118 「鋼鉄は虚空と出会う」
場に、気まずい沈黙が落ちた。
ギルドの空気すら、どう反応していいか分からないみたいだ。
あの破壊のオーラを纏った巨漢の戦士が、ついさっき「読めない」って白状したんだから。
あまりのバカバカしさに、みんなの恐怖が、朝霧みたいに少しずつ溶けていく。
カイレルはぱちぱちと何度か瞬きした。
情報を飲み込むのに必死だ。
ライトの手にある紙切れに目をやり、次にその仮面の、いつもの凍りついた表情をチラリ。
思わず、口から言葉がこぼれた。
「つまり……お前は……その……」
カイレルは大きく手を広げて、さっきのコル・トゥルをぶっ飛ばしたことを示す仕草をした。
「あんなことできるのに、紙一枚読めないってのか?」
ライトの赤い目が、キラリと光った。
なんだか少しむくれてるみたいだけど。
ま、きっと光の加減だろ。
(壊すのは本能だ。原始的。)
(でもこの……ぐちゃぐちゃの線っころ)
彼は軽い嫌悪を込めて紙を振ってみせた。
(これはもう、抽象だ。よっぽど面倒くさい)。
後ろから、プッと吹き出すような音が響いた。
さっきまで神経が張りつめて今にもぶっ壊れそうなブラリックが、もう我慢の限界だ。
顔を手のひらにぐしゃっと埋めて。
でも、肩がプルプル震えてるのを見て、誰だって分かる――涙が出るほどゲラゲラ笑ってるんだ。
アイレラでさえ、手で口元を押さえて、にやけ顔を隠そうとしてる。
【状況分析:対象オブジェクトが恐怖レベルの低下を示唆。感情「娯楽」への移行。不意打ちだが、潜在的に有用な変化。結果を固定せよ。】
ライトは彼らの反応をじっと見つめていた。
頭を少し傾けて、まるで珍しい生態を観察するみたいに。
「これ、面白いのか?」
純粋で機械じみた好奇心を込めて、彼は尋ねた。
少し離れたところで立ってた**ブラリック**が、プッと鼻を鳴らした。
「お前みたいな奴にゃ、どんな依頼もくだらねえって感じるだろ! 怪物なんか一瞬で灰にしちまうんだからよ」
「なあ、ライト。五匹の迷子ヤギを、視線一つで焼き払えんのか?」
赤い目が、戦士の方へスッと向いた。
「できるさ」
「でも、なんでだ? あいつらは怪物じゃねえよ。せいぜい……うるせえだけだ」
ギルド内に、再びくぐもった笑い声が広がった。
恐怖はすっかり吹き飛び、現実離れした不条理な空気に、みんな飲み込まれていく。
「わかった」
カイレルは後頭部をボリボリ掻いた。
この化け物じみた力と、日常のヘタレっぷりが、妙にチグハグだ。
「なあ、ちょっと……座ってろよ? なんか飲むか?」
彼は期待の眼差しで飲み物のカウンターをチラリ。
酒が、この重苦しい空気を少しでも溶かしてくれりゃいいのに、と心の中で祈る。
ライトはカウンターの方へ、ゆっくり頭を向けた。
赤い目が、エールの樽にじっと留まる。
(信じらんねえ。これが夢叶う瞬間か! ギルドだぜ、冒険者ども、アニメみたいなリアルライフ!)
