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116「鋼の爪に潜む影」

冒険者ギルド「鋼の爪」の朝は、いつものように騒がしかった。安っぽいエールと焼きベーコンの匂いが充満する。煤けたステンドグラスの窓から差し込む朝日が、空中で舞う埃をキラキラと照らし出す。


受付カウンターには新米冒険者たちが群がっている。掲示板に貼られたゴブリン討伐や迷い猫捜しの依頼を、彼らは興奮と不安が入り混じった目で眺めていた。


ベテランたちはガハガハと笑いながら、傷だらけの身体を誇らしげに見せつける。そして次の酒を注文する。


空気はざわめいていた。無数の会話。貨幣のチャリンという音。木製のテーブルに叩きつけられるジョッキの、ガチャンという音。


そんなテーブルの一つで、二人の歴戦の冒険者が話していた。戦いの痕が刻まれた鎧を身にまとっている。彼らはゆったりと昨日の噂話をしている。


「…でさ、結局、ボルガンのじいさんがあのバジリスクの契約を取り下げたらしいぜ」


一人が濃いエールをぐいっと飲みながら、鼻で笑った。


「なんでも、都から誰かを雇ったとか」


「ケチめ」


もう一人がぶつくさ言いながら、ナイフを砥石で研ぐ。


「俺らのパーティなら、三分の一の金で済んだのに」


「そういや、『夜明けの影』はどうなった? カイレルたちのグループだよ。なんか北のモンスターを追っかけてったって話じゃなかったっけ?」


「ああ、あれはただのモンスターじゃない、らしいぜ。でっかい依頼だ」


彼は少し間を置いた。


「もし成功したら、ギルドのランクが一気に跳ね上がるな。まだ三、四日はかかるんじゃね?」


彼らの会話を遮るように、奇妙な現象が起こった。


酒場の喧騒が、まるで見えない布で音を拭き取られるように、徐々に静まっていく。まず入り口近くの騒がしい声が消えた。次に中央のざわめきが止まる。


不気味で不自然な静寂が広がった。暖炉の薪がパチパチと燃える音だけが、不自然に響く。


全員の視線が、まるで操られるように、巨大なオークの扉へと向かった。


その扉が、重量に反して音もなく開いた。


そこに立っていたのはカイレルの一行だった。だが、数日前に自信満々で出発したあのグループとは別人のようだ。


鎧やマントは厚い埃と乾いた泥で覆われている。布はところどころボロボロに裂けていた。


顔は死人のように青白い。目は恐怖に取り憑かれたように大きく見開かれ、虚ろだった。


彼らはまるで処刑を待つ囚人のように、動かず突っ立っている。


だが、酒場を包んだ静寂の本当の理由は、その後ろから現れた。


そして、彼らの後ろからゆっくりと現れた。その姿は、まさに歩く悪夢だった。


その装いはただ黒いだけではなかった。それは光すら呑み込む永遠の深淵、漆黒の無そのものの色だ。深い傷と凹みだらけの鎧は、金属ではなく、まるで石化した影から鍛え上げられたかのようだった。


そこからオークの床に、黒く粘つく何かがポタポタと滴り落ちる。断続的な短い跡を残していた。


その姿全体から漂うのは、甘ったるい腐臭と、鮮血の銅のような匂い。そして魔法の放電のようなオゾンの気配が混ざり合った悪臭だ。その臭いは鼻をつき、歴戦の戦士たちでさえ吐き気を催すほどだった。


だが、最も恐ろしいのはその顔だった。いや、顔を隠すものだ。


鎧と同じ暗い素材でできたマスクは、歪んだ表情を浮かべていた。まるで死の直前の苦悶で凍りついた叫び声のようだ。古びて傷つき、無数の欠けやひびが入っている。


左の眼窩。そこに目があるはずの場所には、ただ一つ、小さく、しかし耐え難いほど鮮烈な紅の星が燃えていた。


その赤い目は瞬きもせず、動くこともない。ただ燃え続け、魂を凍らせるような冷酷な無関心を放ちながら、ゆっくりと酒場を見渡した。


その視線は、まるで狂った神の虫眼鏡の下で蠢く虫けらのように、誰もが自分を無力に感じるほどだった。


「…なんてこった…こいつは…死者? 動く死体か?」


若い魔術師の頭にそんな考えがよぎった。彼は思わずテーブルから飛び退る。


「…でも、死霊術の臭いがしない…」


「…あいつら何を連れてきたんだ…? どんな化け物だ…?」


ベテランの一人が心の中で叫んだ。手は本能的に剣に伸びた。しかし、指は純粋な動物的な恐怖に縛られ、動かない。


「…あの視線…俺を見てない…」


「俺を突き抜けてる。まるで俺が空気みたいに。」


カイレルは酒場の中を数歩進んだ。数百の視線に背中を刺され、冷や汗でシャツがじっとりと濡れるのを感じる。


心の中で必死に祈った――ライトがただ入り口に留まってくれと。だが、背後にその存在を、はっきりと感じていた。まるで喉元に突きつけられた灼熱の刃のようだ。


彼の足音だけが、張り詰めた静寂の中で重々しく響く。


カウンターに近づくと、老いたマーティンが震える手でエールのジョッキを握っていた。目を大きく見開いてカイレルを見つめている。事務員の顔は、新品のパーチメントよりも白かった。


「カイレル? 先祖の骨にかけて…」


マーティンが掠れた声で呟いた。彼の視線が一瞬、カイレルの背後、扉に立つ暗い影に滑る。まるで火傷したかのように慌てて目を逸らした。


「お前…生きてたのか。もうダメかと思った…今月の依頼で一番ヤバい契約だったぞ」


マーティンの声は震えていた。カイレルは彼が自分たちのボロボロの姿だけでなく、顔に張り付いた言葉にならない恐怖も見ているのだと悟った。


「任務は完了した」


カイレルは声を平静に保とうと力を振り絞った。そして、カウンターにその生物の残骸を置いた。


マーティンは恐る恐る、まるで静寂を壊すのを怖がるように、残骸をじっと見た。指が埃で汚れた。


「…これで終わり? でも…これだけ?」


「頭は? せめて牙とか…いや、これ、ただの埃じゃないか」


彼の声はさらに小さくなった。


「ちゃんとした証拠がないと、ギルドは…」


「これで全部だ」


カイレルが歯を食いしばり、鋭く遮った。背後で空気が一層冷たくなるのを感じる。


「あいつからは何も残らなかった。分かったな?」


マーティンの目に、困惑と高まる恐怖がちらついた。彼は再び、こっそりとカイレルの背後、扉に佇む動かぬ影に目をやる。そこからは死そのものの気配が漂っていた。


「カイレル…」


老人は声を震わせ、身を乗り出して囁いた。


「何が起きてるんだ? あれ…何だ?」


「なんでお前たち、まるで死神に踏みつけられて、そのマントを汚したこと謝ってるみたいな顔してんだ?」

この未知なる物語の旅路に、

「ブックマーク」という道標を頂けますと幸いです。


そして、もしその旅が少しでも貴方の心に響いたなら、

「5点評価」という最大の賛辞を賜りたく。


何卒、宜しくお願い申し上げます。

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