自分の手のひらを見つめた。
ぎゅっと握りしめる。
まるでそこに刻まれた傷を一つ一つ思い出すように。
「やっと…全部吐き出したんだ。」
「溜まってたものを全部。」
「地球から背負ってきたクソみたいな荷物…あの地下室に置いてきた。」
彼は少し背もたれに体を預けた。
軽い調子で、でも心から言葉を紡ぐ。
「これからは違う生き方をするよ。」
「昔のナギじゃなく…本物のヒーローになれる人間として。」
ミズキの目が少し見開かれた。
驚きと、信じられないという気持ちが混ざった表情。
「ふぁ…そんなこと言うなんて。」
「隊長、なんか…めっちゃ大事な存在になったんだね。」
ナギは静かに笑った。
そこにはいつもの皮肉っぽさはなかった。
「変な話だろ、でも、そうだな。」
「なんか…父親みたいな存在になった。あの、俺にいなかった父親みたいな。」
ミズキは勢いよく彼の方を向いた。
「え、待って…何?」
「知らなかった?」
ナギは軽く肩をすくめた。
「俺、父親いなかったんだ。いや、いたにはいたけどさ。」
「あのクズ、俺がガキの頃に他の女とどっか行っちゃって。」
「それっきり消えた。」
「行方不明って話だ。」
「母さんと俺は、どっかで死んだんだろうって思ってる。」
ナギは一瞬、言葉を切った。
自分でも予想外に、こう口にする。
「でもさ…知ってるか?」
「クズみたいに生きるより、死んだ方がマシなときもある。」
「そうすれば、少なくとも人前で恥ずかしくない。」
その声は落ち着いていた。
だが、二人を包む静寂の中で、言葉は鐘の音のように響いた。
ミズキは目を大きく見開いた。
彼をじっと見つめる。
驚き、悲しみ、そしてかすかな感嘆。
初めて彼が自信満々の「バカ」の仮面を外した瞬間だった。
「ナギ…」
彼女は静かに彼の名前を呼んだ。
その声には、今までなかった何かが宿っていた。
ナギはステージへと視線をそらした。
仮面の歌姫が歌い続ける姿を眺める。
少し苦い笑みを浮かべた。
「だからさ、誇れる過去は俺にはないかもしれない。」
「でも、これから…未来を作るチャンスはあるだろ。」
ミズキの視線が再び彼に落ちた。
今度は疑いではなく、慎重な、でも温かい眼差しだった。
ステージでは仮面の歌姫が音楽に合わせて優雅に舞っていた。
その声は会場を魅了し、誰もが引き込まれていた。
だが、最高潮の瞬間、皆が息を呑んだその時――
「…ナギィ…」
彼女の声が、はっきりと、鈴のように響いた。
会場全体がその名を聞き取った。
笑い声もざわめきも一瞬で消えた。
すべての視線が、呆然とするナギに注がれた。
「え…何…?」
ナギは信じられないといった様子でつぶやいた。
テーブルの仲間たちも唖然としていた。
「おい、ナギ…あいつと知り合いかよ!?」
誰かが声をひそめて言った。
ミズキは眉をひそめ、身を寄せてきた。
「ナギ…説明して。」
だが、ナギはステージから目を離せなかった。
仮面の歌姫が微笑んでいた。
その笑みは、ナギだけに向けられていた。
その瞬間、ナギの胸に不安が走った。
「彼女、俺を知ってる。…でも、なんで?」
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