一瞬、ためらったかと思うと、彼の姿勢に、ふと物思いの影が差す。
「……飲むよ。んで、飯はあんのか?」
カイレルには、予想外の安堵がドッと押し寄せてきた。
慌てて頷く。
「もちろんだ! 肉にパン、チーズ……何でも揃うぜ!」
「よし」
ガリガリと擦れるような声が、なんだか穏やかに響いた。
「感謝するよ」
「最近の……俺は、俺は、俺は……どれだけ経ったか、もう覚えちゃいねえ。奈落で過ごしたんだ」
「食うのは、あの辺の化け物の肉だけ。味はクソまずくてよ、胃を溶かすんだぜ。水を使わねえと。そいつは同じ奈落から湧いてくるヤツだけどな」
彼は、そんなことを、道端の宿屋で腐ったスープに文句言うみたいに、さらっと口にした。
ギルド内に、死のような静けさが落ちた。
暖炉の薪がパチパチと弾ける音だけが、耳に残る。
書記見習いのエリーは、顔色をますます失くした。
まるでスローモーションみたいに、ゆっくり床に崩れ落ちた。
気を失っちまったんだ。
マルティンの顔は、まるで生きたハリネズミを飲み込んだみたいな、歪んだ表情。
普段は動じないブラリックでさえ、口をぽかんと開けてライトを凝視してる。
手は、無意識に自分の腹に伸びてた。
どれだけ……どれだけ時間が経ったんだ……奈落で……化け物の肉を食らいながら……。
カイレルの思考が、棘みたいに頭に刺さったまま、抜けねえ。
恐怖のスケールが、飲み込めねえんだ。
滑る石の奈落――あれは伝説だぜ。
エリート騎士団の部隊すら、戻ってこねえ場所。
なのにこの……このライトは、ただの森でサバイバルするみたいに、そこで生き延びてたのかよ。
「俺……わかった」
カイレルの声が、再びガラガラに掠れた。
「マルティン! 一番いい席だ! 一番いい肉を! んで……んで、最強のエール! 今すぐよ!」
ライトは、周りの衝撃なんか、まるで気づかねえ様子だ。
いつもの形式ばった礼儀正しさで、こくりと頷いた。
一番でかい暗い隅っこのテーブルへ向かう。
影に溶け込むようなその姿。
残ったのは、灰の中の残り火みてえに、薄暗がりでチラチラ光る赤い目だけ。
怯えきった使用人どもが、右往左往しながら、次々と料理と飲み物運んでくるのを、じっと見下ろしてる。
あいつら、まるで古代の神に生贄捧げるみたいだぜ。
カイレルの命令が、鞭の音みたいにビシッと響いた。
混乱した使用人どもが、右往左往し始める。
すぐに、テーブルが湯気立つ料理の山となった:豚のすね肉、パン、チーズ、エールの壺。
ライトはテーブルの上座に、どっしり腰を据えた。
暗い影が、光を飲み込むみたいに微動だにしない。
パーティーメンバーたちは、向かいの席におどおどと座り込む。
まるで、腹ペコのドラゴンとフォーマルディナーに招待された気分だ。
「えーっと……いただきますよ」
カイレルが、喉に何か詰まったみたいな声で言い、まずパンをちぎった。
ブラリックは肉にガッポリ食らいつく。
ライトはチーズを丁寧に摘まみ、シスター・エリサは祈りの呟きを漏らしながら、「客人」にチラチラと怯えた目をやる。
ライトは、じっと彼らを観察してた。
それから、手をスッと上げて、ブラリックがさっき切り分けた肉の塊を、さらっと掴んだ。
「おい!」
戦士が、ムカムカした声で飛びついたが、カイレルの視線に、ぴたりと口を閉じた。
ライトは肉をマスクにそっと寄せた。
静かな沙沙という音がした。
灰が烏炭からこぼれ落ちるみたいに。
そして、肉の塊が、ぱっと消え失せた。
「……毒じゃねえ。叫ばねえ」
ガリガリと擦れる声が響いた。
何か、ぼんやりとした満足感が、かすかに滲んでる。
「腐敗の洞窟の漏斗蜘蛛の後じゃ……これは、まあ食える。悪くねえ」
気まずい沈黙が、ぽっかりと広がった。
「え、えっと……気に入ったみたいで、よかったよ」
カイレルが、ぼそぼそと呟いた。
「俺の来た世界じゃ、食い物がこんな……無邪気に匂うなんて、滅多にねえんだ」
ライトは淡々と続けた。
視線が、パンの塊に落ちる。
彼はそっと触れた。
すると、パンが黒い灰に崩れ落ち、たちまち空気に溶け消えた。
「パンか。普通のパン、久々に味わうぜ」
シスター・エリサが、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あんた……あんた、ただの食べ物を焼き払うの?」
彼女は息を吐くように、震えた声で言った。
赤い目が、ゆっくり彼女に向いた。
「噛む必要なんかねえよ。エッセンスを吸収すりゃいい。時間節約だ」
「時間……それが俺たちのすべてだ。でも味は感じるぜ。体を通るんだからな」
ブラリックが、暗い顔で鼻を鳴らした。
「まあ、チャプチャプ音立てねえだけマシか」
ライトはそれを、無視した。
エールの壺を掴んで、自分の前にどんと置く。
中身の暗い液体が、ピタリと止まったかと思うと、たちまち蒸気の渦になって、ふっと消え失せた。
「酔いの飲み物か。興味深い」
「お前ら、これ飲んで忘れようってのか? 弱くなるため? 妙な習慣だな」
アイレラがついに我慢できず、くすくすと小さな笑い声を漏らした。
「神様……あんた、普通の飯を初めて見たみたいな顔してるよ。生まれた時からダンジョンで腐り肉食わされてたの?」
ライトは、ゆっくり彼女の方へ頭を向けた。
赤い視線に、底知れぬ深い影が、チラリとよぎった。
「腐り肉じゃねえよ。それよりマシなヤツ」
「時々……昔は喋れたヤツを」
その言葉の後で、もう誰も箸を動かしたくなくなった。
カイレルは、ようやく本質を悟った。
彼らの客は、ただ強いだけじゃねえ。
壊れてるんだ。
それが、何より怖えよ。
ライトの言葉の後で、息苦しい沈黙が重くのしかかってた。
それが、突然、ぶち破られた。
入口から響く、でかい自信たっぷりの笑い声。
重い鎧のガチャガチャ音。
ブラリックでさえ、ビクッと肩を震わせた。
ギルドの分厚い樫の扉が、勢いよくバーンと開き放たれる。
壁にガツンとぶつかる。
三人組が、玄関口にドカッと現れた。
たった三人。
それなのに、空間全部を埋め尽くすみたいだ。
鏡みたいに磨き上げられたアダマンチウムの鎧が、陽光を反射してまぶしい。
マントには、最高位の証――「金剛の槌」の赤いバッジが輝いてる。
王国中の誰もが知ってるパーティーだ。
リーダーの、髭面の巨漢が、背中に二刀流のハンマーを担いで、部屋を見回す。
見下したような視線が、カイレルにピタリと止まった。
「おおっと、こりゃあ『暁の影』じゃねえか!」
その声は、岩崩れみたいにドスドスと轟いた。
「聞いたぜ。お前ら、何か変な生き物狩りに行ったんだとよ。毛皮でも持ってきて自慢か? それとも、また空振りで、偉そうに空手で帰ってきたのか、このクソ野郎ども!」
ゴルムの取り巻き――敏捷な女弓手と、贅沢なローブを纏ったガリガリの魔導士男――が、鼻で笑うように嘲る笑みを浮かべた。
カイレルは、背筋にゾクッと冷たいものが走るのを感じた。
なんか言い返そうか、説明しようか。
でも、言葉が出る前に、誰かが先手を打った。
部屋中の視線が、一斉に集まった。
「金剛の槌」のリーダーの、あの嘲笑の目も、つい引き寄せられる。
暗い隅っこの方へ。あそこに、ライトが座ってる。
アダマンチウム級の冒険者、ゴルム――その名だけでゴブリンどもの群れがビビり散らす男――が、眉をひそめた。
危険に慣れきった目が、ギュッと細まる。
いつもの脅威はねえよ――魔力のオーラも、筋肉の膨張も。
でも、見えるのは、ボロボロの黒い鎧だけ。
異常なほど、ピクリとも動かねえ姿。
そして、影の中でチラチラ光る赤い目。
あれは、恐れも、挑発も、興味すらねえ。
ただ、床の埃を見るみたいに、ゴルムを眺めてる。
「おいおい、お前らの隅っこに、どんなクソ人形隠してんだ?」
ゴルムが、でかい声で吠えた。
鋼鉄の手袋に包まれた指が、ビシッとライトを指し刺す。
「新しいお守りか? 見たところ、何回かぶっ殺されてんのに、まだウロウロしてんじゃねえか」
部屋の静けさが、完璧なものになった。
暖炉の灰が、ポロッと落ちる音すら、耳に響く。
ライトは、ゆっくり、めちゃくちゃゆっくりと、頭を向けた。
凍りついた仮面のヘルムが、今度は真正面からゴルムを捉える。
赤い目が、アダマンチウムの巨漢を、じりじりと睨みつける。
スキャンしてるみたいに。値踏みしてるみたいに。
「アダマンチウムか……」
低い、ガリガリ擦れる声が響いた。
まるで壁そのものから漏れ出るみたいだ。
「固え素材だ。俺の世界じゃ、これで……いい的を作ったもんだ」
一拍、置いた。
そして、次の言葉が、空気に氷みたいな、無感情な好奇心を乗せて、ぽっかり浮かぶ。
「お前も、固えのか?」
この未知なる物語の旅路に、
「ブックマーク」という道標を頂けますと幸いです。
そして、もしその旅が少しでも貴方の心に響いたなら、
「5点評価」という最大の賛辞を賜りたく。
何卒、宜しくお願い申し上げます。




